桜の花びらが舞う校庭を、卒業生たちが歩いていく。下級生たちが取り巻いて、名残を惜しんでいる。その光景を、俺たちは屋上から眺めていた。俺たちも知り合いの先輩たちに、さっきまで別れを告げていた。今日はあとはホームルームを残して、帰るだけだ。そのホームルームが始まるまでのちょっとした時間を、俺はこうして春樹と過ごしている。
 あと1年、春樹と一緒にいられる。そして俺は1年後のこの日まで、いやその日を過ぎても、名前の分からない春樹への感情を、自分の中に潜めてこの学校を去る気でいる。

「・・・風が強いな」
 俺が手すりに寄りかかって下を見ながら、隣りの春樹に言った。
「ああ」
 彼は横で、俺とは反対に背中を手すりに預け、答える。
「なんで、桜が咲き始める頃って、強い風が吹くのかな。せっかく咲いてきたのに、もったいない」
 舞う花びらが、風にあおられてこの屋上まで飛んできていた。日の光にちらちらと照らされながら・・・。
「そうだな」
 と言って春樹は体を逆にして、俺と同じように下を見た。
「・・・ほんとに卒業しちゃったな、東条先輩」
「うん」
「あの先輩が、泣くなんてな・・・」
 しんみりと、春樹は言う。
「うん」
「なんだよ、さっきから素っ気ないな。何か考えてんのか?」
「ん・・・その、恵美(えみ)先輩、きれいだったなって思って・・・。ほんとにお似合いだよな、あの二人・・・」

 東条先輩はバスケ部の主将で、生徒会長だった。副会長で、校内一の――こういう言い方は今時あまりしないので、少々恥ずかしいが――いわゆるマドンナの恵美先輩と付き合っていた。二人並ぶと本当に絵になってて、彼らは同性からも異性からも人気があって、全校生徒の憧れの的だった。東条先輩は卒業式で在校生代表の送辞に対して答辞を読む時、感極まって後半声を詰まらせたのだ。

「ほんとに、なんつうかさ、二人とも映画かドラマにでも出てきそうな感じだったよな。美男美女でさ。なんで、ああいう人たちが普通に高校生やってたんだろ」
 春樹が視線を空に移して、言う。今日はとても晴れていて、雲もほとんどない青空が広がっていた。
「うん・・・寂しくなるな」
「・・・どっちのことだ?」
 彼は手すりにつかまりながら、俺のほうを向いた。
「え?」
「東条先輩と、恵美先輩」
 どういう意味か分からず、俺はこう答えた。
「そりゃ、両方だよ・・・」
「でも、どっちが強い?」
 俺は一瞬考えた。春樹も俺も、普通に女と付き合う部類の男だと、互いに認め合っている。違うかもしれない、と俺が思い始めてることは、彼には秘密なのだ。この先もずっと・・・。だから、春樹が何故こんな質問を俺にぶつけるのか、分からない。悟られたくない・・・そう思った俺は、やっと口を開いた。
「ん・・・そりゃ、恵美先輩・・・」
 すると春樹は少し、俺のほうに寄って、囁くように言った。
「ひょっとしてお前、好きだったとか?」
 俺は少し安心した。やっぱりこいつは女のほうなんだ、と・・・。俺の感情も告白しなくていいのだ、と・・・。
「うん・・・実はちょっとね・・・憧れてた。でも結局、見てることしかできなかったけど」
 本当は、恵美先輩のことは確かに憧れてたけど、”好き”というのとは違っていた。
 春樹はまた離れた。
「だよな」
 校庭に残る生徒たちは、まだ互いに何か語り合っている。桜の花びらは一つ、二つと昇ってくる。
 そして、春樹はまた下を見る。俺はさらに言う。
「あんなかわいい人、他にこのガッコにいないもんな。新入生で、入ってくれればいいんだけど」
 笑顔さえ交えた。
 春樹は瞬きをし、少し黙っていたかと思うと、また俺のほうに近づいてきた。・・・さっきより、距離は近い。
「でも・・・お前も・・・」
 口調が変わったのが、俺に分かった。この時彼に”?”って顔をして見せていたと思う。
 顔を近づけてきて、俺の顔と交差したかと思えば――いきなり、首筋に唇をつけてきた。
「香純(かすみ)・・・かわいいぜ」
 唇をつけられていた時間は、ほんの1、2秒だったのだろうが、俺にはもっと長く感じられた。その温かい感触を、俺は固まりながら感じていた。何が起こったのか、分からなくなった。が、はっとして春樹を押しのけた。
「なっ・・・何すんだよ!? 変なことするなよ。・・・冗談よせよ」
 焦って、作り笑顔で俺は言った。
「変じゃねえよ」
 だが、春樹は真顔だった。再び近づいてきて、俺の瞳を見つめた。逃れられない俺。
 次に吐かれた春樹の言葉に、俺の心臓は止まりそうになった。
「ガッコ引けたらHしねえ?」
 さらに顔を近づけ、迫ってきた。俺は彼の瞳を見ながら、自分の耳を疑った。冗談だろう・・・冗談だろう? そう、思いたかった。
「な、何言ってんだよ・・・。やめろって言ってるだろ、変な冗談は・・・。意味分かんねえよ」
 少しずつ春樹から離れ、俺はまだ笑顔を消さずに言った。
「ホームルーム、始まっちまうよ。行こうぜ、もう」
 早くこの場から去りたい。そう思い、俺は手すりから離れた。今のは、なかったことにするのだ。
「俺のこと嫌いか?」
 すると彼は素早く動いて俺の腕を引っ張り、あごをつかんだかと思うと、唇を重ねてきた。俺は驚きのあまり、目を閉じることなんてできなかった。・・・キスしてる、俺たち・・・。
「んっ・・・」
 数秒のち、やっと彼は唇を離してくれた。――もう、決定的だった。俺は自分の中で、そして二人の間で、何かが壊れるのを感じた。唇を離した後、鼓動が高鳴りすぎて、倒れそうだった。
「すっ・・・好きだよっ。でも春樹の言ってるそれとは・・・違う!」
 『ファースト・キスが・・・』と俺は思いながら言った。初めて触れた他人の――春樹の唇の感触を、まだ覚えている。まるで自分の唇が、熱を持ち始めたみたいだった。壊されたくない、壊されたくない、なのに春樹は・・・春樹は、壊そうとしている。彼が俺と同じ感情を持っていた、というのも、まだ信じたくなかった。
「でもよ、Hで友情深めるって手もあるぜ」
 俺の思いとは裏腹に、すまし顔で春樹はいとも簡単に言った。彼のほうが俺より背が高いので、見下ろされてるような気がした。
「ないよ!!」
 俺は怒った。だが、彼は俺の唇に人差し指を当て、また瞳を見つめた。
「俺はあると思う」
「ない・・・。・・・なんでだよ。なんでこんな・・・。お前、女が好きなんじゃなかったのか? 俺を、だましてたのか? お前お、男が・・・」
「っていうより、お前が好きなんだ。・・・なんかありがちだけどさ、入学の時からずっと・・・ってやつ?」
 俺は泣きそうな気分になった。こんな告白って、あるか? あまりにも、デリカシーがなさすぎる。
「嘘だ。お前、俺を女の代わりにしようとしてるんだろ・・・。俺のこと好きなら、なんでそんな軽く言うんだよ。なんでだよ、ひどいよ・・・。」
 だんだん目頭が熱くなってきた。俺は顔を真っ赤にして、震えていた。
「春樹・・・。俺だって、俺・・・は、ずっと隠して卒業したかったのに・・・。ずっと、お前とは友達でいたいから・・・。告白するつもりなんて、なかったのに・・・。なのに、お前はこんな簡単に・・・。なんで、そんなことができるんだよ」
 俺は自分の頬に最初の一滴が流れるのを感じた。屑折れそうになるのを、春樹が抱き止めるのも・・・。
「・・・悪い。俺、正面切って言うの恥ずかしかったから、こんなふうにしか言えねえんだ。・・・ごめんな、香純・・・。じゃあ、お前も俺のこと・・・」
 俺の髪をなでながら、ゆっくりと語る春樹。
「好きだよ・・・」
 春樹の腕の中で涙声になって、俺は言った。


「い・・・痛くしないで・・・」
「そんなこと言っても最初は痛いぜ」
 一糸まとわぬ姿になって、春樹と俺は、安ホテルの一室にいた。今は、ベッドの上。横になったまま、春樹が俺を後ろから抱きしめていた。そこまで全て、彼がリードした。俺はいつも体育の授業などで見覚えのある春樹の体を、何故かまともに見るのが恥ずかしかった。
「いっいやだ・・・怖い・・・っ」
 これじゃまるで女だ、と思いながらも、俺は初めてへの怖さで、か細い声を出してしまった。
 春樹は俺の腕を後ろからなでさすりながら、言った。
「そう震えるなって。できるだけ優しくしてやるから・・・」
 春樹は、こういうことには手馴れているのだろうか。――俺が初めての相手じゃないのか。そう思うと、少し悲しくなった。他にも、違う誰かを抱いたことがあるのか・・・。
「お前って・・・」
 俺は首を後ろに振り向けて、そのことを聞こうとした。
「何も言うな」
 そう言って、振り向けた俺の唇にキスしてきた。ちょっと離し、俺の体を自分のほうへ向かせ、また続きをやった。入れられてきた春樹の舌を、俺は受け入れ、自分からもからませた。

――その後は、春樹に全てを委(まか)せた。いや、委せたというより、最後のほうは互いに求め合った。彼は時に優しく、時に激しかった。彼が俺の中にいる時、怖さも段々消えていった。俺は、彼の腕の中でまた泣いた。

 春樹の背中を見て、俺は初めて自分が爪を立ててしまっていたことに気付いた。その、赤いうっすらとした跡を見ながら彼に寄り添っていた。汗は、彼の背中にまだ少し残っている。
 と、春樹が体を動かし、俺を仰向けにした。俺の両手首を握り、囁いた。
「どうだ? 俺のこと・・・前より好きになったか?」
「そんな聞き方、やめろよ。・・・どうして今、こんなことしようと思ったの?」
 視線を横にずらしながら、俺は聞いた。
「誰よりも好きだからさ」
 そう言うと、また唇を重ねてきた。
「んっ・・・」
 今度は俺も、目を閉じられる。・・・しばらく、長いキスに酔った。
「そういやさ、お前の名前・・・変わってるよな」
 キスが済むと、春樹は言った。
「・・・女みたいだから?」
 春樹に抱かれたままの俺。顔は間近にある。
「ん・・・いや・・・」
「いいよ、自分でも分かってるんだから。俺が生まれた頃、”かずみ”にするかどっちにするか親が迷ったらしいんだけど、音が濁るからって、結局母さんが”かすみ”に決めたんだって」
「へえ・・・」
「子供の頃は、散々親を恨んだよ。入学して、初めて名前を呼ばれる度に『かすみです』って先生に訂正してさ、周りの同級生にもくすくす笑われて、どれだけ恥ずかしかったか」
「・・・今は?」
「うん・・・でももう、慣れた。今じゃ割と気に入ってるよ。あんまりないし、個性的だしさ」
 春樹は俺の瞳を見つめる。髪を少し、なでた。
「俺も・・・好きだぜ、お前の名前。ここのガッコ入って、初め苗字で呼んでて、下の名前で呼ばせてもらえる日が待ち遠しかった」
「それなら・・・俺もなんだ、実は。でも俺は、そういう感情なのかどうか、ずっと分からなかったけど」
「そうなんだ。嬉しいな、なんか。・・・あ、さっきの質問、お前まだ答えてないぜ」
「え?」
「俺のこと、前より好きになったかどうかって・・・」
「・・・す、きに・・・なったよ。・・・春樹は? 俺のこと、嫌いにならなかった? 俺、初めてだから何も分からなくて・・・」
 恥ずかしそうに、俺は上目遣いで聞く。
「何言ってんだ、そんなわけないだろ。・・・大好きになった」
 と言い、春樹は俺を強く抱きしめてきた。


 あくる日に、俺と春樹は桜の舞う校庭を校舎へ向かって歩いていた。意地悪な風が、またも桜の花々を散らしている。これから咲き誇ろうとしているのに・・・。
「・・・んっ」
「どうした?」
 春樹が振り返る。
「ん、ちょっと、花びらが口の中に入っちゃって・・・」
 吐き出そうかと思った一瞬後、俺はふと噛み締めてしまった桜の味に、諦めた。――それはほんのりと苦く、春の香りがした。
 1年後のこの季節、俺たちはどんなふうになっているのだろう、と思いながら、俺は春樹の横で校舎へと急いだ。


END


春霞