ザァー・・・。波、波の音がする。いつも聴いた海の声。でも・・・今夜の海は、何故か激しく泣いている。――いや、怒っているのだろうか・・・分からない。何だろう、そのせいか、今夜はまるで眠りにつけない。眠ろうとすると、かえって眼が冴えるほどに・・・。
瞬は、たまりかねてベッド(といっても土台は冷たい石の台)から跳ね起きた。
「つ・・・!!」
同時に体中が痛んだ。今日は、特別師にしごかれたのだった。
「・・・」
瞬は、一瞬ためらったが、外に出てみることにした。師の目を盗んで、静かに小屋から抜け出した。
ザザー・・・ン ザァーン・・・。
海は、相変わらず激しい感情を表していた。
「寂しいんだ・・・」
“さ び し い”・・・。
瞬は、思い起こした。数年前、ここアンドロメダ島へ来た時のことを・・・。自分の身代わりとなって、デスクィーン島へ行った、兄一輝のことを・・・。
(兄さん・・・)
いつの間にか、小高い岬の上へ来ていた。辺りは真っ暗だったので、海もまた暗かった・・・黒かった。ただ、大きな波の音だけが、不気味に瞬の耳に入ってくるだけだった。その波の音が、瞬の今の胸の内を、心情を、物語っているようで、とてもやるせない気持ちだった。・・・心なしに、頬には涙が伝わっていた。
瞬は、草の生えたそこへ腰を下ろした。
(しばらく、夜の海でも見ていよう・・・。眠くなれば、帰ればいい・・・)
ふと宇宙(そら)を見上げると、月がそこにあった。 霞がかかって、とてもきれいな月だった。
「そんなとこに寝ていると、風邪ひくよ」
突然、聞き知れぬ少年の声。・・・知らぬ間に、寝てしまったらしい。瞬は、すぐさま体を起こした。
「え・・・?」
そこには、やはり少年が一人立っていた。その少年は、髪は銀色で肩まで伸び、瞳は蒼(あお)・・・見たこともない、とても美しい蒼色をしていて、
少しつりあがっていた。 ――とても端正な顔立ちだった。
「あの、君は・・・?」
「俺? 俺は、ナダってんだ。・・・ほら、あそこの丘の、小屋に住んでる」
そう言って、少年はある方向を指さした。
瞬は、変に思った。あんな所に、小屋なんてあったろうか・・・? そう瞬時考えて、指された方向に眼を向けた。そこには、赤い屋根の可愛らしい
小屋がきちんとあった。
「・・・?」
(今まで、気付かなかっただけかな・・・?)
そう思い、改めて“ナダ”と名乗る少年の顔を見た。
・・・少年――ナダもまた、瞬に微笑を浮かべて見せた。
「!」
同時に、背筋がぞくっとした。ナダは、笑んでも瞳はきついままだった。瞬は少し、狼狽した。
「ぼっ、僕はしっ、瞬って・・・」
「いや、君のことは知っている。瞬、少なくとも、俺達は初対面じゃない・・・」
「え・・・?」
どういうことか、分からなかった。この人に会うのは初めてなのに・・・?
だが、何故か問う気は起こらなかった。自分でも分からない。
・・・しばしの沈黙。
”聖闘士(セイント)・・・!”
この言葉が、急に心にともされた。
瞬の、まだ癒(い)えていない傷が少し・・・痛んだ。
このアンドロメダ島には、瞬に特訓する“師”が何人かいるが、瞬は彼らを“師”とは思っていなかった。特訓といっても、瞬は彼らに痛めつけられているばかりであった。・・・“師”というより、むしろ“敵”というべきか・・・?
それでも、たった一人、瞬に情を向けてくれる人がいた。今小屋で眠っている、唯一 瞬が“師”としている、『アルグ』という男だ。彼らの中では、最も年が下らしい。
瞬はアルグを、心の拠り所としていた。厳しくても、“特訓”と呼べることをしてくれていた。だが、アルグは他の奴らと同様に、仮面で顔を隠していた。聖闘士になれたら、素顔を見せてくれるかもしれない・・・瞬はいつもそう思っていた。
ナダは、黙ったままである。瞬は、先程から、何かしらナダに異変が起きているのを感じ取っていた。何なのだろう・・・? 初めのうちは、あまり気にも留めていなかったが、徐々に、胸騒ぎが激しくなる・・・。そうしているうちに、その異変が眼につくようになった。
「!!」
(・・・ナダ!?)
驚いたことに、ナダの透き通るような銀色の髪が、ゆっくりではあるが黒へと変化していくのが瞬にも分かった。――いや、髪だけではない、ナダのガラス玉のような瞳も、何もかも、瞬に見覚えのある、懐かしいものに変わっていった。
(まっ、まさか・・・!?)
瞬は、疑いながらも、眼をつむってみた。そして再び眼を開けた時、・・・もうそこに、ナダと呼べる少年はいなかった。
「な・・・っ、にっ、兄さん・・・!?」
瞬は、自分の眼を疑った。しかし、眼に入るのは、懐かしい兄、一輝の姿だけだった。
「あ・・・兄さん、ど、どうして・・・!? 本当に、兄さんなのか・・・!? ナダは・・・!?」
瞬は、自分でもどうしようもないくらい、頭が混乱していた。震えるその手で、兄一輝に触れてみた。感覚はある・・・実在している!
「瞬、慌てるな。――だが、俺はもう行く・・・。これをお前に渡してな・・・」
そう言い終わるや否や、薄い霧が、一輝の周りにたちこめた。
「瞬っ、これを・・・!! お前は、聖闘士になる・・・!」
そう言い残して、一輝は・・・一輝は、霧の中に溶け込んだ。
「まっ・・・待って! 僕は・・・兄さん、話したいんだ・・・僕は・・・!!」
瞬の叫びも、そして霧も、波の音にかき消された。
「あ・・・」
海はまだ、叫んでいる。その揺れる波に、軟らかい、おぼろげな月の光が、こうこうと照っている。
瞬は、そこに崩れた。
掌(てのひら)を見ると、何かが入った、親指くらいの小瓶が一つ、載っていた。
(・・・)
海の叫びは、やがて、安らぎに満ちていった。・・・
「おい、瞬っ、起きな! 昨夜(ゆうべ)何をしていた! 今日は遅いぞ!!」
「あ・・・、はっ、はい・・・!」
瞬は、慌てて起きた。
アルグは、外に出た。それを見送りながら、瞬は、頬が濡れているのに気付いた。
(泣いていた・・・? 夢の中で・・・? あれ、どんな夢見たんだったかな・・・?)
自分は、見た夢は覚えているほうなので、思い出そうとした。
だが思い出せない。浮かんでこない。
(まあ、いいか。それにしても、昨夜の海は静かだったな・・・嘘みたいに。
おかげで、よく眠れた)
「瞬――瞬っ! 早く・・・起きたのか!?」
アルグが叫ぶ。
「はっはいっ! すぐ行きますっ!」
瞬は急いで、外へ駆け出した。
・・・瞬が出ると、吹き込んだ風がベッドにのっていた草片を宙に舞わせた。
・・・一つの小瓶が床と衝突し、開(あ)いた口から、手紙らしき紙切れが顔を覗かせた。・・・
“俺は、**・・・”
瞬の脳裏に、ふっと浮かんだものがあった。
金色の砂地の上を、二つの影が一声のする方へ向かっていた。
「どうした? お前、今日は変だぞ・・・しっかりしろよ、これから仲間(あいつら)の育てあげた『ナダ』と格闘(ファイト)だからな。今日からナダもお前の師匠だな。はは・・・」
微笑みながら、アルグは言った。
「え・・・!?」
瞬は顔を上げた。が、やがてうつむき、眼を閉じた。
――海は、ただ風と対話するだけ・・・。
END