部活の終った後、いつものように友人と別れ、駅のロッカーにユニフォームなどの入ったバッグを預けた清太は、トイレへ寄った。
 鏡を見ながら、髪の乱れを直している時に、ふと思った。
――自分は何をやっているのだろう。
 愛してもいない男のために、前髪を整えている。あんな男のために、見繕ってどうするというのだ?

 啓二の策略にはまり、彼と付き合い始めた清太だったが、初めのうちはただの好奇心や幼い欲望が自分を占めていた。  だが、最近になって、彼からのベルが増え、メッセージの内容も強制的なものになってきた。あまつさえ、この間など、同じ電車の車両内で彼の姿を見つけた時は、戦慄して目を合わせられず、すぐに逸らした。嫌な汗をかきながら、吊り革を、思わず握り締めたものだった。彼はというと、帰宅ラッシュの人々の間で揺られながら、ただ不気味に微笑むだけだった。

 やはり、彼は自分の体を求めているだけなのだろうか。こんな男だと分かっていれば、ニ度目に体を許すこともなく、付き合い出すこともなかった。清太は後悔を始めていた。
 かといって、すぐに別れたいかと自らに問えば、答えはノーなのだった。今でも、彼からの誘いのメッセージを受け取っただけで、体が疼いてしまう。昨日の夜も、そうだった。一体、自分は彼に何を求めているのか。啓二に、恋人的な優しさなど求めてはいない。それは、光樹だけで十分だった。啓二を恋人だとは、思っていない。ただ、体だけの関係があれば良い。
――そう、清太は啓二の体を求めていた。メッセージをもらっただけで、その前に抱き合った時の官能を思い出してしまう。こんな自分が嫌だと思いながらも、いつも彼との約束場所へと向かってしまうのだ。

 今日は、彼に食事に誘われていた。清太が行ったことのない、高級なシティホテルのレストランだ。そこへ行くための服など持っていない、と昨日電話で彼に話すと、制服でいいと啓二は言った。
 一度家に帰り、シャワーを浴びることも考えたが、それでは待ち合わせの時間に間に合わないし、どうせ食事の後は部屋へと誘われ、浴びることになるのだ。
 清太は駅のトイレを出て、そのホテルへ向かうため、ホームへと脚を伸ばした。


 清太が、案内係の女性に案内されて窓際の席へ行くと、啓二が気付いて片手を軽く振ってきた。清太は頭を少し下げるようにして、挨拶の代わりにした。
 席に着くと、彼女は去り、ウェイターが水をサービスしに来た。その後、タキシードを来た30代くらいの男性がメニューを持参し、二人に渡した。「メニューがお決まりになりましたら、お呼び下さい」と言い、彼は下がった。
 啓二と向かい合わせの席に落ち着いた清太は、少し周りを見回して、やはり居心地の悪さを感じた。周りは、仕事帰りや商談のサラリーマンや、上品そうなドレスやスーツをまとった婦人ばかりだ。大人たちに囲まれて、少年は自分一人だけではないか、と清太は身を固くした。

「啓二さん、僕やっぱり、こんな格好じゃ恥ずかしいよ」
 両手をテーブルの下で結びながら、少年は小声で青年に言った。
「それで十分だ。別におかしくはない。学生の正装は、制服だろう?」
 確かに、結婚式や葬式などには、制服を着たりするものだが、少年はもうちょっとましなスーツなどを着てきたかった。といっても、家のクローゼットにはカジュアルなものしかなく、背伸びしたブランドのスーツなど、今現在では持っていないのだが。
「そうかもしれないけど・・・」
 少年は、口篭もるしかなかった。

「それより、メニューは? どうする?」
「あ、うん・・・」
 青年に言われ、清太はこれも上品な作りのメニューを開き、眺めてみた。値段は書かれていなかったが、一品料理は聞いたこともない料理の名前がずらっと並び、コースなどは高いかもしれないので、躊躇した。こういう大人向けのレストランでは、何をどう頼めばいいのかも、分からなかった。いつも光樹と行くのは、ファースト・フードやファミリー・レストランばかりだから・・・。
 諦めて清太は、メニューをテーブルの上に下げた。
「よく分かんない。啓二さんが決めて」
 啓二は軽く微笑んで、「じゃあ、俺と一緒でいいか?」と聞いた。彼の前には水しかなく、まだ注文していないようだった。
「うん、いいよ」
 少年に言われ、青年は先程のタキシードの男性を呼んで、彼に料理の説明を聞きながら、二人分の同じコースを注文した。啓二はワインを頼んだが、清太は未成年なので、オレンジ・ジュースにした。よりによって子供っぽい飲み物を選んでしまったので、清太はまた後悔した。だが、サッカー部の練習の後で疲れているので、酸味のあるものが飲みたかったのだ。

 やがて、前菜、スープ・・・と、コース料理が時間を置いて順番に運ばれてきた。その間、二人はそれとない会話を続けた。今日の部活はどうだった、とか、疲れてないか、とか、そんなことを啓二は聞いてきたので、清太も普通に答えた。
 そんな会話をしながら、清太は彼がいつ「部屋を取ってある」と言い出すのかと、緊張した。しかしそれより、もっと言うべきことを、少年は思い出した。その時、魚料理――スズキのソテーが運ばれてきて、ウェイターがテーブルを離れるのを待ってから、少年は顔を上げた。

「啓二さん」
「なんだ?」
 彼は魚料理用のナイフとフォークを手に取り、答えた。
 清太は少し時間を置いて、眉を歪めながら口を開いた。
「最近、どうしたのさ? ベルもしつこいし、電車にまで乗ってくるなんて・・・。やめてよ、お願いだから」
 啓二は『なんだそんなことか』と言わんばかりに一つ息をついて下を向き、スズキを丁寧に切り分けながら、こちらを見ずに言った。
「俺が怖いか?」
 すぐには答えられず、清太は戸惑った。
「怖いなんて・・・。でも、約束した時以外に現れるのは、ほんとにやめてほしいの。それこそ、怖くなっちゃう」
「じゃあ、毎日逢ってくれるか?」
 悪びれず、啓二は今度はこちらの目を見た。ナイフとフォークは、一旦置いた。
 清太はあっけに取られ、口をぽかんと開けてしまった。

「冗談でしょう? そんなの」
「そうだな、俺だって仕事がある」
 少年は『もう』と口の形だけ動かして、声には出さずに反応した。ますます、啓二という男の心が見えなくなった。
「仕事があるなら、放課後までついてこないでよ。大人なんでしょ? 僕、あんたが変な人だって、思いたくないの。そんな人と付き合ってるなんて思うと、嫌なの」
「お前が、俺と逢う時にもっとしっかり、俺を見てくれればな」
「・・・見てるじゃない」
 少年は、上目遣いに相手を見た。
「お前が見てるのは、光樹なんだろう?」
 こちらの目を見据えて、青年は言った。
 こんなところで恋人の名前を言われ、清太は言葉を失った。彼は、光樹に嫉妬しているのだろうか。


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