防波堤の上に立った時、ひときわ強い風が吹いて、僕の髪を乱した。
駅を降りて、初めは歩いていたけれど、海が近づくにつれて、僕の足どりは少しずつ早まっていった。防波堤へと続く、ススキの茂る坂道を、僕は小走りに来たので、少し息が上がっていた。両膝に手をついて、呼吸が整うのを待った。
目指す先に・・・海に、逢いたい人がいる。
僕がどうしても、光樹のサーフィンする姿が見たい、なかなかお互いのスケジュールが合わないから、少しでも逢える時間が欲しい、と言ったら、光樹がそれならと、海で待ち合わせることにしてくれたのだ。
今日は土曜日。光樹は朝からサーフィン仲間と海に来ていて、サッカー部の練習が終わった僕と、早い夕方の時間、ここで落ち合うことになっていた。僕は一度家に帰ってシャツとジーンズに着替え、急いで電車に飛び乗ってきたのだ。
青空は見えないが、うっすらと日が差している。防波堤には、最初に光樹と海に来た時みたいに、階段に座って海を眺める人や、本を読んでいる人がいる。海岸に目を移すと、ビーチ・バレーをしている人たちがまず目に付く。帰り支度を始めている海水浴客の中、まだ泳いでいる人もいる。服を着たままシートを敷いて、その上でただ海を見ているだけの人もいる。そのあたりは、遊泳地帯。光樹たちがいるサーフィン・ゾーンは「サーフ・ビレッジ」と呼ばれていて、白い柵で区切られている。僕は、そっちのほうに視線を移した。ここから浜まではまだ遠いので光樹がどれかは分からないが、サーフボードを操っている人々の群れが見える。
息が整うと、僕は座っている人たちをよけながら階段を駆け下りた。砂浜に降り立ち、今度ははやる気持ちを抑えて、ゆっくりとサーフ・ビレッジへと向かう。スニーカーが砂に埋まって、上手く歩けないのがもどかしかった。
ある程度歩き、僕は逢いたい人の姿を探した。・・・そして、見つけた。沖に向かって、いい波が来ないか、海に漂いながら待っている人たちの中、沖からやってくる波を捉え、たった今ボードの上に立ち上がった人がいた。それが、光樹だった。こちらに向かってくるかと思えば、おもむろにボードの向きを変え、再び波に戻り、それを数回繰り返すと、ボードを乗っていた波にぶつけ、波の後ろ側へ出た。そして、ボードから降りた。波は崩れた。彼は、まだ僕に気付かないようだ。
・・・かっこいい。素直にそう思えた。初めて見た、光樹のサーフィン。僕はしばらく立ち尽くした。
駆け寄ろうかと思ったが、光樹は再びボードの上に腹ばいになって、沖へと向かってしまった。沖に出るまで、こうやって手でこいでいくのだそうだ。これをパドリングというらしいんだけど・・・。光樹は、僕に気付かないまま、そばにいるサーフィン仲間たちと何か楽しそうに話している。僕は、その雰囲気を壊してしまうのは気が引けたので、歩いてきたほうへ引き返して、また立ち止まって海を見た。
――どうしよう。このまま、彼がサーフィンを終えるまで、待ってようか。でも、その間することもない。仕方なく、僕は海を眺めた。風は、相変わらず強い。片手で、乱れる髪を抑えようとするけど、無駄だった。諦めて、風の思う通りに任せた。
ふと右横を見ると、少し離れたところに、若い女の子が、ビニール・シートを敷いて座っていた。そばには、黒いスポーツ・バッグと、大き目のかごバッグ、カラフルなお弁当やお菓子、水筒などが置かれていた。シートのそばには、中身のない、鈍いシルバーのボードケースがあった。女の子は、時折海に向かって声をかけている。その様子から、彼女はサーファーの彼を待っているらしいのがわかる。
やがて、彼女がひときわ高く彼の名を呼ぶと、海からその彼らしい、若い男が上がってきた。半袖のウェットスーツを着ている。まずは、彼女に手渡されたタオルで髪を拭いた。砂浜に直接腰を下ろしながら、彼女に何か話し掛けている。女の子は、水筒に手を伸ばし、中のものをコップ型のキャップに注ぎ、男に優しく手渡した。湯気が立っているので、熱い飲み物と分かる。彼は一気にそれを飲み干すと、また差し出したので、彼女はおかわりを注いでやり、次に自分の分を注いだ。コップが二つついているタイプの水筒らしい。お弁当を彼に勧める彼女。コップを片手に、おかずの一つをフォークで刺してほおばる彼。やがて、おしゃべりを始める二人。・・・とても、仲の良さそうな・・・。
僕は、彼らを見ながら、何も持ってきていないことが恥ずかしくなった。僕も、サーファーの彼(と呼んでいいのかまだ分からないけれど)と待ち合わせているのに・・・。ただ、彼に逢える、彼に逢いたいって気持ちでいっぱいで、そこまで気が回らなかったのだ。
再び光樹のいるほうを見ると、彼はまだ僕に気付かず、波乗りを楽しんでいる。僕はその場に腰を下ろした。そう、ビニール・シートだってない。このまま座りつづけていたら、砂の湿気でジーンズが濡れてきてしまうかもしれない。しばらくして、僕は立ち上がった。
海からさらに遠ざかり、海岸と防波堤の中間あたりまで来た。やはり、海などの景色を眺めるしかない僕。
大きな声で、彼の名を呼べばいいのは分かっている。でも僕には、それができない。僕が呼んだら、周りにいるサーフィン仲間に、彼が変に思われてしまうかもしれない。まだ、彼らにはカミング・アウトしていないらしいから・・・。
思えば、彼が僕のわがままを聞いてくれたのだ。海なんかで待ち合わせたら、二人の関係がばれてしまうかもしれないのに、彼はあえてその危険を冒してくれたのだ。・・・こんな思いをするなら、サーフィンするところが見たいなんて、言うんじゃなかった。
そう思ううち、ようやく海から上がった光樹が、ボードを抱えたままこちらへ向かって走ってくる。
もう何度も、彼の体は見ているはずなのに、日の光の下で見ると、印象が違った・・・輝いていた。その、笑顔も。彼は上半身は裸で、下はサーフィン用の白いトランクスを穿いている。・・・だんだん近づいてくる。
だが僕は、彼に背を向けて避けるように、防波堤へ向かって歩き出した。
「あっ、清太! なんで逃げるんだよ?」
彼は走っていたので、すぐに僕に追いついた。僕の肩に手を置いた。
「怒ってるのか? ごめん、すぐに気付かなくて。いつ頃着いた?」
「さっき・・・」
彼の手の感触を肩に感じながら、彼の顔を見ずに、僕は言った。
「何分前?」
「いいじゃない、そんなこと・・・。それより、こんなとこで話してるのみんなに見られたら、やばいんでしょ? 僕、ここ上がって向こうで待ってるから・・・」
そのまま、階段を上がろうとした。
「待てよ。やっぱりずいぶん待ったんだろ? ごめん、謝るよ。つい、波乗りに夢中で・・・」
彼は、僕の腕をつかんだ。
「放してっ。みんなに見られちゃうよ・・・っ。着替えて、噴水のところまで来て。早く、二人きりになりたいんだ」
そこで、悪い予感が当った。サーフィン仲間の一人が、光樹の後を追って僕らのところまで来てしまったのだ。
「光樹、今日はもう上がるのか?」
彼は短髪で、光樹と同じく裸にトランクスの姿だ。ボードは仲間に預けてきたようだ。眉の太い人だった。彼は僕を見、光樹を見て、
「誰?」
と光樹に聞いた。
「ああ、この子?・・・友達の弟だよ。今日ここで、待ち合わせてたんだ」
僕はその言葉を聞いて、一瞬自分の中の時間が止まったような気がした。
――友達の・・・弟・・・?
仲間の人は、少し怪訝な顔をした。
「そう・・・。かわいい子だね。な、夕飯(めし)どうする? ・・・その子も一緒?」
「いいや、この子とこれから、買い物しに行く約束してたんだ。だから、今日はここで別れるよ」
光樹は、まるで前もって用意していた言葉を吐き出すように、すらすらと言ってのけた。僕は何も言えなかった。そこで、仲間はやっと納得したような表情を見せた。
「そっか。着替えは?」
「それは一緒に行くよ。(とここで光樹は僕のほうを見た)・・・上がって、噴水のとこで待っててよ。すぐ行くから」
さっきは「待て」って言ったのに、僕が取ろうとしていた行動を、彼は逆に指示した。僕は内心戸惑いながらも、彼に合わせようとそれを表に出さないよう自然な感じを出して、こう答えた。
「うん。じゃ、後で・・・」
二人を後にして、階段を駆け上がった。
暖かい風
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