夜10時過ぎ、ベルが鳴った。
 ベッドに腰かけ、テレビを見ていた時だった。見ていたのは、バラエティー番組だ。
 清太は笑いを止めてリモコンで音量を下げ、立ち上がって勉強机の上に何気なく置いてあったポケベルを取り、画面を見た。――武司からだった。
『あいたい TELをくれ』
 たったひと言、それだけが緑色の液晶画面に浮かんでいた。
――あれから、武司には適当なことばかり言ってごまかして、逢っていない。彼にはまだ、涼とのことを、本当のことを、話していなかった。そろそろ彼も、何かに気付いている頃かもしれない。
 清太は少し迷ったが、やがて電話の子機を机から取ると、武司の携帯番号を押した。

 武司はすぐに出た。
「・・・清太か?」
「うん・・・。ベル、見たよ・・・」
 清太は緊張しながら、次の言葉を探していた。電話を耳に当てたまま、再びベッドのへりに腰かける。
「どうしたんだ? 最近・・・。ずいぶんつれないじゃねぇか。ほんとに忙しいのか? それとも、部活の練習で疲れてるのか?」
 その言葉からは、彼が自分たちの関係に気付いているかどうかは、まだ分からなかった。
 夏休みに入ってはいるが、サッカー部の練習は毎日のようにあった。
「うん、両方・・・かな。ごめんね、武司・・・」
 これで今日も諦めて電話を切ってくれるだろうか、と清太は期待と不安の入り混じった感情を込めて言った。
 だが、数秒の沈黙の後(のち)、彼は新たな言葉を繰り出してきた。今までは聞かなかった・・・。
「・・・清太。お前、何か隠してないか? この間まで、普通に逢ってたじゃねぇか。なのに、なんかよそよそしいぜ、この頃。何かあったのか? 彼氏か? ・・・それとも涼か?」
 受話口から届いた声に、清太は子機を握り締めた。やはり、分かっているのだろうか・・・。どちらにしても、もう話さなければならない時が来ているのかもしれない。

「武司、あのね・・・」
 勇気を振り絞り、ひとまずそこまで言った。ベッドについた左手にも、力を込める。電話の向こうで、相手は続きを待っているようだ。
「・・・僕もう、武司とは逢えないの・・・」
 どこか震えた声だった。
「なんでだ? どっちが理由だ?」
 彼氏か涼か、とは武司はあえて言わなかった。自分に言わせるためだ・・・。清太は思った。
「・・・涼・・・」
 目を閉じて、清太はゆっくりとその名前を吐いた。
 また、沈黙が数秒続いた。
「・・・逢ったのか? 奴と・・・」
 武司は電話の向こうで一つ息をついてから、言った。
「うん・・・。僕、涼が・・・涼が、好きなんだ・・・」
 聞かれる前に、清太は自分から告白した。言ってしまうと、不思議と胸がすっきりとした。

「なんで、急に・・・。ついこの間まで、奴のこと嫌ってたじゃねぇか、お前。・・・涼と、寝たのか?」
 呆れたように、武司は聞く。
「違う。いや、寝た・・・けど・・・。そうじゃなくて、デートしたんだ。そしたら、彼が・・・涼が優しいって、僕のことほんとに本気なんだって、分かって・・・」
 一つ一つ言葉を選ぶように、清太は答えた。
 武司のほうでは、清太が涼のことを「彼」などと呼ぶのは初めてだったので、そのことからも、清太の言葉に嘘はないことが分かった。
「デートって、どんな?」
 苦々しげに、武司はまた聞く。
「どんなって・・・。ドライブ。美術館に行って・・・」
 そこで清太は止めた。あの絵のことなど、口では説明のしようがない。他人には、分からない。あの日のことは、自分の心の変化は、自分と涼にしか分からないのだ・・・。

「とにかく、武司とはもう逢えないの。・・・これ、別れ話だよ」
 清太は開き直って、多少強く言った。小さい音でついていたテレビを、リモコンで消した。途端に、部屋は静かになった。目の前にちらつくものも、ほかの音もなくなったから。
「待てよ。電話だけでか? それはないだろ。話をつけるなら、逢わねぇか。ずっと逢ってなくて、いきなり別れるなんて電話越しに言われたって、こっちはかなわねーじゃねぇか。そうだろ?」
 そう言われ、逆の立場に置き換えてみると、確かにそうかもしれないと清太は思った。
「・・・分かったよ。じゃあ、どこで逢う・・・?」
 電話だけで済まそうと当初は考えていたが、やはりそれは甘かったようだ。二人は、互いの家の中間地点にある東京のひと駅で、落ち合うことに決めた。


 翌日に、清太のほうは部活があるのでそれが終わってから、3時に駅前の喫茶店で逢うことにした。駅頭の、目印である前衛的なオブジェの前で武司が待っていると、少年は改札口から現れた。紺色のシャツに、カーキ色のパンツを穿いていた。
「・・・待った?」
 清太は遠慮がちに聞いてきた。
「いや」
 武司は首を軽く振って、くわえていた煙草を手で外し、下へ落としてスニーカーでもみ消した。
 二人はゆっくりと、逢うことにしていた近くの店へと脚を運び出す。周りには、夏休みを楽しむ若者や、営業のサラリーマンらしき人々が行き過ぎる。
――清太だけではなく涼も、このところ電話をかけたり大学のレポート課題のため図書館などで会ったりすると、よそよそしくしていた。清太の話を――彼が最近逢ってくれないことを話すと、態度があきらかに以前とは違う。そこから、武司は薄々清太とのよりが戻ったのではないかと、思い始めていたのだった。しかし、俄かには信じられない自分もいた。それを確かめたくて、昨日思い切って清太に聞いた。
 最悪別れるとしても、彼と逢って、直接その口からその言葉を聞きたいと、そうでなければ納得できないと、武司は思っていた。表面的には遊びのような関係だったが、少なくとも、清太が好きだったから・・・。好きでなければ、抱いたりはしない。

 店に入り、奥の作り付けのソファーがある4人席に二人は落ち着いた。頼んだものが来ると、武司が先に無言でアイスコーヒーのストローをくわえる。それを見て清太も、アイスティーが入ったグラスにレモンのポーションと砂糖を入れ、ストローから中の液体を一口飲んだ。注文の時、軽く何か食べるかと武司が聞くと清太が頷いたので、二人の間にはサンドイッチの皿が鎮座していた。
「・・・先に、食べていい?」
 清太が聞くと、武司は「ああ」と軽く答える。
「食べてるのに悪いが、煙草いいか?」
 今度は清太が、口にサンドイッチを入れる直前に頷く。武司はジーンズの後ろのポケットに手を伸ばし、箱とライターを取り出した。手元で火をつける。
 しばらく、武司は相手が一つ食べ終わるのを待ちながら、煙を吸っては吐いた。清太を慮って、その度に首を横へ動かした。吸わなければいいのだが、こういう時は煙草でも吸わなければ、やっていられない。

 相手が一段落したのを確かめると、武司は煙を一つ吐いた後口を開いた。
「・・・涼と逢ったのって、いつだ?」
 清太はテーブルに置いたままのグラスに手を添えながら、顔を上げる。
「デート、したのが・・・?」
「ああ」
「先々週の、日曜日・・・」
「寝たのも、その日か?」
 武司は無感情に聞いて、煙草の灰を灰皿に落とした。
「ううん。その日は、何もなくて・・・。その次・・・」
「そうか・・・。デートの日は、キスもなしか?」
「いいでしょう? どっちでも・・・」
 清太はその時、武司にこんなことまで話すのは嫌な気がした。涼との、二人だけの思い出にしたかった。だが武司は許してくれない。
「で、それから寝たわけか。・・・よかったか?」
 清太はきっとした顔になった。
「ちょっと、やめてよ! そんなんじゃないんだから・・・っ」
 興奮と怒りとで、顔を紅潮させた。武司に聞かれ、自分で答える度に、きれいな思い出が汚されるような気がした。
「俺はただ、奴がお前をいかしたかどうかが知りたいだけだ」
「なんでそんなこと気にするの? 関係ないでしょ、二人のことなんだから・・・。僕は涼が好きになったの! 好きだから、許したんだ。何もかも・・・」

 それを聞いて、武司はまた一つ煙を吐く。
「・・・分かったよ。お前も、本気なんだな・・・。そんなに怒るなんてな」
 苦笑してみせた。
 清太は、勢いに任せてもう一つ許せないことを・・・前から気になっていたことを、言った。
「だいたい、あんたがいけないんだ。涼をけしかけたりするから・・・。僕をいかせるとか、なんとか言って・・・。それがなかったら、僕はもっと早く、涼を・・・」
「でも、このことがあったから、お前は結局奴と前より強く結びついちまったんじゃねぇのか?」
 思わず息を止めた。武司から返ってきた言葉は、清太には意外なものだった。言われてみれば、それも一理あるかもしれない。だが、これはやはり自分をかばっているだけの台詞だ。言い逃れだ。清太は懸命に言葉を探した。

「で、お前は・・・俺のこと、もうなんとも思ってないわけか?」
 清太の思考を、武司が止めた。
 その静かな声に清太はびくりとして、すぐには返事ができずにいた。湧き上がっていた怒りも、萎えてしまった。ここで頷いたら、彼が気を悪くすると思ったからだ。二人が付き合って、何度も抱き合ったのは事実なのだから・・・。その時は自分も、彼が好きな素振りをしてみせていた。恋愛感情が、皆無だったわけではない。彼の体に惹かれ、抱き合うのが目的だったとしても・・・。
「遠慮せずに、言えよ」
 武司が促すと、清太は深く呼吸してから口を開いた。
「・・・ごめん、武司・・・」
 言ってから、ゆっくりと顔を上げた。彼は何故か苦々しげな表情を崩していた。煙草を、ガラス製灰皿の煙草受けに置いた。

「・・・そうか。それじゃ、しょうがねぇな・・・」
「え・・・?」
 もっと何か言ってくるかと思っていた清太は、相手の引きように拍子抜けした。
「涼と、仲良くやりな」
 武司は口の端に笑みさえ浮かべて言った。
「え・・・いいの・・・? それで武司は・・・。それとも冗談、言ってるの?」
 清太はテーブルの向かい側に座る相手の顔を恐る恐る覗き込んだ。それでも武司は表情を変えない。
「もう、俺のこと好きでもなんでもないんだろ。だったら、いいよ。涼と付き合えよ」
 彼は再び吸いかけの煙草を手にした。
 清太の気持ちが自分に向いているうちは、涼には譲るまいと思っていた。そうでなくなったのなら、仕方がない。それに、これからまた涼から清太を奪うというのも、自分らしくない気がした。
「ほんとに、・・・いいの・・・?」
 清太はまだ信じられず、さらに聞く。
「いいって。応援してやるよ。お前らのこと・・・」
「武司・・・」
 ありがとう、と続けて言いそうになったが、それもこの場には不似合いな気がしたので、清太は言葉を飲み込んだ。

 もっと修羅場になるかもしれないと、清太は出かける時覚悟していた。それが、予想外の結果になった。店を出てから武司と駅に向かって、まだ日の落ちていない夕方の道を歩く間も、しっくりこない感じがしていた。彼と涼との間には、自分の知らない何かがあるのだろうか。そういえば、この二人は以前、付き合いかけていたようなことを、武司から聞いたことがある。あの時は話の途中で寝てしまったが、どこまで聞いたのだったか・・・。


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