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「ここ、空いてるか?」
 午前中の授業を終え、学食で涼が同じクラスの学生二人と談笑しながら昼食をとっているところへ、武司が声をかけた。2時限目は専門必修科目の講義で、武司も今まで同じ教室にいたのだが、涼のほうがわざと彼を避け、先に3人で学食へ来たのだった。彼らは会話を止めた。
「おお、早坂。いいよ、空いてる」
 涼の前にいた一人の学生が、横を振り向いて答えた。武司はその鈴木という学生の右隣にある椅子を引き、定食の載ったトレーをテーブルに置きながら座った。座るとすぐに左斜め前にいる涼の顔を見たが、すぐに目を逸らされてしまった。

「何話してたんだ?」
 武司は箸を持ち、皿に載った豚カツの一切れを挟んだ。
「うん。今の授業の話。ヘーゲルとドイツ観念論について、熱〜く語ってたわけよ」
 今度は涼の隣にいた津村という学生が、真面目ぶって言った。彼らは文学部哲学科の学生だった。
「嘘だな」
 その中に冗談めいた感情がこもっているのを感じ取って、武司は呆れたように鼻で笑った。
「あ、ばれた?」
「ほんとは、どうせテレビの話でもしてたんだろ」
「鋭いなあ。そう、昨日のドラマ、観た? ほら・・・」
 と津村はタイトルを言った。
「悪い。俺、ドラマあんまし観ねぇんだ。恋愛ものはさらにな」
 その台詞は、傍目には冷たいもののようにも受け取れるが、武司の抑揚に嫌味さは感じられなかった。
「やっぱそっか。一応聞いてみただけ。早坂、現実主義だもんな。ああいうの苦手っぽい。その割に、遊んでそうだけど」
「実際遊んでるけどな」
 それを聞いて、涼はどきりとして箸を止めた。それまで、黙って彼らの会話を聞きながら、武司とは違う定食に箸を進めていたのだが。

「な、早坂ってさ、彼女とかいるわけ?」
 隣の鈴木が一口ナポリタンを食べ終わった後、話の流れに乗じて聞いてみた。
「いねぇよ」
「じゃ、一人じゃなくてほんとに遊んでるんだ。大丈夫か、あっちのほうとか・・・」
 最後のほうは少し小声になり、鈴木は続ける。
「やめろよそんな話。昼飯時だぞ」
 涼が、やっと口を開いた。顔が強張(こわば)っていた。
「わりいわりい。羽柴はこういう話苦手なんだよな。なんか正反対だよな、お前たち」
 そこで、ひとまず会話は落ち着き、彼らは食べかけの昼食に手をつけた。
 食べ終わると、津村が先ほどの話の続きを始める。
「正反対なのに、お前らよく一緒にいるよな、入学してから。まあ、最近はそうでもなかったけど。お前らって、友達なわけ?」
「俺はそのつもりだけどな」
 武司が目を閉じながらお茶をひとすすりし、すました顔で言った。

「羽柴は?」
 津村が横を向いて尋ねた。が、涼は数秒黙ったままだった。やがて口を開いた。
「・・・だと、思うけど・・・」
 心の中では『こんな奴、友達なんかじゃない』と思っていたが、その本心は隠した。

「ふうん。なんか変だな。喧嘩した?」
 と津村。
「・・・まあ、な。俺、涼と話したいから、この後二人にしてくれるか?」
 それで、また涼の心臓が止まりそうになった。武司が自分のことを他の学生の前で名前で呼ぶのは、今が初めてだったからだ。二人の学生も一瞬きょとんとしたが、頷いて立ち上がった。
「そう。分かった。じゃ、俺たち行くよ」
 鈴木は武司に椅子を引いてもらい、その後ろをくぐり抜けた。津村と共に、席を離れる。

「・・・武司、お前・・・」
 ばれたらどうするんだ、と涼は言いたかったが、周りの学生の目もあるので到底言えなかった。
 二人は、まだ同じクラスや学科の学生に、特別な部類の男であることを告げていなかった。大学の中では他の彼らと同じように女のほうであると、偽って暮らしていた。
「まずかったか? お前、そんなに怖いか? でも、どうせ4年もいればいつかは分かっちまうことだぜ」
 言って、湯飲みのお茶を一口飲んだ。
「・・・」
 涼はまた黙ってしまった。これ以上武司とここで会話を続けていたら、さらにまずいと思った。
 そんな涼をよそに、武司は着ていた長袖シャツの左ポケットに右手を伸ばし、何か取り出そうとした。
「あ、やべえ。外じゃなかった」
 が、そう言ってすぐに手を下ろした。

「武司、なんだ?」
 涼は怪訝な顔をした。
「・・・これ」
 武司はいたずらっぽい素振りで、ポケットからわずかにそれの顔を覗かせてみせた。――煙草の箱だった。
「お前!」
 涼は立ち上がりそうになった。
「そんな驚いた顔すんなよ。お前の前で吸ったこと、まだなかったっけか? ああ、顔に出てるよ。まだ19だからってんだろ? ・・・つっても俺誕生日まだだから、18だったりするんだけどな」
 今は、5月の初めだった。
「1年くらい、待てないのかよ? ・・・いつから吸ってるんだ?」
「高校卒業してから。親の前でもまだだから、ばれてねぇよ。今は一人暮らしで、家と大学の外でしか吸わねぇ。・・・ちなみに今月中に19になる」
「・・・そうかよ」
 呆れながら、『不良』と涼は心の中で毒づいた。

「お前は? 誕生日」
 煙草は諦めてお茶の残りを全部飲み干した後、武司は聞いた。
「来年の、1月・・・」
「早生まれなんだな。・・・おっと、こんな話しようと思ってたんじゃねぇんだ。・・・なあ、涼・・・」
 武司はテーブルの上で腕を組み、前かがみになった。
「待て」
 言葉の続きを、涼は制した。
「外に、出ないか?」
 武司は一つ溜息をついた後、右手をテーブルの端につけて背中を伸ばし、頷いた。
「そうするか」


 二人は学食を出て構内の白い木製ベンチの一つに、落ち着いた。教材などを入れたバッグは、それぞれ自分の脇に置いている。そばにはクヌギの木が何本か立っている。青々とした緑が、そよ風に吹かれて二人の体や足元に動く影を落とした。
「涼・・・。仲直りしねぇか?」
 ベンチの背もたれに寄りかかりながら、武司が先に口を開く。涼の後ろに腕を伸ばして、ベンチの上部に載せた。
「何をだ?」
 下を向いたまま膝の上で手を組み、涼は低い声を出した。
「・・・より、戻さねぇか」
 オブラートに包まずストレートに、武司は言葉を吐いた。
「よりってなんだ? 俺とお前の間には、もう何もない」
 武司は呆れた。ベンチの上部を掴んでいた腕を、元に戻した。今度は膝の上に肘を載せ、涼の顔を覗き込む。
「何もって・・・。寝たじゃねぇか。お前、俺が好きなんだろ?」
 そう言われ、涼は眉を歪めて唇を噛み締めた。
「好きなんかじゃない! お前なんか・・・」
 頑なな相手に、武司は困って頭を掻いた。

「俺が悪かったよ。何度も謝ってるじゃねぇか。もういい加減許してくれたって・・・」
「許さない」
 涼はまっすぐに武司の目を見て相変わらず低く言う。
 はあ、と武司は一層大きな溜息をついた。取り付く島がないとは、このことか・・・。
 再び身を起こした。
「お前よ、友達もやめるつもりかよ? 俺と・・・」
 すると、涼は表情を少し変えた。寄せていた眉根を、離した。
「・・・」
「どうなんだよ?」
 クヌギの葉が、さらさらと音を立てて一層風に揺れた。その陰影が、武司の顔を涼にとって怖く見せた。
「それは・・・」
 入学して、一番最初に声をかけてきてくれたのが、武司だった。人見知りな自分に、他の学生との橋渡し役をよく演じてくれた。新歓パーティーの時も・・・。彼と寝る前は、確かにこの男とは友達になれると思っていた。彼が、あの夜キスをしてこなかったら・・・。関係が変わり、今度は彼が生まれて初めてまともに付き合う恋人になるかもしれないと、密かに期待した。その期待が、見事なまでに崩された。その失望に、涼は襲われていた。口では嫌いであるようなことを言ってしまったが、・・・好きだからこそ、裏切りが許せないのではないか。自分は、まだ彼のことが好きなのではないか。心の底では・・・。表面的には認めたくはない。だが・・・。今友達としてさえ彼を拒めば、彼が、武司が、永遠に離れてしまうような気がした。

「そこまでは・・・」
 申し訳なさそうに涼が言うと、やっと武司は顔を明るくした。
「じゃ、友達は続けてくれるな?」
「・・・うん・・・」
 涼はゆっくりと頷く。
「そうか。ま、もう一方の付き合いについては、ひとまず休戦てことで・・・。なあ涼、今日ちょっとこれから行きたいとこがあんだけど・・・一緒に来ねぇか?」
「行くって、どこへ?」
 脇にあった青いリュックを膝に抱え直し、涼は聞いた。
「楽しいとこだよ。・・・俺らの、仲間がいるとこ・・・」
「仲間・・・? お前、まさか・・・」
 涼は武司の顔をはっとして見た。
「友達・・・こっちの友達、もっと作りてえって思わねぇか? お前、今んとこ俺しか知らないんだろ?」

 今のは友達として、という意味だと、涼にも分かった。言われてみれば、確かにそうだった。高校の時、先輩に不意打ちなキスをされてから、彼はずっと同類に出逢ったことがなかった。その先輩は、同級生繋がりで親しくなって、憧れてはいた。だが、放課後階段の裏の暗がりで肩を抱き寄せられ1回キスをしただけで、付き合ったりはしなかった。その時、彼は「ごめん」と謝った。その触れた唇の感触を、涼は今何故か生々しく思い出した。冬のある日のことで、彼の唇は乾いていた。・・・
「・・・涼?」
 武司の声に、涼は甘い記憶に泳いでいた自らの頭部を軽く振った。
「・・・本当に、楽しいか?」
 リュックを握り締めて、ゆっくりと横にいる男に聞いた。
「ああ。みんな気さくだし。俺が色んな奴紹介してやるよ。話、聞きたいだろ?」
「うん・・・。じゃあ、行くよ」
 彼は今どこで何をしているだろうか、と思いながら、涼は立ち上がった。


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