翌日はよく晴れ渡っていた。
 澄んだ青空に、雲が形を変えながらゆっくりと風に流されてゆく。こんなふうに休みなく雲が流れていることに前に気付いたのは、いつのことだったろうか?
 涼は裏庭にある、大学の構内で一番大きく高いイチョウの木の下にいた。座っている木製の白いベンチは、構内のあちこちにあるものだ。扇形をした緑の葉たちの隙間から、木漏れ日が涼の目にも落ちてくる。まぶしい・・・。彼は思わず目を閉じた。昨日の夕方あの街を訪れてから、ひどく時間が経ったような気がする。たった一日のこととは思えないくらいに、それは長く感じた。

「よう」
 校舎の一つの陰から、武司が姿を現した。両手には飲み物らしい缶を一つずつ握っている。涼のそばに着くと、「そら」と一つを投げて寄越した。アイスコーヒーだった。
「暑いな、今日」
 肩から提げていた黒いトートバッグを自分の脇に置き、缶のふたをこじ開けると武司は言った。
「そうか?」
 彼の横で缶を開け、涼は一口飲んだ。ミルク入りだが、苦さもそれなりにある味だった。
 武司は開いた膝の間で両手で缶を持ち、前かがみになった。
「で、首尾はどうだった? 収穫あったか? 昨日は・・・」
 笑顔さえ交え、軽い調子で横の友人に聞く。
「そんな言い方するな」
 真面目な話をしようとしていた涼の心に、小さな怒りが湧いた。が、すぐに押し留めた。

 武司はコーヒーを飲み、ため息を一つつく。
「相手は、見つかったのか?」
 ベンチの背もたれに背中を預けたまま、涼はゆっくりと頷いた。
「可愛い子だったか?」
「そんなこと、いいだろ」
 またよくない雰囲気になりそうな気がして、涼は言った後で悔いた。今日は、険悪になってはいけないのだ。だが、武司に何か言われるとどうしても反発してしまう自分がどこかにいる。それを今は、出さないよう努力しなければならない。
「で・・・抱いたのか? その子を・・・」
 武司は涼の気分を損ねないよう笑顔を消し、今度は神妙な面持ちで聞く。
「・・・」
 すぐに首を縦に振れない涼の脳裡には、優理のはにかんだ微笑みが蘇っていた。ドライヤーを使っている自分の横顔を見ていた・・・。それが鏡に映っていた。
 彼は、純粋だった。あまりにも純粋すぎた。それゆえに自分は守れなかったのだろうか。少年一人を幸せにすることができなかったという自責の念に、涼は苛まれていた。

「・・・抱いたよ」
 ようやく、涼は小さな声で答えた。缶コーヒーを持つ自分の両手が震えているのを見た。
 イチョウの大木の葉たちが、風に揺れる音が二人の耳元に落ちる。昨日聞いたクヌギのそれよりも豪快な音だった。舞いながら地面に向かう葉もある。それが二人の足元にも落ちている。
「・・・そうか」
 武司は空を見上げた。
 放課後の裏庭には、ほとんど人が通らなかった。静かなものだ・・・武司は思った。遠くで、野球部の誰かがバットでボールを打つ時のたわんだ音がする。風に乱れそうな長い髪を、掻き揚げた。
「なんにせよ、お前はそれでよかったんだな。お前が自信持てたんなら、俺は何も言わねぇよ」
 息子を見守る母親のような目で、武司は言った。

「お前は・・・どうしたんだ?」
 そんな武司の目をありがたくなく受け取りながら、涼はぼそりと懸念していたことを尋ねた。
「え?」
「昨日・・・お前も、誰かと・・・」
 すると武司はフッ、と鼻で笑った。それは苦笑にも見えた。彼は缶を自分の横に置いた。
「寝てねぇよ。知らない奴探すのも面倒だから泰央を誘ってみたんだが、断られた」
 まだ顔は笑っている。涼はそれを聞き、表情を変えた。しかし、すぐには信じられない。
「本当か・・・?」
「ああ。俺は元々、どっちでもよかったんだけどな。誰かと寝ても寝なくても。行動したかったのはあくまでもお前のほうだから。俺が1回お開きにしようと言ったんだが、あの後泰央に色々諭されちまったよ。なんで涼、お前を放っておくんだって。・・・好きなら引き止めろってさ」
 苦笑したまま最後のほうは、呆れたような口調になっていた。

 涼は息を止めた。武司は照れ隠しにか、また横に置いた缶コーヒーを手に取る。
「全くあいつ、お節介なんだよな、昔から・・・」
 何口か中の液体を飲む。その動く喉仏を、涼は眺めた。唇から缶が離れたのを見計らい、口を開く。
「でもお前は、俺を追わなかった」
「ああ、追わなかったさ」
 しばらく、沈黙の代わりの葉のざわめきがその場を流れた。
「でも別に・・・お前が大事じゃないからじゃないぜ、それは。男になりたいってお前の望みを、叶えてやりたかっただけだ。俺じゃだめみたいだから・・・。その子に感謝だな」
 涼は何も言わず、コーヒーを飲む。飲み口のある缶の天部に、イチョウの葉や空、自分の顔など、様々なものが動きながらメタリックに映っていた。

「お前は・・・悔しくないのか?」
 涼は少し強く言った。缶をベンチに置いた。
「何が?」
「俺、結局・・・裏切ったことになるんだぞ。他の男と寝て・・・。お前は誰とも寝なかったのに、俺は・・・」
「後悔してるのか?」
 すると涼は顔を激しく上げた。横を向き、武司の目を訴えるようにまっすぐに見る。
「してない。後悔なんてしてない! 愛したさ。ちゃんと愛しながらその子を抱いた。・・・その子を、好きになった」
 だが言葉尻は下を向いてしまった。
 武司は感心したような表情をしてみせた。
「は、そうか。なら、その子・・・なんてんだ?」
「優理・・・」
「その優理と、付き合うことにでもしたのか?」
「いや・・・」
 涼は相手の顔がまともに見られなくなっていた。下か横を向いたままだ。
「なんで? 別に俺に義理立てなんかする必要ないんだぜ。付き合えばいいじゃねぇか、その子と。好きなんだろ?」

「話、逸らすな。俺は今、お前の気持ちが知りたいんだ。悔しくないのか? ・・・お、俺が・・・好きじゃないのか?」
 この時には、また顔を上げていた。複雑な表情をしているかもしれないと、涼は思った。
 また一つため息をつくと、武司は口を開く。
「好きだよ」
 わざわざ口にすることが煩わしいとでもいうような顔を、彼はする。
「そりゃちょっとは悔しいさ。けど、お前が心変わりしたんなら、しょうがねぇだろ。今は優理って子がいいんだろ? 俺より・・・」
「違う・・・。その子とは、付き合えないんだ」
 涼の表情がさらに曇ったのを、武司は見た。
「なんで?」
「お前が・・・まだ、忘れられないから」
 言った後、涼は唇を噛み締めた。

「なんで、そんな・・・」
 今度は武司が横を向いた。残っていたコーヒーを、全て飲み干す。かがんで、缶を地面に置く。身を起こすと、片手で頭を抱えた。眉を歪めている。涼はその表情に、彼がもどかしさを感じているのだろうかと考えた。互いに素直になれず、すれ違ってばかりいる自分たちに・・・。それは自分も同じ気持ちだ。
「じゃあ、どうすんだよ? 俺はどうすればいいんだ?」
 武司は表情を崩さないまま、手を下ろした。そんな武司を見ながら、涼は続ける。
「・・・俺はもう、お前を許してる。つまらないことで怒ってたって、今なら思える」
 膝の上で、右手を握り締めた。
「俺はお前が好きだ。でも今は・・・一人になりたいんだ。そのわがままを、今度はお前が許してほしい」
「涼・・・」

 優理と別れ、かといって今すぐに武司と付き合うこともできない。それはあまりにも辛すぎた。そこまで、自分の心は器用にはできていないのだ。優理のことは好きだが、結局彼を選べなかった。そのままでは彼を幸せにすることはできないと、分かったから・・・。彼の言う通り、今のままでは彼を裏切り続けるばかりだったろう。自分が武司のことを忘れられない限りは・・・。ただ、武司とは話がしたかった。理解し合いたかったのだ。自分が勝手に怒って彼を突き放して、一人芝居を演じていただけなのだから。
「許して・・・くれるか?」
 涼は1回瞬きした後、言った。
「・・・分かったよ。お前、なんか変わったな」
 その言葉を聞き、涼は初めて微笑みを見せた。残っていたコーヒーを彼も飲み干して、空になった缶を両手で回して弄んだ。

 二人、空を見上げた。雲は相変わらず流れているが、先ほど涼が一人で見ていた時とは、かなり様変わりしていた。その時涼は首に汗をかいていることに気付き、接している白い半袖シャツの襟に初夏の暑さを感じた。本当の夏は、まだ遠そうだが。
「でも、またそのうちあそこへ遊びに行こうな。あいつたち、お前のこと気に入ったみたいだし」
 深呼吸して、武司は口を開いた。
「ああ」
 微笑みながら、涼は頷く。
 いつか自分は、完全に武司への想いを断ち切ることができるだろうか。その時にこそ自分は、本当の意味で変われるのだ。きっと・・・。


*


 清太を送って駅のホームで別れると武司は、家路へ着いた。清太とは反対方向の電車だった。
 下宿アパートのある最寄駅に降り、そばのスーパーで夕飯の材料を買う。白いビニール袋を片手に提げ、ようやく夕日の出始めた道を行き、いくつかの角を曲がる。そしてアパートの自分の部屋へと辿り着いた。
 暗い部屋にはレースカーテンを通して、夕日がグレーのじゅうたんに注いでいた。部屋の明かりを点け、蛍光灯が瞬く。テーブルに一旦ビニール袋を置いて厚手のカーテンを引く。それほど激しくはない邦楽ロックのCDをかけ、再び袋を持って台所へと向かう。
 包丁でキャベツを刻みながら、自分の言動に目まぐるしく変わっていった清太の顔を思い出し、思わず武司は笑んだ。喜怒哀楽のはっきりした子だ、と思った。
 と、ごはんを炊いていなかったことに気付いて慌てて米を洗い、炊飯器にセットする。

 やがて一人分の夕飯ができあがった。豚肉の生姜焼き、刻んだキャベツ、味噌汁、ごはん、それがメニューだった。テーブルに運び終えるとCDを消し、代わりにテレビを点けた。7時前のニュース番組をやっていた。交通事故、国際情勢、芸能ニュース・・・それらを順々に報じていく四角い画面とキャスターの流暢な日本語・・・。芸能ニュースのコーナーでは、30代前半の女優が婚約会見を行っている模様を伝えた。相手は一般人らしく、彼女一人が立ったままきれいな服を着て画面に映って、レポーターに囲まれながら恥ずかしそうに笑顔を振りまいている。何かの仕事の後、といった感じだった。周りに促され、お定まりのように掲げられた左手の薬指には、ダイヤらしき宝石の入った指輪が光っていた。その女優に興味はなかったが、何故か武司は見入ってしまった。幸せそうな表情をした人間を見るのが、不思議と心地よかったからだ。

 ニュースの後にはクイズ番組を観ながら夕食を進めた。食べ終わり、台所で食器を洗う。またテーブルにつき、しばらくはテレビを観ていた。あぐらをかいたままズボンの後ろのポケットから煙草の箱とライターを取り出した。テーブルの上の灰皿を引き寄せ、1本を取り出して火を点ける。
 何回か吹かしてから、武司は煙草をくわえたまま立ち上がった。灰皿も右手に持つ。窓際に寄り、カーテンを開け、窓も開ける。そよ風が吹き込んで、黒髪をなびかせた。いつの間にか外は暗くなっていた。あちこちの家の窓にも明りが灯り、月さえ出ている。半月より少し太ったくらいだろうか。座る余裕のある窓の桟に腰かけ、武司は煙草の続きをやった。灰が落ちそうになると、右手に持った灰皿にそれを落とす。
 よく目を凝らすと、月のそばを雲がゆっくりと横切っていくのが分かる。月明かりに照らされた部分は、幻想的な陰影を作っていた。武司はそれを見ながら微笑んで、一際深く外に向かって煙を吐いた。
『涼・・・よかったな。やっと理想の相手に出逢えたんじゃねーか』
 吐かれた煙は、どこへ行くともなく暖かな夕餉の香りがする暗闇へと漂っていった。


END

(第6話終わり。第7話に続きます)



Bittersweet Carnival
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