プロローグ


 夏の夕方。学校を終えて、清太が駅に着いた時には、すでに電車を待つ列が乗車位置ごとにできていて、彼はその列の一つに連なった。
 電車が着くと、清太は後ろからどんどん押され、入り口付近から中のほうに行かざるを得なかった。降りる駅は、二つ目なのだが・・・。座席前のつり革はほぼ塞がっていたが、一つだけ手近に見つけた。窓の前には立てないので、人の肩越しに手を伸ばし、やっと握った。電車が発車するころになると、車内は帰宅ラッシュで満員になった。サラリーマンや学生の男女で、ごったがえしている。
 クーラーが効いてはいるが、この人ごみでやはり若干車内は暑い。清太は一つ、息をついた。ガタン・・・ゴトン・・・という電車の揺れに、1日の疲れを感じた。

 その時、どこからか妙な息遣いが聞こえてくるのが分かった。周りの人声や、走行する電車の音を耳から払いのけ、正体を探ろうとした。――どうもそれは、自分のすぐそばでしているらしかった。
 と、彼は体の後ろ・・・お尻に、何かが触れるのを感じた。その触れてきたものは、熱を持っている。それは、初め電車の揺れの弾みでぶつかったのかと思ったが、徐々に、揺れとは関係なく動き始めた。――大きさから、男の手だと分かった。

『ちっ・・・痴漢だ・・・どうしよう・・・』

 清太は、その主を探そうと、窓のほうを見た。まだ外は日が暮れきっていないので、車内の様子は見にくかったが、それらしき人物を、自分の背後に見つけた。40代後半から50代前半くらいの、サラリーマンらしき男だった。髪をオールバック気味にして、紺色のスーツを着こなしていて、身なりはきちんとしているのだが、その表情は、緩んでいた。窓の中で、目が合った。男はかすかに笑ってみせた。清太はぞっとした。

 清太に気付かれても、男は手を動かすのをやめなかった。このまま触り続けられるのかと思い、清太は困り果てた。声を出す勇気が、自分にはない。その時、男の手がつと清太の体から離れた。やっとやめてくれたのかと、清太はほっとした。
 だが少しすると男の手は、再び清太の後ろに触れた。が、今度はズボンのポケットに伸ばされ、がさ・・・という音をさせながら、中に何かがねじ入れられた。

『・・・何だ・・・?』
 男の顔を見ないようにして、ポケットに手を伸ばし、中に入れられたものをゆっくりと取り出した。手触りは紙で、2つ折りにされたそれを手元でそっと開き、見ると、何か文字が書いてあった。
『手紙・・・?』
 手帳サイズのその紙には、こう書かれてあった。

『次の駅で降りておじさんと遊ばないか? 1万円以上あげるよ。君ならいくらあげてもいい・・・』

『ま、待てよ・・・これって・・・』
 戸惑ったが、『1万円以上』の文字に目が止まってしまった。
 そんな中、背後の男が一層息遣いを荒くして、また妙な動きをしている。半分だけ顔を後ろに向けると、ズボンの金具を外す音がして、男は下を向いて何やらごそごそやっている。
『げ・・・。アレ出そうとしてるんじゃ・・・』
 清太は戦慄した。
『こっこんなところでやられてたまるか・・・!!』

「ついて来なさい」
 降り際、男は清太の耳に囁いて、先にホームに降り立った。並んで歩くのは嫌だったから、清太は少し離れて、男の後についていった。
 その駅には、その手のホテルが一つだけある。手紙のことといい、男には謎が多かった。ついていけば、いろんなことが分かるかもしれない。

「私はね・・・前から君のことを見ていたんだよ・・・知ってたかい?」
 部屋に入ると、男はスーツの上着を脱ぎ、そこにあった椅子の一つにそれをかけながら言った。
「知らないよ・・・あんたに会うのは初めてだ」
 清太のほうは夏服で上着がないので、男の動きを見ながらそのまま立っていた。
「君を初めて見つけてから、毎日駅や電車で君のことを探してた。同じ電車に乗れるように、工夫したりね・・・」
 清太は驚くと同時にあきれ、怖くもなった。今まで、全く気付かなかったからだ。
「あの手紙は・・・」
「ああ、あれはね、前もって書いておいて、いつかこういう日が来るのを待って、ずっと持ち歩いていたんだ。君がこっちの子だってことは、すぐに分かってたからね」
「なんで・・・?」
「目だよ。どこか憂いを秘めた、その目だ・・・」
 言い終わると、男は清太に近寄り、両腕に手をかけ、唇を重ねようとした。清太は慌てて男を振りほどき、逃れた。
「キ、キスはだめ・・・」
「それ以外は?」
 男はネクタイを外しながら、不敵に微笑んだ。

「光栄だねぇ・・・君ほどきれいな子と、ここまでほんとにありつけるなんて・・・」
 清太の中に入って動き始めると、男は言った。二人は向かい合っている。
 勢いにまかせ、彼は再び清太の唇を奪おうとし、今度は成功した。だが、清太は唇を離そうとする。
「んっ・・・キスは嫌だってば・・・!!」
「あと5万、5万やるから・・・!」
「舌、入れないで・・・!!」
「あと2万やるよ・・・!」
 この時点で、清太は少し後悔していた。そんな清太の胸の内など、男はおかまいなしだ。
「もう10万近くも払うんだ、何しても何発やってもいいだろう?」
 一度欲しいものを手に入れた男は、言葉も下品になっていった。清太と親子ほども年が違うことなど、もはやこの男の頭の片隅にすら、ないのだろう。

 男と、どれくらいの時間部屋にいたのか分からない。だが窓の外を見ると、すっかり暗くなっていた。
 乱れていた髪をオールバックに戻し、すまし顔で、男はネクタイをきっちりと締めていた。清太も、制服の半袖シャツのボタンを、留めている。
「あ・・・あんたさ・・・すごいんだね。見かけは真面目そうなのに・・・」
 今の姿からは、先ほどまでの大胆さは想像できない。清太が言うと、男は清太のあごに手をやりながら、答えた。
「そうやって会社ではマジメ人間、家では妻や子供を愛するマイホーム・パパをやってるとね・・・たまるんだ、ストレスが」
「へぇ・・・こっちのほうもでしょ?」
「ふふ・・・そうだね」
 そのまま、徐々に清太に顔を近づける男。
「それで・・・男の子の前では爆発するわけさ・・・」
「何・・・キスするの・・・? じゃ、あと1万ね・・・」
 男の気前の良さに乗じて、清太もこんなことを口にしていた。
 清太との口付けに酔いながら、男は囁く。
「君は・・・不思議な子だね・・・初めはいかにも初心(うぶ)な少年のふりをして・・・。終わった後はまるで小悪魔だ」
 片手を清太の頬に、片手を清太の後頭部に回し、続ける。
「罪な子だよ・・・」
「あんたもね」
「言うね」
 ふふ、と少し唇を離し、男は笑う。
 
 キスが済むと、男は再び着込んだスーツの上着の、内ポケットから財布を取り出し、札入れから枚数を数えて、清太に渡す分を出した。
「ほら、約束の10万だ」
 清太は下目使いに札束に目をやった。しばらく手に取らなかった。
「あんたってさ・・・何かやってるの? 僕みたいな男の子一人に、こんなにさ・・・」
「そりゃあ、私はずっと君が欲しくてたまらなかったから・・・。君ほどの子は、2丁目にだってどこにだっていないよ。それに、そんなに大きくはないが、会社を経営してるんでね。・・・さ、受け取っていいんだよ」
 清太は何も言わず、男の手から札を受け取った。「ありがとう」なんて言葉をここで吐くのも、変な気がしたからだ。

   金を渡すと、男は急に顔を赤らめて、そわそわしだした。
「でね・・・君さえ良ければだが・・・またこうして逢ってもらえないかな? 一度だけではとても君を知り尽くせない・・・もっと君を知りたいんだ・・・」
 清太の目を見ずに、下を向いて言っている。
 清太は札束を自分の頬に何気なく当てながら、男の顔をじっと見た。男は慌てた。
「そっそうだね、こういうことは普通1回だけだろうね・・・嫌なら仕方ない・・・」
 急に態度を変え、卑屈になった男に、清太は女々しさを感じた。少し、からかってやろうという気が起きた。そっと男の頬に手をやり、甘い声で囁いてみた。
「そんなんじゃ嫌・・・さっきみたいにワイルドな態度じゃなきゃ・・・」
 すると男は予期しなかったと見えて、驚き、さらに顔を赤らめた。硬直している。
『ふふ・・・面白い・・・まるで恋する乙女だね・・・』
 清太は自分の中で、そうひとりごちた。

『今日のこれって・・・「売り」だよな・・・』
 やっと帰れる電車の中で、窓に映る自分の顔を見ながら、清太は思った。暗い外に、明るい車内が映りこんでいるが、清太の表情は冴えなく、沈んでいる。
『僕もとうとう「売り」やるようになったんだ・・・』
 はっきりとした罪悪感のようなものは、まだ湧かなかったが、ある一線を越えてしまったという事実に直面し、戸惑っていた。
『僕って一晩10万なんだ・・・』
 窓の中の自分に、それだけの価値を見出そうとする、もう一人の自分もいた。


a Boisterous Night