清太は迷っていた。啓二と二度目に逢うことを。
あの最初の夜、確かに清太は、恋人としてではなく、ただ体だけの関係としてなら、逢っても良いと啓二に言った。・・・だがあの時は、快楽の余韻に浸っていた時であったし、啓二に真剣な瞳で見据えられて「好きだ」と言われ、思わず心が動いてしまったのだ。
しかし今冷静になって考えてみると、これからも啓二と逢うなど、明らかに光樹への裏切りになってしまう。清太は、そんな軽々しいことはしたくなかった。
――光樹は、世俗的ないい方をすれば清太にとって、掛け替えのない存在にまでなっていた。あの沢本との、悪夢のような日々も、光樹という存在がなければ、到底耐え得るものではなかった・・・と、清太は考えている。彼と苦悩を共有することで、精神的な意味でも肉体的な意味でも彼に抱きしめられることで、清太は沢本のことを、それが瞬間的なことだとしても、忘れることができた。
『僕は光樹を愛している・・・これだけははっきりいえる』
ある寝苦しい夜、清太は自室のベッドの上で、暗い天井を見ながら思っていた。
頃は9月、残暑の厳しい毎日が続いていた。・・・清太は一つ深呼吸して、静かに虫の音を聞いた。
あの時、次に逢う約束をしていなかったが、そのうちまたベルする、と啓二は言っていた。そっちから俺に電話をくれてもいいが、と付け加えて。
もちろん、清太はそんな気はなかった。まるで女のような考えだが、こちらから、初めからそれが目的と分かっていて電話をかけるのは、はしたないような気がしていた。
あれから5日経つが、啓二からの連絡はまだなかった。仕事が忙しいのか、清太からの電話を待っているのか・・・それとも、清太をじらせる算段なのか。そんなことを考えながら、ようやくうとうとしかけた時だった。
清太のポケベルが、カバンの中で鈍く鳴った。――最初に、啓二から誘いがかかった時みたいに。
清太は実は、あれからポケベルが鳴る度にびくりとしていた。また逢うことにするか、それともやはり断ることにするか、まだ心に準備ができていなかったからだ。断ったら、また何か脅しの言葉をかけられるのではないかと、光樹のことを思う一方でそれが怖かった。
実際にポケベルにメッセージを送ってきたのは、学校の友人――同類で同じサッカー部の秋川や、サッカー部のその他の連中、クラスメイト――とか、光樹だった。
友人からは他愛のない『今何してる?』といった類のものやテレビのこと、サッカーのこと、などが主だったが、光樹からのものはもっと意味のあるもので、愛の言葉やいついつに逢いたい、といった類のものだった。
光樹は大学生で、平日に授業が早く終わったり休講で1日空いたりする時があるのだが、清太のほうは学校と部活があるので、なかなかお互いのスケジュールが合わず、二週間くらい逢えない時もあった。逢えるのは、サッカー部の練習や試合がたまたまなかったり、光樹がサーファー友達の海への誘いを断って清太との時間を作れる、日曜が中心だった。
――光樹とは、この5日間も逢っていない。
だから、光樹からベルをもらうのも、多少どきどきしていた。
この時代、携帯電話を持っているのは仕事に使う大人が主で、若者は清太のようにポケベルを持っている者がほとんどだった。
清太は青くて丸みを帯びた形のもの、光樹は黒く標準的な形のものを持っていた。
さてこのベルである。果たして誰からのものか・・・、鼓動の高鳴りを覚えながら、清太は音を止めて画面を見た。――とうとうこの時が訪れた。啓二だった。
『あしたあいたい OKならTELを ケイジ』
青緑の画面には、この文章が踊って清太の目に飛び込んできた。・・・瞬間、どきりとするのと同時に、性的なある種の予感が起こって、胸の奥が疼いた。緊張が始まった。
『すぐに返したほうがいいだろうか・・・』
体が、顔から順に熱くなっていくのを感じながら、清太は躊躇した。いきなり『あした』といわれても、明日は金曜だ。サッカー部の練習は、翌日の土曜が早く終わる分だけ、金曜が一番長く行われるのだ。8時までかかることもあった。この間は土曜に逢いたがったのに・・・と、清太は不審に思った。思い切って、電話をかけることにした。
――呼び出し音、受話器の取られる機械的な音、・・・そして5日ぶりの啓二の声。清太は電話の子機を握り締めた。
「・・・清太。またすぐに電話くれたな・・・、嬉しいぜ」
啓二はいきなり呼び捨てで、一度関係を結んだ少年の名を呼んだ。その声は、いかにも艶然としていた。
「啓二さん、あの、明日って・・・。金曜は練習が遅くなること、田中先輩から聞いてるんでしょ? ・・・無理だよ。次の日も、朝練があるし」
清太は困ったような雰囲気を作って言った。
「そりゃ聞いてるが、俺があさっては駄目なんだ。仕事で、人と会わなくちゃいけないんでな・・・。土曜は、俺の事務所は休みにしているが」
啓二は一級建築士で、自らの事務所も持っていた。清太はこのことを、2丁目のあの客からちらりと聞いた。
店でもベッドの上でも、啓二は自分のことはあまり語らず、専ら清太のことを聞いてきたり容姿を褒めたりした。年は27だが、この年でフリーだなんて、ひょっとしてエリートというやつだろうか、と、清太はその話を聞いた時、意外に思ったものだ。こんな、人の気持ちも考えないような者が、だ。
「それなら別に明日じゃなくたって・・・また来週の土曜にでもすればいいじゃない」
言ってしまってから、清太ははっとした。こちらから約束を取り付けるようなことを言ってしまったからだ。しかし啓二は言う。
「悪いな。俺はどうしても、一週間も待てない。今すぐにでも逢いたいくらいだ。本当はもっと早く連絡したかったが、仕事が忙しくて、できなかった」
仕事仕事と言う啓二に、変に自分が大人であることを強調しているような感じがして、清太は嫌な気がした。そんなに大人なら、自分みたいな少年に手を出すな、と言いたかった。彼のしたこと、これからしようとしていることは、男同士ではあっても、紛れもない犯罪である。――そう、沢本と同様に。
「だ、駄目、やっぱり明日はちょっと・・・」
そう言ってしまって、またしまったと思った。それでは別の日なら良い、ということにどうしてもなってしまう。自ら墓穴を掘っているともいえるが、もう既に、再び啓二の罠にかかりかけていることは、自明の利だった。
この状況で、もう二度と逢いたくない、などと言ったら、啓二は怒るに決まっている。あの時、清太から「いいよ」といいながら、約束の意味まで含めたようなキスまでしてしまったのだから。完全に次の言葉に詰まってしまった。・・・清太は困り果てた。
沈黙を破って、啓二は言う。
「じゃあ1時間だけ、お前の顔を見るだけでもいい、とにかく逢いたい。俺が、お前の家の最寄駅まで行ってもいい・・・それならどうだ?」
「そんな・・・。だって、練習が何時に終わるかなんて、分かんないよ」
「終わったら、携帯にかけてくれ。家の番号と一緒に、この間教えたろ?」
「でもそれからこっちに来るんじゃ、ますます遅くなっちゃうじゃない。あんたはいいかもしれないけど、僕は・・・」
「困る、か?」
「うん・・・。残念だけど・・・」
まるで相手の気持ちをそそるような言い方だが、明日にしても別の日にしても、後1回くらいなら逢っても仕方ない、と清太は諦めていた。
「そうか・・・。じゃ、俺は6時半か7時くらいから、駅前の喫茶店ででも待つことにする。どこか、適当な店の名前を教えてくれ」
やはり、逢うしかないようだ。啓二は強引だった。
「待つったって・・・。何時間も? 8時に終わるとしても、それから着替えて学校から出て、電車も、二駅乗るんだよ?」
「何時間でも、待つ。清太、お前のためなら・・・。今度はホテルにだって行かなくてもいい。たとえ10分でも、お前に逢いたい」
「・・・」
10分でも・・・。ここまで啓二が譲歩するとは思わなかったので、清太はOKの言葉を吐こうとしたが、何かが清太に言葉を飲み込ませた。
「お前が好きなんだ・・・この前も言ったろ?」
しかし啓二のこの言葉で、箍(たが)が外れた。次の瞬間には、こう言っていた。
「ほ、本気なの・・・? ・・・じゃあ、Mって喫茶店があるから、待ってて。改札出たら、すぐ目に付くとこにあるから・・・」
――子機を置き、再びベッドに横になると、清太は不思議と、ほっとしていた。・・・その晩は、何も悩まずに深い眠りに落ちていった・・・夢も見ないで。
DISH U
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