その日は練習が思ったよりは早く終わり、8時半頃にMに行くと、約束通り、奥のほうの席で、啓二が待っていた。待ち合わせなら、本当は入口近くとか窓際の、分かりやすい席のほうが良いのだが、こんな時間にスーツ姿の面立ちの整った青年と、制服姿の少年が喫茶店などで逢うのは、どこか不自然な気がしたので、清太のほうから奥の席で・・・と指定したのだった。
啓二は清太の姿を認めると、満面に笑顔を作り自分の向かいの席へと促し、再会を祝して握手をしようと右手を上げかけたが、ここが2丁目にあるような店ではなく普通の喫茶店であることを思い出して、すぐに手を下ろした。そういう啓二の顔は、決して官能的な欲望を抱いているようには見えなかった。ただ、本当に清太に逢いたかっただけといった感じだ。清太は安心して、啓二と自然な会話をした。場所が場所なだけに、色気のある話は憚られた。
啓二は清太に、今日の練習はどうだった? とか、また無理に呼び出して悪かった、とか、常識の範囲内のことを言ってきた。店に着くまでの間、清太はずっと心のどこかに警戒心を抱いたままだったのだが、やがてすっかり打ち解けて、明るい笑顔さえ見せるようになっていた。その二人の様子は、兄弟のようだった。・・・ずいぶん年の離れた兄弟ではあったけれど。
こんな普通で、自然な啓二を見るのは清太は初めてだった。
――だから、これから先に自分の身に起こることを、まるで予想できなかった。
それから別の日に、啓二と清太はまた電話で話していた。
「それで・・・またあの喫茶店で待とうか?」
すると今度は、清太はこう言っていた。
「ん・・・じゃ、なくて・・・あのお店でもいいよ・・・最初に逢った・・・」
いつも自分の家の最寄駅に、啓二のほうばかり来させては悪い気がしていたし、普通の喫茶店では、やはり彼が居心地が悪そうなので、気を使ったのだった。
「そうか。・・・でも、行きつけの店じゃないほうがいいな。顔見知りが、あんまりいないほうがゆっくり話ができる。・・・じゃ、駅で待ち合わせよう。それでいいか?」
「うん。いいよ・・・」
2丁目の街の外れの、客もまばらな大人びた店に、二人は入った。カウンターには、会社員の上司と若い部下らしい二人連れが、一組だけ座っていた。
啓二と清太は、二人だけで奥のボックス席に並んで座った。清太を壁際に座らせ、啓二は通路側にいた。人目から隠れるように、二人は入口に背中を向けていた。
啓二は水割りを、清太はオレンジジュースをテーブルに置いていた。
清太の学校の、部活や勉強、友達のことから入り、会話が進んでくると、二人は寄り添うようになった。その時、啓二はドラマや映画の話をしていた。「あれは観たか?」「あの俳優は・・・」「あの映画のこのシーンが好きだ」とか、そんなふうに話していたのだが、そのどれもが、恋愛ものなのだった。清太はその話を聞きながら、オレンジジュースで酔うはずもないのに、軽い酩酊感に襲われていた。眠気さえ感じて、啓二の肩に軽く頭をもたせかけた。それは決して、退屈だからではなかった。清太が観ていない作品でも、啓二の語り口から、そのシーンを想像して、ストーリーの中へと身を投じられた。
うっすらと、啓二のスーツから、煙草の匂いがした。彼は煙草は吸わないのだが・・・。職場で、吸う者に囲まれて仕事をしているからだろうか、と清太は酩酊する頭の片隅で思った。
つと、啓二の手が清太のあごに伸び、軽く唇を重ねてきた。舌は入れてこなかった。2、3秒で、すぐに離された。
「啓二さん・・・」
清太は驚いたような、困ったような顔をしていた。
「嫌、だったか? 悪い、つい・・・」
「ん・・・嫌じゃ・・・ない、けど・・・」
こういう店内では、キスをするカップルも時々いたので、珍しいことではなかった。だが、あの初夜以来、二人が唇を触れ合うのは、これが初めてだった。
しばしの沈黙が流れた。
二人の心の中で、何かが動くのを、互いに感じ取っていた。
啓二は、膝の上に置かれた清太の左手を、そっと握った。
「・・・一緒に、来てくれるか・・・?」
啓二の瞳を見つめながら、清太はゆっくりとうなずいた。その時彼の心には、こんな思いが渦巻いていた。
『この人に抱かれたい・・・』
そして、二人は再び、最初に入ったあのホテルで、臥床(ふしど)を共にした。
自分を本気で思ってくれいている相手を邪険に扱うことが、清太にはできなかった。啓二に再び抱かれる時、清太は光樹への後ろめたさや罪悪感を忘れた。その後も何度か逢った。もう何度も、電話やベッドの上で「好きだ」と言われ、善悪の判断などつかなくなってしまった。
清太が嫌がるので、啓二は衛生上のことにも気を使ってやった。最初の時とは打って変わって、強引な愛し方をすることもしなかった。
それを不思議に思って、ある時清太は、行為が終わってから枕に頬杖を突き、啓二に聞いたことがあった。
「ねぇ、なんでそんなに優しくなったの?」
すると啓二は清太の髪をそっと撫でながら、こう答えた。
「俺は・・・、本気で惚れた相手には、初めのうちはどうしても強引になってしまうんだ。最初の頃、嫌な思いをさせて、すまなかった」
「いいよ、もう」
そう言って、清太は浅い眠りに入った。・・・啓二が、フッ、と不気味な笑みを零すのにも気付かずに。
その甘い関係は、長くは続かなかった。
何度か逢ううちに、まず一日に鳴るポケベルの回数が増えていった。初めのうちは清太も、今までと同じように携帯や家の電話へかけて返事を寄越して、次の約束を受けたり会話に少しうち興じたりした。
だが、徐々にベルの回数が3回、5回、10回と日増しに増えていくのだ。さすがに、清太は困ってきた。
ベルを鳴らしてくるのは啓二だけではなかったので、電源を切るわけにもいかなかった。
光樹からの連絡もあって、彼とも逢瀬を重ねているのだが、光樹は電話でも逢う時でも、清太の浮気に気付いている様子はなかった。ただ、最近夜にベル鳴らしても、すぐに返してくれなくなったね、と言われた時は、ぎくりとしたが。
光樹も啓二も、夜にベルを鳴らしてくることが多いのだが、最近はつい啓二への返事が先になってしまい、光樹の家に電話をかける時間が遅くなるか、翌日になってしまうのだった。
光樹は一人暮らしで、こちらから電話をかけることに抵抗はなかったが、向こうから家にかけてくる、というのは、両親と同居しているので、清太のほうから頼んで啓二の場合同様、控えてもらっていた。
光樹に聞かれたことに、清太は苦し紛れにこう答えてみた。
「あ・・・。最近ちょっと、練習で疲れてて・・・、寝るのが遅いんだ。ごめんね」
光樹はこの言葉を信じてくれた。光樹にとっても清太は大切な存在だったので、疑うことはしたくないようだった。
あまりしつこくベルを鳴らすので、清太はある時電話で、啓二に頼んだ。
「啓二さん、そんなにベル鳴らさなくても、僕ちゃんと電話もかけてるし、普通に逢ってるじゃない。一日に10回も20回もなんて、ちょっと多すぎるから、やめてよ、お願いだから・・・。彼氏にだって、ばれちゃう」
「・・・お前俺が、嫌いになったのか?」
啓二は少し、最初に逢った頃のような強い調子で言った。
「嫌いって・・・。僕たち別に、恋人同士ってわけじゃないし・・・。そう、最初に決めたでしょ?」
実際、清太は啓二に「好き」と言ったことが一度もなかった。行為の時に、「いい」とも相変わらず言わなかった。清太の心のそういう部分は、やはり許されていなかった。
そんな自分の強情さに、啓二が苛立たしさを覚え始めているのだろうか、と清太は考えた。
「それはそうだが、俺のお前への気持ちは、日に日に強くなっていくんだ。彼氏と別れろとは言わない。ただ、お前ももっと俺を求めてほしい。本当は俺、毎日でもお前に逢いたいんだ。だから、ついベルを鳴らしちまう・・・」
「でも、回数は減らして。しつこいと、ほんとに嫌いになっちゃう」
「じゃあ毎日逢ってくれ、文字通り」
「そんなの、無理だってば!!」
「なら、俺のほうで逢いに行く」
「え・・・?」
清太はその意味を、とっさには量りかねた。また、いつかのように、一方的に電話を切られてしまった。・・・清太はツー、ツー、という通話の切れた音を聞きながら、体の奥底から、得体の知れぬ恐怖が湧き上がるのを感じた。
DISH U
2
|