夏休み最初の日曜日を、二人で過ごすことになった。
水曜に、涼は清太のポケベルを鳴らした。どうしても気になるのは、彼のもう一人の恋人――光樹のことだった。もし、約束ができてしまっていたら・・・。しかし清太の答えは、涼の不安をひとまずは取り除かせた。
「彼とは・・・いつ逢うの?」
日曜は空いている、という相手の返事を聞いてから、涼は携帯を握り締め、深呼吸してゆっくりと尋ねた。清太からベルの返信としてかかってきた電話だった。
「来週の火曜日。夏休みになるから、土日じゃなくても逢えるようになったんだ・・・」
「これ、焼き増ししてくれる?」
テーブルの上に雑然と並べられた写真の1枚を手に取って、愛する少年は涼の向かいの席で言った。
外のカフェテラスに座って語らっている人々を、涼は窓越しに見るとはなしに見ていた。このファーストフード店に入る時、そのテラスに座りたいと初めに思った。しかし、外の暑さと人目に付くこと、写真が風に飛ばされてしまうことなどを考慮すると、その気持ちは途端に心の奥にしまわれた。二人は今、窓際ではない4人席に落ち着いていた。窓は、窓際の席に座った客たちの頭越しに見える。男女のカップル、女の子の二人組、親子連れ、などが窓の中と外とに溢れかえって、ハンバーガーやジュースを口にし、昼食の時間を楽しんでいる。
『逢えるようになったんだ・・・』
電話越しの、その少し申し訳なさそうな少年の声が、蘇ってくる。その奥に、嬉しそうな感じがこもっていたことを、涼は今も忘れない。
――彼は、清太は、まだ光樹と別れるつもりはないのだ。自分には、まだやり残したことがある。光樹から、清太を奪うこと。自分だけの恋人にすること。それには、どうすれば・・・。
「――涼、聞いてる?」
写真を右手に持って、少年は怪訝な顔で相手を見た。
涼ははっと我に返った。
「あ、ごめん・・・。何?」
気まずさから逃れるように、コーラの入った白いカップを手にした。
「これ。僕、自分でも持ってたいの」
一口飲んで、涼は清太から写真を受け取った。
それは、涼が最初に撮った清太の姿だった。小鳥が手に止まった、その瞬間の・・・。写真の中の少年の笑顔は、美しかった。それだけでなく、顔を少し鳥のほうに傾けているので、可愛らしくもある。
「ああ・・・。うん、これが一番可愛いかもね」
涼はやっと笑顔になって言った。
バードピアでの写真ができたからと、涼は写真の入った袋を青いリュックに入れて朝家を出た。今日は清太のほうが東京まで出てきてくれて、1時過ぎから彼と映画を観ることになっていた。映画が始まるまでの時間を、まずは駅前のデパートでウィンドーショッピングをし、今は昼食を取ることで二人過ごしていた。
テーブルの上には、フラミンゴ、ツル、エミュー、ハクオウチョウ、キンケイ、クジャク、セキセイインコなど、色とりどりの鮮やかな鳥の写真が所狭しと載っていた。鳥だけ写っているものもあれば、清太が入っているものもある。そして・・・二人で撮った、特別な2枚も・・・。
「じゃあ、お願いするね」
少年は微笑んだ。その自然な笑顔は、涼がずっと待ち望んでいたものだった。なんの屈託もない、自分だけに注がれる笑顔・・・。少なくとも、今だけは。しかし同じものを、彼はもう一人の男にも向けるのだ。今度の、火曜にも・・・。
清太はまた別の写真を手にした。1枚1枚、テーブルから取り出しては穏やかな表情で眺めた。
「これは・・・?」
涼は、最初に二人で撮った1枚をそんな清太の前に差し出した。清太がカメラを持ち、シャッターを押したその1枚を。
「ふふ」
青年から受け取った写真を見て、少年は笑った。涼には理由が分からなかった。
「だって、涼の顔・・・ほら見て」
彼は写真を返してみせた。涼は受け取る。そこには、帽子を被り可愛らしく笑う少年と、戸惑って目を見開いている青年の顔とがあった。ピントはややぼけているが、見られないほどではない。涼は途端に赤くなった。――もっと、ましな顔をすればよかった・・・。
「なんか、おっかなびっくりって感じじゃない?」
清太はまだ笑っている。テーブルの上で手を組み、身を乗り出した。
「そんな、笑うなよ・・・」
それを伏せ、涼はもう1枚二人で撮った写真を手に取った。こちらは、ピントがちゃんと合っている。
「こっちのほうはいいだろ?」
今度は涼のほうが写真を返して清太に見せた。
「うん・・・いいね」
清太はそれを見て、笑うのをやめた。手に取る。少年の目に、その中の二人は”恋人同士”に見えた。涼も先ほどの1枚よりは、自然な表情をしてみせている。
「それも・・・焼き増しする?」
涼は聞いた。
「うん・・・」
清太は数秒の後(のち)に頷いた。
写真を一通り見終わり、ネガの焼き増しするものにボールペンで印を付けて、涼は再びリュックに袋をしまった。ハンバーガーは二人ともすでに食べ終わり、フライド・ポテトと飲み物だけが残っていた。
「この間さ・・・武司から連絡あったよ」
ポテトを取り出しながら、清太は言った。
「え・・・そう。なんて?」
そういえば、武司とはどうなったのだろう。光樹のことばかり気にしていたが・・・。涼は少年の答えに耳を傾けた。
清太は1本を食べ終えた。
「逢えないかって、ベルがあって。その後電話で話したんだけど、・・・僕『忙しいから』って断っちゃった」
はにかみながら、彼は告げた。
涼はしばし考えてから口を開いた。
「あの・・・それって・・・」
ここで彼はつばを飲み込んだ。
「もう・・・武司とは逢わないでくれる・・・ってことなのか?」
ゆっくりと、少年に聞いた。緊張に身を置きながら待っていると、清太は頷いた。
「・・・ほんとに?」
まだにわかには信じられず、涼は重ねて聞く。
清太は顔を上げた。
「なんか、なんでか分かんないけど、急に冷めちゃって・・・。あんたと、この間逢ってから・・・」
その後の言葉を彼は濁した。あんなに夢中で逢って、抱き合っていたのに、と少年は心の中で言った。武司に興味がなくなる日が来るなど、涼と美術館へ行く前までは、想像もできなかった。
「そう・・・。嬉しいよ・・・」
自分の中だけで呟こうとしていた言葉を、涼は思わず外に出してしまった。
では、武司から清太を奪うことはできたということか。自分が争うべきは、あと一人ということか・・・。
「あの、でも、まだちゃんと別れるって話はしてないんだ。今度、話すから・・・。それで、もし話をつけるために逢うことになっても、ちゃんと断るから・・・」
少年はどこか必死ともいえる態度で言った。
「ああ。もし必要なら、3人で話をつけよう」
清太の心がすでに武司に向いていないのは確かなので、その必要はおそらくないだろう、と思いながらも、涼は念のためそう言った。
ポテトも終わり、飲み物も残り少なくなった。
「涼、テストどうだった? 大学の・・・」
清太はオレンジジュースの入ったカップのストローから口を離した後、話題を変えた。
「うん。まあまあ書けたかな。あとは、夏休み中にレポートを書いて、それを休み明けに提出する科目もあるんだ。全部の結果が出るのはそれから」
「ふうん・・・。僕のほうは、国語とか社会とかはできたけど、数学が全然だめだったんだ。数字見るの苦手」
高校生らしい台詞だな、と涼はそれを聞いて微笑ましく思った。
「高校入ると、難しくなるよね。俺もあんまり理数系は得意じゃないんだ。高校ん時なんか、3年で数学の授業ほとんどなくなるから嬉しくて」
「そうなんだ。気が合うね」
清太はいたずらっぽい笑顔を見せた。
「そろそろ、出ようか」
腕時計を見ると映画の上映時間が迫っていたので、涼は立ち上がった。
「あ」
と、清太は思い出したような声を出した。
「何?」
涼は立ったまま聞く。
「・・・涼、この前さ・・・。見たいって言ってたじゃない?」
清太はゆっくりと言葉を吐いた。
「何を?」
なんのことなのか、涼には思い当たらない。
「・・・彼の、写真・・・」
座って下を向いたままの少年の口から、残酷な一言が漏れた。
涼はしばらく立ち尽くした。そういえば、学生手帳に挟んでいないかと、見ようとした自分があの時いた。
「持って・・・きたの?」
鼓動が早まるのを感じながら、彼は椅子の背に右手をかけた。
「うん・・・。これ・・・」
清太は、横の椅子に置いた黒いスポーツメーカーのものらしいリュックから、厚めの手帳を取り出した。その間、出さなくていい、出さなくていい、と涼は心の中で繰り返していた。だが、それはテーブルの上に置かれた。茶色いビニールの表紙の、ハガキ大くらいのスケジュール帳・・・。
裏表紙と、駅路線図、カード入れなどをめくった次に、その1枚は現れた。・・・涼は再び腰かけた。
海岸の砂浜に、一人の男が佇んでいた。
まず目に付いたのは、その体の逞しさだった。黒いウェットスーツの上からでも、高く盛り上がった胸が見て取れる。いくつかに分かれた腹筋の形も・・・。自分とは、比べ物にならないほどの鍛えられた体・・・。それに、涼は激しい劣等感を覚えた。そしてその上に、整った男らしい顔があった。日に焼けていて、髪はウェーブがかった茶髪だった。その脇に、白いサーフボードを砂浜に立てながら持っている。
――これが、清太の付き合っている、男・・・。自分より前に清太と出逢い、彼の心を奪った、男・・・。悔しいけれど、清太が惚れるのも無理はない、と涼は思ってしまった。
涼は手帳をテーブルに置いたまま、それに見入った。
「これが、光樹・・・」
写真の上にわざわざ人差し指を載せて、少年は言った。
何故、こんな残酷なことをするのだろう。
「そう・・・。分かった。もういいよ・・・」
涼はまた立ち上がる。
清太も手帳を閉じて再びリュックにしまい、立つ。
「だって・・・だって、見たいって言ったから・・・。それに、見ておく必要、あるでしょう?」
彼は初めは戸惑いがちに、そして後半は少し強く言った。
The First Night
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