確かにそうかもしれなかった。
 この男と自分とが、対峙する時が来るかもしれない。奪う気があるのなら知っておいてほしい、との気持ちが、今の清太の言葉の裏にあるのだろう。


 映画館へ向かう道で、涼は表立っては今から観る作品の、俳優や監督の話を清太とした。今日観るのは肉体派の俳優が出ているハリウッドのSFアクション映画で、夏休み前から公開されていて、ヒットを飛ばしている。テレビや雑誌の特集で見たところによると、特撮の技術が特にすごいのだそうだ。
 しかしふと会話が途切れると、涼は考えてしまう。
――今日清太を、抱くべきかどうか。
 自分が武司と寝たことを知って、あの時彼は泣いた。電話口で・・・。
『体が目当てなんだ・・・』
 そう言って。携帯から届いたその悲痛な声を思い出すと、胸が痛む。
 もう欲望に走ることはしないと、大切にすると、心に決めた。
 しかし、火曜にはあの写真の男のところへと帰ってしまうのだ、彼は・・・。

 横を歩く清太の腰には、あの横浜のマリンタワーで買った、シュウマイを象った可愛らしいマスコット人形のキーホルダーがついたポケベルが、ぶら下がっている。ジーンズのベルトを通す穴の一つに、通してあるのだ。それが、彼が一歩を踏み出す度に揺れる。
 だが・・・。いいのだろうか。これをずっとつけていたら、光樹にどこで買ったのかと聞かれはしないか。このマスコットは、確か横浜のイメージキャラクターだったはずだから・・・。こんなことを心配するのも、妙な気分だが・・・。
 何を恐れているのか。恋敵に自分の存在がばれたら、困るとでもいうのか。
 涼は自分に語りかけた。
「何見てるの?」
 相手が横を向いて、ずっと自分の腰のあたりばかりを見ているのを不思議がって、清太は言った。
「いや・・・可愛いなと思って。それ・・・」
 涼は軽く左手を伸ばして、ポケベルを指し示した。
「うん。気に入ってるんだ。涼もお揃いで買えばよかったのに。でも・・・」
 急に清太の表情が曇った。
「でも?」
 涼は先を促す。
「ずっとつけてはいられない・・・よね・・・」
 その意味が、涼にはすぐ分かった。その、自分に同意を求める語尾が心に刺さった。そしてまた、嫉妬にかられる。


「面白かったね。わくわくしちゃった」
 エンドロールが全て終わり、場内が明るくなると、清太は言った。涼も頷く。映画を見ている間だけは、あの欲望の観念から逃れることができた。
「ね・・・もう一回観ていい?」
 パンフレットを膝に載せてこちらを向きながら、少年は聞く。
「うん、いいよ。完全入れ替え制じゃないから、よかったね」
「やった。かっこよかったよね。筋肉とかも相変わらずすごかったし」
 主役の俳優の名前を言って、彼はそう感想を述べた。そんな一言からも、やはり逞しい男が好きなのか、と涼は思ってしまう。
「ストーリーもよかったろ? 感動しなかった?」
 涼はわざと話題を変えてみた。映画には、恋愛の要素もあった。悪役との戦いで離れ離れになった主人公と恋人の女性とが、ラストシーンでは再会し、抱き合ってキスをしていた。
「うん、したよ。最後は再会できてよかった・・・」
 清太はパンフレットを繰りながら微笑んだ。

 次の上映までは、まだ時間がある。
「じゃあ、僕お腹すいちゃったから何か買ってくるね」
 清太はパンフレットを席に置いて、リュックを持って立ち上がった。
「分かった。行っておいで」
 そうして少年を見送った後、涼はまた観念に捕らわれ始めた。
 抱くべきではない、のか。
 もう、無理に抱くようなことはしたくない。嫌われたくはない。
 だが・・・。
 今日何もせずに帰るのは・・・。
 このまま、あの男のところへ、彼を送ってもいいのか。何も、自分の跡を残さずに・・・。
 清太は自分にどうしてほしいのだろう。もっと、強い態度を取るべきなのだろうか。そうでなければ、女々しい、勇気のない男だとまた思われてしまう。彼の心が、光樹へと帰ってしまう。
――刻み付けたい。繋がって、彼の体に自分の存在を・・・。忘れられなくなるほどに。
 抱きたい。抱きしめたい。

「はい」
 と、明るい声がした。見上げると、清太が袋入りのスナック菓子を脇に抱え、ジュースの入っているらしい小さなカップを両手に持って立っていた。カップの一つを、自分に差し出している。その目には、愛情がこもっていた。
「僕と同じのにしちゃったけど、いい?」
「あ・・・ごめん。わざわざ・・・。いくらだった?」
「いいよ。いつもおごってもらってばかりだから」
 清太はリュックとパンフ、お菓子を膝に載せながら座った。
 受け取ったカップの中身を見ると、サイダーか何からしい、透明な液体が入っていた。くぷくぷと、泡が弾けている。
「それ、リュック、こっちに置いたら?」
 清太の膝の上がいっぱいになったのを見て、涼は言った。
「そう? ありがとう」
 渡されたそれを、涼は自分の膝の上に載せた。清太は前の席についたカップホルダーにジュースを置き、お菓子の袋を開ける。
「涼も食べる?」
 言って、袋を差し出した。涼は軽く返事をし、白と黄色でデザインされた袋の中に手を伸ばす。お菓子は、一口大でボール状の揚げ菓子だった。

 そして場内にブザーが鳴り、再び暗くなって映画が始まった。
 しかし2回目の時、涼は映画のストーリーの中へは入っていけず、自分の思考にばかり耽ってしまった。
――恋人同士なのだから、愛しているのだから、抱いてはいけない理由などないはずだ。
 自分は彼の体だけ求めているわけではない。ただ、愛し合いたいのだ。彼も、自分を好きでいてくれている。
 清太さえ、同意してくれるなら・・・。
 そんな思いに捕らわれながら、涼は左横にいる清太を見た。彼は映画に集中している。全体的にはシリアスなストーリーだったが、息抜きに笑えるシーンでは、素直に声を出して笑った。
 この可愛らしい、少年らしい顔が、服を脱いでベッドに上がると妖艶な表情に変わるのだ。

「清太・・・」
 涼は身を寄せ、彼の耳元で囁いた。手を握ろうとしたが、彼の右手はスナック菓子の袋の中と外を行き来しているので、叶わなかった。
「今日・・・この後・・・」
 勇気を出してそこまで言ったが、終わりまでは言わず、そこで止めた。
 が、清太が黙っているので続きを告げようと、言葉を探した。
 と、清太がこちらを見た。彼も、涼の耳元に口を近づけた。目を閉じた後、彼の囁き声が漏れた。
「いいよ・・・。行っても・・・。この間も、何もなかったでしょう?」
 あの日、夜の海を見た後、涼は清太を朝待ち合わせた最寄の駅まで車で送って、別れた。そう、何もせずに・・・。
 清太はさらに続ける。
「あんたが、本気だって分かったから・・・。涼のこと、好きだから・・・」


 映画館を出ると、二人の腕時計は5時半を回っていた。歩道を歩きながら、清太が先に口を開いた。
「涼の家・・・行っちゃだめ? 行ってみたいな・・・」
 その静かな、恥ずかしげな声を聞いて、涼は一瞬胸が高まったが、落ち着いて答えた。
「でも、今日はだめなんだ。親が二人とも家にいるから・・・。親父は図書館に行くって言ってたけど、もう帰ってるだろうし・・・」
「そう・・・なの・・・」
 清太は残念そうに言った。言った後、微かに肩を寄せて、互いの距離を縮めた。
 肩を抱きたかったが、公衆の面前でそんなことはできるわけがなかった。
「どこに・・・行こうか」
 涼は低い声で言った。
「どこでも・・・。涼の行きたいとこでいいよ」
 まだ日が暮れていない繁華街に不似合いなそんな会話を、二人はした。
 ホテル街は、ここから歩いて行けるところにあった。涼はかつて、清太と出逢う前、そこの一つに年下の少年と入ったことがある。2丁目ではないので、少々の抵抗はあったが・・・。

「ここで・・・いい?」
 そのホテルの入口で、涼は少し後を歩いていた清太に聞いた。少年は赤くなりながら頷いた。オフホワイトの壁をした建物の上方と側壁に、気の早い青いネオンが灯っている。
 なんの抵抗もない清太を連れて、こうしてホテルの廊下を歩くことなど、ありえないと思っていた。だが、願い続けてもいた。あまりにもことが自然に運ぶので、夢ではないかとさえ涼は思った。
 ドアの鍵を開け、自分が先に入ると、清太もすぐ後に続いた。
 が、本当に抱いてもいいのか、一抹の不安がまだ涼にはあった。欲望に走っていると、清太に心のどこかで思われていたら・・・。後ろにいる清太のほうに、振り返ってみた。彼は涼の目を見ながら身を竦めた。キスが来ると思ったのだろう。涼はまずは、清太を正面から抱きしめた。初めは両手を体の脇に下げたままの彼だったが、数秒すると腕を背中に伸ばしてきた。

「あ」
 清太が顔を上げ、部屋に入って最初の声を出した。
「リュック・・・涼もしょったままだよ」
「あ・・・そうか」
 そして二人、部屋にあった一人掛けのソファーに色の違うリュックを置いた。置くと、改めてソファーのそばで抱き合った。


The First Night