車内に落ち着いた二人は、どちらもすぐには言葉を発せずにいた。二人とも、シートベルトはまだ締めていない。涼はエンジンもかけず、窓を開けて、外からの風を、少し暑くなっている車内に取り入れようとした。少年は青年の隣で、相手がちょっと動いてシートを軋ませて音を立てる度に、びくりとしていた。
 ここで武司なら煙草を吸い始めるのだろうが、自分は吸わない。こんな時間の過ごし方も、知らない。
 今日の清太の行動を、涼は初めから考え始めた。海へ行きたいと言い、着いたら光樹との馴れ初めを語り出し、挙句の果てには彼と入ったホテルまで見せ、もう一人いたという光樹の元恋人の話までした。光樹は自分を選んだのだ、とも・・・。
『光樹、光樹、光樹か』
 涼は心の中で鼻で笑った。自分を蔑みながら・・・。隣にいる彼の頭の中は、光樹でいっぱいだ。今ここにいない男の・・・。

「君は・・・」
 やっと青年が口を開くと、少年は膝に置いた拳を握って、背筋を正した。
「君は、俺の気持ちを考えたことがあるのか? 好きな相手が、他の男とも逢って、抱かれてるなんて・・・たまらないんだ。君の笑顔を見ても、半分は嘘なんじゃないかって、思ってしまう」
 涼は彼のほうは見ず、ハンドルに両腕をクロスさせ、もたせかけながら話していた。しかし清太は、こちらを見ているようだ。
「作り笑顔だって、言いたいの?」
「そうだ」
 青年は強く言い、ハンドルから手を離した。
「今日だって、二人の話をしたくて来たはずなのに、俺の話は何もさせてくれない。やっぱり君は、別れ話をしに来たのか? 光樹のことばかり話してるじゃないか。そんなこと、俺に聞かせてどうする? 俺と別れたいからか?」

「違う。光樹がいい加減な気持ちで僕と付き合ってるんじゃないってこと、分かってほしかっただけ」
「それで俺が傷付くとは、思わなかったのか?」
 彼は息を引き、右手を上げて、胸の辺りに当てた。
「それは・・・、そこまでは、僕・・・」
 彼は申し訳なさそうに俯いた。
「そんなに光樹が大事なら、彼のところに行けばいい。俺といる理由はないだろう?」
 少年は、答えない。
「君が俺といる理由はなんだ? やっぱり同情か? 義務感なのか? 俺が君を諦めないから・・・」
 問題は、清太が誰を好きなのかということだ。誰が、彼のそばにいるべきなのか。
「涼は・・・涼は、優しいから・・・」
 少年は言葉を続けようとしていたが、青年は遮った。
「優しいだけなら、光樹もだろう?」
 そして隣の少年を見やる。  

「君にとって、光樹が彼氏で、じゃあ俺はなんなんだ? 保険か? スペアか? 光樹に振られた時の・・・」
 涼は右手をハンドルにかけ、体も少年のほうを向いた。
「違う、そんなんじゃない。涼だって、彼氏だ。恋人だって、ちゃんと思ってる」
 清太は真剣な表情で訴えたが、青年は溜息をつき、シートの背もたれに無造作に背中を付けた。
「もう、いい。君はやっぱり、光樹のほうが大事なんだ。彼といたほうがいいんだ。俺はもう、身を引く覚悟もできてる」
 本心なのか、それとも清太を試すためなのか、言葉を放った時、涼は自分でも分からなかった。
 沈黙が、流れた。それを破ったのは、少年の震えた声だった。

「どういうこと? 嘘、だよね・・・?」
「嘘でも冗談でもない。君は俺のことなんて、本当は好きじゃないんだ。君は光樹を愛してるんだ」
「どうして、どうしてそんなこと言うの?」
「君のせいだろ。君の気持ちが、俺には向いてない。俺の気持ちも考えない。君は俺と別れたほうがいい。そのほうが、すっきりするだろう」
「そんな・・・」
「これから君を家に送ったら、もう逢わない。俺は疲れたんだ」
 感情に任せ、涼は言葉を吐き出した。半分は、もうどうなってもいいと、投げやりな気持ちだった。
「・・・嫌だ・・・嫌だ、そんなの」
 少年は握った右手で、自分の胸を強く掴むような仕種をした。
「僕がいないと・・・、僕がいないと生きられないって、言ったくせに! あれは嘘なの?」
 清太は涼に向かい、叫んだ。

「・・・」
 青年は、答えられなかった。あの、再会した時にベッドで言った言葉が、そんなに深く彼の胸に刺さっていたのか。
「答えて、涼。だから僕は、あんたを好きになったんだ。涼が、必要になったの。なのにあれは、嘘?」
「嘘じゃない、嘘なもんか。俺は君のことしか考えられない。今も一緒だ。でも君は、違う。同時に二人の相手のことを考えてる。別れるしか・・・ないじゃないか」
「だって、だって・・・しょうがないんだ。例えるなら、光樹は家族みたいなものなの。親子は一生親子のままでしょう? 離れて暮らすことがあっても・・・。光樹は僕にとって、そんな存在なの。僕の一部なの」
『一部・・・』
 自分を前にして、よくそんなことが言えたものだ、と青年は思った。

「でも、俺は一部じゃないんだろう?」
「涼・・・」
「最初から、彼氏と別れる気がないのに、俺に気を許したのが間違いだったんだ。俺たちは別れる。それが一番いい」
 青年は更に少年をつっぱねた。
「嫌だ」
 清太は急に上体を動かしてギアを越え、抱きついてきた。
「嫌だ、別れたくない」
 彼の顔は自分の横にあり、見えなかったが、ひくついているようだった。
「・・・別れない」
 少年の涙声が、耳元で響いた。
 青年は彼を抱きとめるべきかどうか、迷ったが、やがて両手を、彼の背中に置いた。しばらく、彼が声を殺して泣くのを聞いた。涼はたまらず、目を閉じた。

「僕が今日、涼にひどいことをしたのなら、謝る。無神経だった。でもこれからは、もっと考えるようにする。だから、別れるなんて、言わないで。いなくならないで・・・」
 抱きついている手に、力を込める彼。
 今更、彼を試していたなどと、涼は言えなくなった。しかし半分は、もう別れても仕方がないと、思ってもいたから、ずっと嘘をついていたわけでもない。――青年は少年を、強く抱き返した。
「別れるもんか・・・」
 すると、少年は身を少し離し、泣きかけの顔を見せた。
「今、なんて・・・?」
 戸惑いを見せる彼を宥めるように、涼は続ける。
「俺だって、本当は別れたくない。君の気持ちが知りたくて、言っただけなんだ」
「涼・・・、ほんと・・・?」
「ああ」
 今度は青年のほうから、少年を抱きしめた。彼も、手を伸ばす。

 しばらく、互いの体温を感じていたが、やがて清太のほうから静かに離れた。
「・・・あんたみたいな人、初めてだったの。光樹以外で、本気で想ってくれた人なんて、今までいなかった。僕は涼とも、思い出を作っていきたいの」
 落ち着いたが、まだ少し涙声が残っている。
「清太、やっぱり会わせてくれ、光樹に。光樹が、君が二人と付き合うことを、認めればいいんだろう? だったら彼に、俺のことを話してくれ。こそこそ隠れて逢ってたって、そのうちばれる。そうじゃないか?」
 少年の潤んだ目を見ながら、涼は言った。
「涼は・・・、認めてくれるの? 僕が二人と付き合いたいって気持ち・・・」
「そう・・・するしかないだろう。君がそれで、幸せなら・・・」
 妥協というより、清太を守るためだった。追い詰めて悩ませるのは、気持ちのいいものではない。
「あり・・・がとう・・・」
 清太は右手で、再び溢れてきた涙を拭った。
「今度、彼に話してみる。逢ってほしい人がいるって。怖いけど、勇気を出すよ。涼だって本気で想ってくれてるって、分かってもらえるように」
「ああ」
 安堵し、涼は深く息を吐いた。シートにもたれる。


 夕方、二人は以前行ったイタリアン・レストランに寄り、夕食を摂った。それは今日初めての、和やかな時間だった。清太の笑顔も、やっと見られた。
 食事の後は特にどこへも寄らず、真っ直ぐに清太の住む町へと向かった。海辺の町から市街地へ向かうにつれ、日は徐々に傾いていった。昼間は曇っていたが、いつの間にか雲は薄くなり、夕日が美しく顔を覗かせていた。
 車が、朝待ち合わせた場所に停まると、少年はすぐには降りず、しばらく俯き、自分の手元を見ていた。両手を、組み合わせて手持ち無沙汰に動かしている。
「清太」
 青年の呼びかけに、彼はこちらを見た。
「覚えておいてくれ」
 涼は、少年のほうを向いた。ハンドルから、手を離す。
「俺は、君を独りにはしない」
「涼・・・」
 二人は言葉をなくし、見詰め合った。やがて自然に、二人は近付き、少年から目を閉じた。唇も、自然に触れ合った。しかしその時間は短く、青年から離れるのを、少年の唇は惜しんだ。


The Flow Of The Waters
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