「・・・香純?」
 春樹が横で、俺の顔を覗き込んで声をかけた。俺ははっとして顔を上げた。
 ほかの二人と離れて、歩く速度を落とした。
「今日・・・二人になれないか? カラオケ終わったら・・・」
 俺は胸が熱くなった。でも、後で話そうと言ったのは、俺だった。
「うん・・・。なれるかな? ほかの二人・・・」
「適当に言えばいいさ。今日さ、俺んち・・・夜まで家族いないんだ。兄貴は友達と遊びに行くから飯いらないって言ってたし、親も仕事だから・・・」
 彼は小声で囁くように言った。
 春樹のお兄さんは今年大学4年で、まだ春休みらしい。二人の息子が受験と就職活動で、親御さんも大変だな、と思う。
 それよりもこれって・・・”誘われて”いるのだろうか。俺はさっきよりも心臓の鼓動が早まるのを感じた。でも、いきなり言われても、まだ心の準備ができていない。
「あ、後で・・・。二人になったら・・・」
 はぐらかしてしまった俺。春樹の不満そうな顔を尻目に、俺は彼より少し先を歩いて、彰と勝彦を追った。

  「やっぱ、上手いな香純」
 勝彦が言った。俺が、好きなR&Bの男性ソロ歌手の歌を歌っている時だ。歌が終わって、次の曲が始まった。今度は彰だ。あるバンドの、激しい歌を歌い始める。
 俺はマイクを置いて、次の曲を探すべく歌本のページをめくりながら、言った。
「上手くないよ。下手だって」
「またまた。きっと今年も誘われるぜ、享(とおる)に。お前、すげー歌ってる声きれいだもん」
「じゃ、普段は?」
 俺は本から顔を上げすに、冗談めかして聞いた。
「いや、普段もいい声だけどさ」
 勝彦も笑う。春樹は俺の前の席に座って、黙って歌本を見ている。彰は、一人自分の世界に酔っている。
 享は軽音楽部の奴で、1年の時一緒のクラスだった。音楽の授業で俺の声を聴いてからというもの、しつこく何度も軽音に入らないか、と誘ってくるのだ。俺のほうはまるで興味がないというか、人前で歌うなんて柄じゃないから、ずっと断り続けている。文化祭の前になると、ことさらにしつこい。
「春樹はどう思う?」
 勝彦が彼に振った。春樹は本から顔を上げた。
「そりゃ、いい声だとは思うけど・・・香純が嫌がってんなら、しょうがないじゃん」
「そうかなあ。もったいないと思うけど・・・。俺、一度くらい見てみたいな、香純のボーカル姿」
「よせよ」
 そんな会話をしながら俺は、『こうやって、放課後は今まで通りみんなで遊べるんだ。それほど落ち込むこともないかな』とちょっと思っていた。


 4人でのバカ騒ぎが終わり、やっと俺と春樹とは二人きりになれた。俺は最後に春樹と一緒に歌った男性デュオの曲を思い出しながら、彼と並んで駅へ向かって歩いた。
「あ、ちょっと本屋寄っていい?」
 春樹は思い出したように言った。
「うん。いいよ」
 それで、駅前にある大き目の本屋へ入った。彼は漫画雑誌のコーナーへ行った。
「俺、こっち見てくから・・・」
「そう」
 彼は短く答える。
 俺は思うところがあって、趣味のコーナーへ行った。が、園芸の本には載ってないかもしれないな、と思い直して、図鑑のコーナーへ行った。花の本を手に取った。ページをめくる。春夏秋冬、季節ごとに花々は載っていた。目当ての花を、見つけた。そこには、こうあった。
『里桜(さとざくら)』
 写真を見ると、ピンク色の可愛らしい八重咲きの花が咲いている。桜よりも遅く咲く、と説明に書いてあった。これだ。
「何見てるの?」
 雑誌を買い終えたらしく、紙袋を脇に抱えた春樹が、俺のほうへ来た。俺はなんだか恥ずかしい気がして、すぐに本を閉じてしまった。
「いや、なんでもない。行こうか」

「さっきの話なんだけど・・・どうする?」
 歩きながら、春樹はもう一度この話題を出した。俺は思わずつばを飲み込んだ。二人きりになれた。 こんな機会は、あまりないかもしれない。でも・・・。俺はまだ迷っていた。
「・・・ひとまず、お茶でも飲みに来ない?」
 そんな俺の気持ちを汲み取ってか、彼はこう言った。
「うん。それなら・・・行くよ」
 俺は静かに答えた。まだ夕方までは間があり、日は高い。駅前には俺たちと同じように、始業式を終えた学生が多かった。

 何日ぶりかの彼の部屋。男の子らしく、バンドやサッカー選手のポスターが壁や天井に貼ってある。彼が、アイスティーを載せた盆を持って、入ってきた。この間も、こうやってアイスティーを持ってきたっけ。昼飯はさっき、カラオケ屋でいろいろ注文して済ませていた。
   ガラス製のテーブルの上に盆を置き、彼は制服の上着を脱いだ。ハンガーにかけると、おもむろに俺の横に座ってきた。背中側には、ベッドがある。二人、それに寄りかかった。
「この間・・・ごめんな。いきなりあんなことして・・・」
 いきなり本題か、と俺は緊張した。
「いや・・・急だったから、びっくりしちゃって・・・。俺のほうこそごめん・・・」
 と、顔を上げると、彼の顔が間近にあった。俺は思わず身を引いた。
「謝るなよ。悪いのは俺なんだから・・・」
 そう言って、右手の甲に彼の右手を置いた。俺は話題を変えようと、別のことを言った。
「き、着替えないの?」
「いいんだ、そんなの。・・・1年間、お前が同じ教室にいないなんて、俺やっぱり嫌だ」
 だが、春樹は話を戻してしまう。
 その悲しげな声に、胸が熱くなった。載せられた手をそのままにして、俺は言った。
「だって、しょうがないじゃないか。先生たちに今更変えろ、なんて言えるわけじゃないし・・・」

「そんなの分かってる。でも、なんでお前、平気なんだよ。俺、辛いよ」
 いつになく弱気な彼に、俺は戸惑った。最初の時は、あんなに強引だったのに・・・。まるで、立場が逆転したみたいだった。彼の気持ちを落ち着けようと、俺は右手を動かして彼の手を握った。すると、春樹は頭を俺の肩にもたせかけてくる。彼の少し茶色い、ストレートの短髪が目の前にある。
「香純・・・」
 そのままの体勢で、彼は泣きそうな声を出した。どきりとした。
「な・・・なんて声出してんだよ。どうしたんだよ? お前らしくもない・・・。クラス違ったって、放課後とか休み時間は一緒だろ? だからそんなに深刻に悩むことは・・・」
 さらに、彼は体を寄せてきて、俺の胸に顔を埋めてしまった。どうしようか一瞬手を泳がせたが、そっと、遠慮がちに彼の背中に手を添えた。
「そういうことじゃない。お前の呼吸をいつも感じていたいのに、こんなのってないだろ? お前のこと、好きなのに・・・」

 彼からの告白以来聞いていなかった言葉を聞いて、彼の背中に添えた手に、俺は知らず力を込めた。
「春樹・・・」
「香純・・・好きだ・・・」
 その声は、悲痛に聞こえた。彼はゆっくりと腕を伸ばして、俺に抱きついた。
「好きだ・・・香純・・・香純・・・」
 繰り返される彼の言葉が、胸に痛く響いた。一体、どうしたのだろう。彼のいつもの冗談・・・? いや、とてもそんな雰囲気ではない。きっと、本気だ。俺は彼を、抱きしめたくなった。
「春樹・・・顔、上げて・・・」
 言いながら、彼の肩を持ち上げた。泣いているかと内心緊張したが、悲しげな表情はしているものの、泣いてはいなかった。その顔を見て、俺はどうしようもなく、彼が愛(いと)おしくなった。
――俺たちは、自然に唇を重ねた。

 俺から彼の制服を脱がせて、脱がせながらベッドへと寝かせた。自分も裸になった。だが、俺はこっちのほうは自信がなかった。初めてなのだから・・・。彼の顔を見下ろしながら、しばらく何もできないでいた。
 それでも、腕を額にやって悲しげな顔をしている彼を見ると愛おしさが募り、自分から再び口付けた。首筋に、胸に、俺は自分の気持ちを押し付けた。腹の辺りまでくると、額にやっていた腕を、彼は俺の髪に移した。そのまま、何度かなでてくれた。だがその仕種を――優しさを感じているうちに、俺は自分が彼を欲しているのか、それとも逆に愛されたがっているのか、分からなくなった。――彼のものの手前まで来て、唇の動きを止めてしまった。なんだか、怖い気がした。彼を汚(けが)すような気がした。俺は顔を上げ、彼の表情から気持ちを読み取ろうとした。再び上へ上がり、胸のあたりまで体を戻した。

 すると春樹は、片手で俺の頬を包んだ。
「香純・・・」
 彼の瞳は潤んでいるようだった。とてもきれいだった。もう片方の手も、俺の頬に当ててきた。じっと俺の瞳を見つめる。俺はその手の熱さに、自分の気持ちをはっきりさせた。だが彼のほうはどうなのか、まだ決めかねていた。
「春樹・・・ごめん。俺・・・どうしたらいい・・・?」
 と、彼は頬に当てていた両手を動かして俺の頭を引き寄せ、強く口付けた。キスしながら、俺を逆に押し倒した。
「俺、抱きたい、お前を・・・。いいか・・・?」
 上から囁いた。
 そう言われ、嬉しくなる自分がいた。俺はゆっくりと頷いた。

 俺は彼の上に乗っていたが、体の中には彼を感じていた。彼の中に入って彼を感じるより、自分の中に彼を感じていたい。奥に来てくれればくれるほど、彼に愛されているのだと深く思える。俺は彼の愛が欲しさに、自分からも揺れた。愛するより、愛されたい。それが、俺が彼に望むことなのだ。彼を慰めたかったのに・・・これでも、慰めていることになるだろうか・・・? 俺は今心に、男の自分が存在していないことを感じた。いるのはきっと、女の自分だ。俺は自分の不甲斐なさに、愛し合いながら泣いてしまった。

「・・・泣くなよ」
 春樹は、体を横にした俺の肩に、手を優しく置いた。
「なんで、こうなるんだろう・・・。俺、男なのに・・・。お前を、慰めようとしたのに・・・」
「そんなこと、気にするなよ。すごい、安心したよ。俺今、すごい安心してる。さっきまで、気持ち滅茶苦茶だったのに・・・。やっぱり、お前がそばにいなくちゃだめだなって思った」
 俺は体を反転させて、彼と向き合った。
「・・・俺、女役しかできないし・・・つまんない奴だよ?」
「そうじゃない。そんなこと、重要じゃない。俺もお前もお互いが好きで、お互いを必要としてる。大事なのは、そのことだろ?」
 彼は優しい声と表情で、囁きかけた。手を、握ってきた。
「そうかな・・・」
 俺はその手を頬に引き寄せ、彼の手の熱さを感じながら言った。


 ピンク色の八重咲きの花。花々の間から、日の光がこぼれてくる。俺はそのまぶしさに、目を細めた。
 里桜の下に立って、俺はこれからのことを考えていた。
「・・・春樹」
 そばにいる彼に、呼びかけた。
「ん?」
 春樹はズボンのポケットに手を入れたまま、俺を見た。
「この先を、面白くするのもつまらなくするのも、自分次第だと思わないか・・・?」
「そうだな」
 彼は微笑みながら、下の土を踏みしめて近寄ってきた。
 そうして、また二人で花を見た。その花びらは、とても柔らかそうだった。
 春にはやはり、春らしさを演出してくれる花が必要なのだ。
 

END


春愁い