キスしても抱いても、恋人じゃない。
愛されていないのは分かっている。でも、愛している。彼のためなら、なんでもできる。
元々、人の恋人に横恋慕したのだから、彼の愛を求めるのは贅沢なのだと分かっている。
会ったこともない清太の彼氏に嫉妬しても、しょうがない。だが武司だけでなく、その彼よりも前に清太と出逢いたかった。
愛されてはいない。だが、逢ってはもらえる。ベルはしても良いと、彼が言ったのだ。
大学の授業が終わり家へ帰ると涼は、まず冷蔵庫から麦茶の瓶を取り出して、コップに注ぎ飲んだ。家には、母親だけがいた。軽く言葉を交わすと自分の部屋に入り、すぐにCDコンポのスイッチを入れた。前の晩から入っていた、その詞が若者たちに大きな共感を与えることで有名なバンドのCDの1曲が流れ始めた。涼はそれを聴きながら、ベッドに腰かけた。
それは、恋人のいる女の子に片想いしている、男の歌だった。
清太に出逢う前は何気なく聴いていた歌だったのに、今はまるで自分のことを言われているような気がする。――涼はそのままベッドに横になった。曲は、部屋の中に響く。彼の胸にも・・・。サビの部分を、ヴォーカルの男が歌い上げる。ずっと聴いているとたまらなくなり、涼は起き上がってCDを止めた。そのまま、しばらく立ち尽くした。
部屋の中を歩き、机へと向かう。横の窓から、夕方特有の気だるい熱を持った日の光が、レース・カーテンを通して注いでくる。夏なので日が沈むにはもう少し時間がある。カーテンは、今朝二度寝のために寝坊して慌てていたので、起きてすぐには開けなかった。着替える時にレース・カーテンだけ残して、開けた。日が暮れたら、またその白いカーテンは役目を終えてもう一つの厚い布に隠されるのだ。
前の晩、涼は今流れているCDを聴きながら眠った。眠れない夜だったが、彼らの曲に幾分か心が癒され、子守唄となってやっと眠りに就けたのだ。CDは1枚終わって止まったが、主電源を切り忘れていたことを、涼は朝になってから気付いた。この曲は、ある時は癒され、ある時はたまらなくなる。
何故眠れなかったか・・・? 清太のことを想っていたから。再会して抱きしめることはできたものの、完全に自分のものにはならないのだと思うと苦しくなり、涙さえ出てきた。
あの時清太は、「愛している」と言ってはいけないと言った。
遊びのほうがいい、とも言った。
だがやはり、涼にはそれができそうもない。
しばらく何もせず机に突っ伏して、涼は目を閉じ、溜息をついた。
・・・と、顔を上げ、そばにある電話の子機を手に取った。まだかけたことはないのに、携帯にメモリーした数字を何度も見たので覚えてしまっている、清太のベル番号を押した。
*
久しぶりに見る光樹の笑顔は、やはり素晴らしかった。
彼と逢ってこの温かい笑顔を見ることが、清太にとって何より幸せなことだった。
今日は月曜で、光樹の大学の、午後の授業が休講になり、清太の部活はミーティングと軽い練習だけだったので、夕方から二人は逢うことになった。土日は光樹が仲間と海に行く約束をしてあるからだ。ここのところあまり海には行っていなかったと光樹が言い、彼の趣味を奪ってばかりでは申し訳ないと思って、清太が承知したのだ。それで、このわずかな時間に逢うことにした。
今は二人での買い物を終え、ファミリー・レストランのテーブルで向かい合って落ち着いていた。夕食まではまだ間があるので、まずは冷たい飲み物だけを注文していた。二人とも、4人掛けの隣りの椅子に、買った服を入れた紙袋を置いている。今日はジーンズを見て欲しいと、清太が光樹に頼んだのだ。紙袋の中には、光樹が「似合うよ」と言ってくれた細身のネイビー・ジーンズが1本入っている。光樹のほうには、オレンジ色のTシャツと、柄物の半袖シャツが1枚ずつ入っていた。
窓際の席で、今は会社や学校帰りの人たちが外の通りを歩いている。たまに、男女のカップルも通った。制服姿の女の子の群れがはしゃいで行過ぎた後に、制服の男の子の二人連れが一組通った。だが彼らは自分たちとは違うだろう・・・と清太は思った。自分たちと同じ目をしていないからだ。これが休日になれば、男女のカップル、女の子の数人連れ、家族連れ、の順で街を行く人の群れはここを行過ぎるのだろう。男の二人連れは、休日でもやはり少ないだろう。
清太は街で髪の短い二人連れが手を繋いでいるのを見る度、同類ではないかと思ってしまう傾向があった。だが、たいていは男とショート・カットの女の子なのだ。――そんな勇気のある同類がそうそういるわけはない、と裏切られたような気持ちになり、その度に思い直すのだった。
「・・・どうかした?」
頬杖を突いて外を見ている清太を見て、光樹が声をかけた。
「ん、いや、なんでもないよ」
清太は光樹のほうに向き直った。笑顔を見せた。光樹はそれで、話を続けた。
「なんかさ、たまにはファミレスじゃないとこに入って、もっと変わったおいしいものでも食べたいよね。ごめんね、結局今日もこうなって。前もってうまいとこ調べとくよ、今度」
「ううん。ここもおいしいからいいよ」
おいしいところ・・・といっても、男――年端のいかない少年と青年二人で入れる店といったら限られてしまうことを、二人とも知っていた。焼き肉屋、ラーメン屋、今日のようなファミリー・レストラン・・・。高級感のあるフランスやイタリア料理屋などは、やはり抵抗がある。
「あ、じゃあ中華は? 好き?」
「中華・・・うん。好き。どこか知ってるの?」
「前、横浜住んでたからね。昔は親に連れられて色々行ってたよ、中華街」
「へえ・・・。じゃ、今度連れてって」
「うん、分かった。行こうね」
光樹は笑顔で言った。
そこへ、雰囲気を壊すように清太のポケベルが鳴った。清太は真顔になった。
「ちょっと、ごめんね」
チェーンでズボンのベルトに付けていたそれを外し、手に取り、見た。
画面は、こう呼びかけていた。
『にちよう あえるかな? リョウ』
その文字が、控えめに並んでいた。清太は見た途端、蒼ざめた。すぐに、電源を切った。
「何? 誰?」
光樹は何気ない表情で聞く。
「あ、友達。秋川」
清太は内心とても焦っていたが、それを悟られないように恋人に言った。
「そう。すぐに電話しなくていいの?」
「うん。帰ってするから」
用件までは聞かれなかったことが、不幸中の幸いだった。――恋人に嘘をついてしまったことを、清太は後悔したが、仕方がなかった。光樹には、今のところ武司や涼のことは知られていない。
光樹に笑顔を見せながら、清太は自分が汗をかいているのではないかと思った。
『もうっ、涼のばか・・・っ』
その夜清太は、涼に電話をかけようか迷っていた。
この間武司に話を聞いてから、すっかり彼への気持ちが冷めてしまった。――というより、軽蔑していた。別に元々好きなわけではないのだが。
清太は自室のベッドの上に座って、テレビを点けながらも考え事をしていた。
あの時、彼は言った。『君以外の誰も抱けなかった』と。だが、武司に『抱かれて』はいたのだ。自分を”いかせる”ために・・・。
涼に再び抱かれた時から、少しは男らしいところもあるのかと思い直しかけていたのだが・・・。とんでもない嘘つきだ。なんて女々しい男なのだろう、と清太の心にまた怒りが昇ってきた。まるで自分をものみたいに扱って・・・。『愛している』という言葉さえ、嘘に聞こえる。
彼の携帯番号は、この間ベル番号と交換した。涼にはまだベル番号しか教えていない。武司には家の電話番号を教えているが・・・。だから、このまま自分が電話をかけなければ、それきりなのだ。また彼からベルが鳴らされなければの話だが・・・。
と思ううち、ベルが鳴った。
『でんわがほしい リョウ』
やはりな内容だった。
――その夜、結局清太は彼に電話をしなかった。