翌日も、涼からのベルは鳴った。
朝昼はなく、夜、勉強机に向かっている時に鳴った。再び彼からのベルが鳴るだろうことは、予想がついていた。”待っていた”といういい方は嫌だが・・・。
『声が聞きたい 忙しいのかな? リョウ』
それを見て、また清太の中に怒りが湧いた。気付いていないのか。武司とのことを、自分が知っているということを・・・。なんて鈍いのだろう。持っていたシャープペンシルを置き、思わず清太は子機を手に取った。彼に直接言ってやろうと思ったのである。
1、2回の呼び出し音の後、涼はすぐに出た。
「・・・清太?」
出るなり、涼は言った。どこか伺うような声色だった。それで、さすがに彼も分かっているのか、とふと思った。
「ん、そう・・・」
その後の言葉が続かなかった。
「昨日はどうしたの? 電話、くれなかったけど・・・忙しかった?」
「・・・」
その第二声を聞いて、初めの思いは覆された。清太は何も言わない。不安になって、涼はまた言った。
「あの・・・どうしたの? 何か、怒ってる?」
やはりだ。涼は、気付いていない。なんておめでたい男なのだろう。清太は思った。
「・・・何か用?」
無感情に、清太は言った。
思いも寄らぬ清太の態度と言葉に、涼は戸惑った。今電話の向こうにいるのは、確かに清太だよな・・・と確かめるかのように、携帯を見た。
「用って・・・。昨日のベル、見たろ? 日曜、逢いたいんだ。空いてるかな?」
「逢って、どうするの?」
相変わらず清太は感情を込めない。この間は笑顔で「ベルしてね」と言ったのに、今日の彼はなんだか違う。戸惑いを隠すように、少し明るく涼は言った。
「美術館に絵を見に行こうと思ってるんだ。・・・だめかな?」
「美術館? それだけ?」
「いや、その後海を見に行こうかと思ってて・・・。車で、横浜のほうを回ってさ」
清太は子機を少し耳から離した。何を脳天気なことを言っているのだろう。あまりにおめでたいので、この場で絶縁状を叩きつけてやることは、ひとまずやめようかと思った。
「それって・・・デートしたいってこと? Hだけじゃなくて・・・」
「そう」
「そんなのめんどくさい。Hだけすればいいじゃん。愛してるだのなんだの、やだって言ったでしょう?」
「でも・・・やっぱり、俺はそれじゃだめなんだ。・・・好きなんだ」
聞きたくない言葉を言われ、清太は唇をかみしめた。
「・・・切るよ」
「まっ、待って! 逢うだけ、逢ってくれないか? 逢いたいんだ」
禁句がまずかったのか、と反省しながら、涼は焦って言った。
「だって、デートなんか時間の無駄じゃん。逢って、どうしたいの?」
「話をしたい・・・」
思いつめたような、涼の声。
「なんの?」
「お互いのこと・・・。俺たち、まだちゃんと話したことないから・・・」
「そんなの必要ない」
清太が何故こんなにも自分を拒むのか、涼には分からなかった。何故、こんなに不機嫌なのだろう。
そう思ううち、携帯電話の向こうから、思わぬ冷たい声が聞こえてきた。
「・・・あんたって最低」
「え?」
意味が分からず、涼は言った。
「武司と寝たんでしょう? 僕と再会する前に・・・。全部聞いたよ、武司から」
静かに、清太は言った。
その言葉に、涼は慄然とした。思わず、携帯を手から落としそうになった。ベッドに腰かけていたのだが、その瞬間、部屋中に静寂が訪れたような気がした。
「聞いたって・・・いつ?」
掠れた声を出しながら、涼は言った。
「先週・・・。武司と逢ってる時に、僕が涼に逢ったよって言ったら、武司が話し始めたんだ。僕をいかせるためとかいって・・・、寝たんでしょ?」
念を押すように、清太は繰り返した。最後のほうは、どこか悲しそうな声になった。
しばらく、涼は何も言えなかった。何を言うべきなのか、分からなかった。
清太と逢った時、武司に教わった通りに抱いたことを、全く意識していなかったといえば嘘になる。その技を、少しは使ったかもしれない。だが、あの時はただ夢中だったのだ。ただ、清太を抱きしめて愛せるということが、嬉しくて・・・。だが、このことを清太本人に知られるとは・・・。
今は恥ずかしさと、取り返しのつかない事態になってしまったことへの焦りで、いたたまれない気持ちだった。
やっと、涼は沈黙を破った。
「・・・軽蔑してる・・・かな、やっぱり・・・」
「うん」
間を置かず、少年は残酷に言った。
涼は目を閉じ、携帯を握りしめて、さらに聞いた。
「もう・・・嫌いになった? 俺のこと、男らしくないって・・・」
そんなことより、何故何よりもまず先に謝ってくれないのかと、清太は怒りと悲しみの入り混じった感情に包まれていた。清太は涼の質問には答えなかった。
「なんで・・・そんなことしたの? なんで、武司と寝たの? 僕のこと愛してるとか、言ってたくせに・・・。あんたって、そんなに自分に自信がないの? あんたにとって、武司はライバルじゃないの?」
言われる通りだった。もはや、弁解の余地はないのかもしれない。それでも言葉を探ろうと、涼は考えを巡らせた。嫌われた。でも、嫌われたままにしたくない。
「君を・・・愛してるから・・・だから俺は・・・、君と一つになりたかったから・・・」
振り絞るように、涼は声を出した。思わず、一番の禁句を口走ってしまったが、こう言うしかなかった。
「何それ」
それきり、清太は黙ってしまった。
こんな言い訳が通用するわけもなかった。だが、真実なのだ。涼は、修復しようのない二人の関係を痛感していた。
子機に汗がにじむのを感じながら清太が時計を見ると、11時を過ぎていた。両親は、おそらくもう階下で寝ている。その証拠に、物音がしない。清太の部屋にも、静寂が広がっていた。耳を澄ますと、虫の音が聞こえてくる。いつもは心を静かにするものとして聞いていたが、今清太は、うるさい、と心の中で言った。罪もない虫たちの声に・・・。
「やっぱり、僕のことは体目当てなんだ・・・。ひどい、本気なんて嘘。愛してるなんて嘘。全部、嘘だったんでしょう?」
涼を非難しているうち、清太の両目から熱いものが溢れ出し、頬を伝った。清太はそんな自分に驚いた。こんな男に涙を流すことが悔しくて、目を固く閉じた。すると、ますます涙は零れ落ちてくる。初めは遊びのほうがいい、と言っていたのに、何故か彼の愛を求めるようなことを口走ってしまった。言ってから、清太は後悔した。自分の気持ちが、分からない。
「違う。本当だ。嘘じゃない。愛してるんだ。だから俺は・・・君と1日過ごしたいんだ」
電話の向こうで愛する少年が泣いていることを感じながら、涼は必死になって訴えた。
その悲痛な声を聞いて、清太は少し心が動いた。今すぐに許す気には、とてもなれないが・・・。
「・・・武司とのことは、謝るよ。許してもらえないのは、分かってるけど・・・。愛してるんだ、君を・・・。これだけは本当だ」
今更ながら涼は、自分の男の性(さが)を憎んだ。「愛している」と言えば言うほど、その言葉が空虚に聞こえてしまうことを、涼は知っていた。どうしたら、分かってもらえるのだろう。
「清太・・・君に、見せたい絵があるんだ。どうしても、君に見てほしい絵が・・・。それを見たら、俺の気持ち、分かってもらえると思う・・・」
緊張しながら、涼は清太の答えを待った。
「絵って・・・どんなの?」
まだひくつきながら、清太は声を出した。
「クリムトって画家の絵なんだ。・・・知ってるかな?」
「少し、は・・・。名前は聞いたことある・・・」
清太の気持ちが落ち着くのを待って、涼は少し沈黙を作った。
「・・・どんな絵かは、口では説明し辛いんだ。とにかく、見てくれればきっと分かる。・・・日曜、逢ってくれるかな?」
清太はすぐには答えなかった。このまま電話を切っても、涼はあきらめずにまたベルを鳴らしてくるだろう。それに、清太には確かめたいことができていた。それほど言うのなら、涼を試してみたいと思った。
「・・・分かったよ。逢うよ」
そう言うと、受話器の向こうで涼がほっとする雰囲気が伝わってきた。
互いの意見を出し合って、時間と場所を決めると、長い諍いの時間は終わった。清太はゆっくりと、子機を台に置いた。今日はもう、勉強の続きをする気にはならなかった。電話で話していただけなのに、ひどく疲れを感じていた。そのまま、ベッドへと倒れ込んだ。
体が目当てじゃないと言うのなら、誠実さを見せてもらおうじゃないか。
車の中で変なことをしてきたら、殴って今度こそこっぴどく振ってやる。
涼の言っていた画家の名前を呟きながら、清太は一日を終えた。
Hot Spice
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