「僕・・・」
その言葉はためらわれた。見詰め合う二人の間に、強い海風が吹き抜ける。二人は髪を、乱れるに任せた。Tシャツや半袖シャツにも、風が当って皺を作る。
清太は答えを告げる前に、彼にどうしても聞きたいことがあった。聞かなければならないことが・・・。
「一つだけ聞かせて・・・。涼、僕を・・・彼氏から奪う気があるの・・・?」
視線を逸らさずに、彼の目を見て清太は言った。涼は、すぐには答えない。十数秒、沈黙が流れた。そして、彼は口を開いた。
「・・・あるよ」
また、清太の胸が脈打った。先ほどよりも一層強く・・・。片脚が、思わず1歩後ろへ下がった。
「来て」
涼は少年の右手を取った。そのあたりにはまだ男女のカップルがいた。周りに人がいない、声の届かない場所まで、彼は歩いた。江ノ島が二人から遠ざかっていく。
清太は拒まなかった。自分の手を握る彼の手を。
いつしか、こうして彼に手を取られたことがある。あの時は無理矢理引っ張られるという感じだった
が、今は優しく引いてくれている。その手を――清太は握り返した。彼の乱れる髪の隙間から、白い項(うなじ)と浮き出た首の骨が覗いた。昔、片想いで恋した人のそれよりは細いだろうか・・・。
――あの時涼と出逢わなければ、再会しなければ、今ごろ自分は、知らない男たちに身を捧げ続けていたかもしれない。清太は胸が締め付けられるのを感じた。何故今こんなふうに思えるほど、自分は素直でいられるのだろう。
涼は歩みを止めた。清太も止まる。涼は手を繋いだまま、海を見た。海面を、月明かりがこうこうと照らしている。夜の風に、波が立つ。昼間見たのとは違う海・・・と、二人思った。
「・・・俺は、君ほど人を好きになったことがない。だから、あきらめるなんてできない。君が逢ってくれるなら、それだけでもいいと、最初は思ってた。でも、今は違う。もう迷わない。君に彼がいても関係ない」
そう語る涼の横顔を、清太は見ていた。決意に固められた、いつになく男らしい顔がそこにあった。その輪郭は、月明かりに縁取られて彫刻のようだった。その横顔が振り向いて、別の角度を見せた。
「・・・愛してる。清太、君が来てくれるなら俺は、ずっと君を・・・」
涼は手を離して、少年の両肩をそっと掴んで体を自分のほうに向かせた。
「涼・・・」
言わなければならない。言わなければならない。だが言った時には、何かが変わってしまう。その怖さから清太の目に、熱いものが上ってきた。呼吸するのが、苦しい。
「僕・・・僕・・・」
その不規則な呼吸が彼に伝わってしまうかもしれない、そう思いながら、清太は振り絞るように声を出した。彼の瞳から目を逸らさずに・・・。
「涼が・・・好きだよ・・・」
この時に、一つの不実は解消され、もう一つの不実はその色を濃くした。
言った後、清太は大きく息を吸った。
待ち焦がれた彼の言葉を耳に残しながら、涼は一抹の不安を感じていた。
『・・・信じていいのか? 義務感とか、同情とか、そういうことじゃないって・・・』
そんな彼の感情を表情から読み取ったのか、清太は続けて言った。
「同情とか、そんなんじゃないよ。・・・あんたが、好き・・・」
気が付くと脚を踏み出し、涼の胸に寄り添っていた。
どちらが、ということは今は聞いてほしくはない。だが、彼への気持ちがあることは事実だった。愛・・・なのかはまだ分からない。ただ、彼の優しさに包まれることが、自分にとって幸せなのだと分かった。
涼は愛する者の体温、感触を、薄いシャツ越しに感じていた。腕は自然に彼の背中へと伸び、その体を包んだ。二人、しばらくそうして時間が過ぎるのを待った。波の音、風の音が、闇夜に響く。
青年が、少年のあごに手を触れた。少年は相手を見上げる。その瞳は潤んでいるようだった。涼の手は、さらに相手の顔を上げさせ、頬にまで伸びた。
「清太・・・」
名前を呼ぶと、少年の瞳はまぶたに覆われた。
――いつぶりなのだろう。彼の柔らかい唇に、こうして触れるのは。
涼は愛情をもって、彼の気持ちを唇から感じ取ろうとした。清太は初めだけどこか戸惑いがちだったが、後は素直に受け入れてくれた。触れ合ってはいたが、互いの唇の奥までは、愛し合わなかった。
「・・・まだ、ここにいる?」
唇が離れると、清太はそっと言った。手を彼の胸に添えたまま、体だけ少し離した。
「ん・・・」
涼も、相手の背中に腕を預けたままにする。
「夜の海も、きれいなもんだね」
言って、体を離し、少年の横に立った。
「うん・・・」
清太も言われるまま、海を見る。その上の空にも、目をやった。街明りで星はほとんど見えないが、それでも、1等星だけはあちこちに瞬いているのが分かる。どれも、澄んだ金色や青色をしていた。
「あ、鳥の写真」
涼は思い出したように顔を上げ、振り向く。
「今度・・・持ってくるよ。君を撮ったものも・・・」
「二人で撮ったのも・・・ね」
清太ははにかみながら、静かに言った。
「そうだね・・・」
涼は胸が熱くなるのを感じながら答える。
やがて、車へ戻ることにした。二人、並んで砂浜を踏みしめる。その間も、風は吹いて髪を乱す。
横を歩く清太の顔に、微かに笑みを見出した涼は、気持ちが軽くなるのを覚えた。その表情は、やはり何ものにも替えがたく美しかった。この美しい笑顔を、ずっと守っていきたいと思った。
闇の中にも道路からのほの明りを受けて輝く、語らう恋人たちの間を抜けながら、やっと彼らと対等になれた気がした。
この先、全てが滞りなくゆくとは限らない。それは、あるいは難しいかもしれない。それを、清太も感じているだろう。だが、自分は彼を信じている。きっと、ついてきてくれる。
これからも、彼と歩いてゆきたい。大切にしたい・・・。愛しているから。
END
(第4話終わり。第5話に続きます)
Hot Spice
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