戸塚を過ぎ、藤沢市へ入った。県道10号線と26号線が交差する藤沢橋付近は特に混んでいるだろう。涼はそちらの方向は避け、そのまま車を走らせた。
 それでも海が近づくにつれ、予想通り車の量は増えていく。すでに日は落ち、あたりは暗い。車のライトも先ほどつけた。清太とこれから見る海も、闇に包まれた黒い色をしていることだろう。
『もう少し、早く出ればよかったかな・・・』
 涼はハンドルを握りながら思った。
 渋滞すると分かっていたのだから・・・。だが、マリンタワーで清太と過ごした時間は、1分たりとも捨てがたい、貴重なものだった。だから、遅くなっても仕方がなかったのだ。

 やがて、1号線を抜け鵠沼新道へと入る。その突き当りが、国道134号線だった。松波交差点でT字型に交差しているのだ。新道を走るうちに、やっと海が見えてきた。涼は横ですっかり深い眠りに入っていた少年を見やった。彼は傾けたシートに体を預け、首をこちらに傾けて両手を腹の上で組み合わせている。幸せそうな眠りから呼び起こすのは気が引けたが、彼に言われていた約束があるので、涼は声をかけた。
「清太、着いたよ。海が見える」
「ん・・・」
 少年は目をゆっくりと開けた。美しい寝顔とは別れることになった。彼はシートを倒したまま目をこすり、涼のほうを見る。
「着いたの? 今どのへん?」
 彼はまだ寝ぼけ眼のようだ。
「ほら、目の前に海。もう、暗くなっちゃってるけど・・・」
「わあ、ほんとだ」
 少年はフロントガラス越しに海を見つけ、体を起こした。レバーを動かしてシートも起こす。清太が窓から周りを見ると、道は街灯やコンビニ、飲食店などの街明りに照らされている。

「すっかり、夜だね。ね、窓開けていい?」
「ああ」
 涼は朝のようにエアコンを切った。交差点の信号まで差しかかり、ちょうど赤になった時に今度は自分も窓を開けた。車は左折し、134号線に入る。反対車線、ガードレール、そしてその先に間近に黒い海が広がる。車内を海風が吹き抜ける。清太は窓を全開にし、それを感じた。海は涼越しに見える。
「気持ちいい・・・」
 潮の香りを含んだ風を顔に受けて、清太は素直に感想を述べた。
「お店って、まだ?」
 彼は髪を掻き揚げながら聞く。
「うん、ここからすぐなんだけど・・・。ちょっとやっぱり、渋滞してるみたいだね」
 涼は困ったような顔をしてみせた。
「なんのお店なの?」
「イタリアンなんだ。なんか、地元の若い人がよく利用してるんだって。そこ、テラスもあって、気軽に入れるかなと思って。地元の魚貝類なんかも料理に出るらしいし。駐車場も広いみたいだから」
「ふうん・・・。よさそうだね」

「あ、ここだよ」
 ようやくその店が見えてきた。ガイドブックによると、駐車場には70台ほど入るらしかったが、今日はどうか・・・。涼は緊張しながら車を進めた。幸運にも、「空車」の表示があった。
 車を出ると、二人は明りの灯る店へと向かった。外観は白い洋館風で、2階にはテラスがあり、そこからも明るい光と人々の話し声が漏れている。入口には、地中海式の神殿のようなこれも白い柱が立ち、その上にイタリア語で青く店名が書かれた木作りの看板が掲げられており、照明に照らされて浮かび上がっていた。
 木造のドアを開けると、入口付近に並べられた椅子に若者のグループやカップルが腰かけて、順番待ちをしているようだった。
「混んでるみたいだね。予約すればよかったかな。ごめんね、昼間に続いて・・・」
 涼は申し訳なさそうに言う。
「いいよ。すぐに順番きそうだし、流行ってるってことでしょ?」
 待っている若者たちは、言われてみれば2、3組だった。中には肌のよく焼けた、茶髪のグループがいた。

 15分ほど待ち、順番が来た。茶色がかったロングヘアーの若い女性店員に案内され、テーブルへと落ち着いた。2階のテラスはあいにく満席ということだった。
 清太はえびやあさりの入った魚介のドリア、涼はきのこのクリームソーススパゲッティを頼んだ。他に二人でミックスサラダと”いしもち”のグリエ(焼き魚)を取り分けることにした。
「さっきの、サーファーかな?」
 涼は先ほど順番待ちをしていたグループを思い出して言った。深く考えずに言ったのだが、彼なら――清太ならサーファーを見分けられると、無意識のうちに考えていたのかもしれない。それを思い、涼は言った後でしまったという顔をした。
「うん、そうかもね。ここって、ほんと地元の若い人が多いみたい」
 すると清太は気にしていないように言う。涼はほっとした。周りには家族連れなどもいたが、自分たちと同じような年代の男女が特に多く集まり、彼らの笑い声や話し声で店内は賑やかだった。若干、女性客が多いような気はした。涼も、高級感のある大人っぽい店は入りにくいと考えているのだろうか。男二人では・・・。

 清太は光樹と海岸沿いのファミリーレストランに入ったことはあったが、この店は初めてだった。彼なら知っていてもおかしくないのだが・・・。いつも自分と待ち合わせをする海とは、少し離れているせいだろうか。もしおいしかったら、ここに彼とも来てみたい、と清太は思ってしまった。だが、今涼とこの店にいることに、最初中華街に入った時ほどの違和感は感じなかった。
 涼の話によると、料理は魚貝類だけでなく、野菜も地元農家のものを取り入れているそうだ。味は申し分なかった。
「ここって、昼間は地元の主婦の人なんかがよく利用するんだって。グループで来てさ」
「へえ。うん、おしゃれだもんね」
 清太は内装を見渡してみた。白、青、緑を使った、落ち着きながらも明るい雰囲気だった。テーブルや椅子は濃い茶色で、壁や天井に使われた原色を映えさせている。

 食事が一通り済むと、二人イタリア風のコーヒーを頼んで、今日行った場所の話をした。鳥の話、ロボットの話は特に盛り上がった。清太はここでも笑顔をこぼした。だが美術館の話だけは、二人とも避けていた。話が深刻になって互いの笑顔が消えてしまうことを、怖がっているように・・・。
「鳥の写真さ・・・できたら僕にも見せてくれる?」
 清太は何気なく言った。
「え・・・」
 涼は思わず返答に詰まった。
『見せてくれる?』ということは、今日別れた後も自分と逢ってくれる、ということなのだろうか・・・。
「あの・・・。それって・・・」
 涼の言葉に、清太も自分が言ったことの意味を改めて悟った。
「これからも・・・俺と・・・」
 涼は真剣な表情になり、ゆっくりと言おうとした。
「待って」
 笑顔を消し、清太は続きを制した。
「ちょっと・・・海に出ない? 海岸に・・・」


 食事代は涼が出すと言ったが、それでは悪いからと清太が言い、結局二人で出すことにした。店を出て、二人で黒い海が待つ海岸の砂浜へと下りた。車は近くの駐車場へと停めた。
 清太が先に立って、スニーカーを埋めながらあてどもなく歩く。涼はその背中を見ながら、後を行く。海の向こうに、江ノ島の鉄塔が光を放つのが見える。砂浜には、男女のカップルなどがぽつぽつと座ったり歩いたりして、語り合っている。昼間は海水浴客で賑わっていたのだろうが、今は静かなものだ。

 止まったら、涼に今の気持ちを告げなければならない。その時を引き伸ばすためなのか、清太の脚は歩み出し続けた。
 光樹とは、明るい陽光に照らされた海か、夕日に照らされた海を見ることが多かった。こんな真っ黒な海を見たことは、あまりない。夜の海はまるで引き込まれそうで、見る者にどこか恐怖を感じさせる。
――涼を振ることができないのは、彼への気持ちがあるからなのではないか。少なくとも、ゼロではない。もはや、清太にはそのことが分かっていた。
 もし今彼に抱き寄せられたら、拒まないかもしれない。
「清太」
 いつまでも止まらない少年の歩みに、涼は声をかけた。清太はその声に脚を止めた。だが、振り返らない。涼は追いついて、もう一度少年の名前を呼んだ。清太は、やっと体を反転させた。その表情は、戸惑いが隠せないものだった。

 そして見た彼の瞳に、清太の心臓は脈打った。
 最初に涼を避け、武司を選んだもう一つの理由・・・。今、分かった。
 それは、”光樹と同じ目をしている”ことだった。この世界の者特有の、愁いを秘めたその瞳・・・。この瞳に見つめられると、彼を――光樹を――思い出してしまう。だから自分は、涼を避けていた。涼といると重く感じたのは、このせいではなかったか・・・? だが今は、この瞳と対峙しなければならない。逃げてはいけない。

 涼は少年の瞳を見つめながら、考えていた。
 どこまで、期待したらいい? 波のように打ち寄せては返してしまう清太の気持ちを、もう返したくはない。離したくはない。海に・・・光樹に。
 彼がまだ光樹への後ろめたさを感じているかもしれない。だが同情で、義務感で「好き」と言ってほしくはない。ただ、彼の率直な気持ちが知りたい。

「涼・・・」
 清太はやっと声を出した。その声は掠れていた。


Hot Spice
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