大正池と名付けられたその池は、太陽の光と青空とを映して、エメラルドグリーンに輝いていた。
「なーんや。霧なんて出てへんやん」
 薄いグレーのパーカーのポケットに両手を入れた真(しん)が、つまらなそうに言った。
「今日は晴れとるからな。天気予報じゃ明日は曇りや。明日を楽しみにしとれよー!」
 俺は言う。
 俺たちは美大の映研(映画研究会)サークルのメンバーで、秋の学園祭に出す映画を撮りに、夏休みを利用して信州の上高地に来ている。
 監督兼脚本の俺、中村哲也と、主演男優の小笠原真、カメラマンの本山、AD兼大道具の前田、照明の早川、主演女優の篠田麻衣、衣装兼小道具の高橋幸江(ゆきえ)、総勢7人が、池の前に立ち止まって雄大な景色を眺めた。
 俺と真は、学年は一緒の2年だが年は一つ違いの油絵学科の学生で、本山は日本画科、前田と早川はグラフィックデザイン科、篠田はプロダクトデザイン(工業デザイン)科、高橋はテキスタイルデザイン(布や衣服のデザイン)科である。色んな学科から、映画好きが集まっているわけだ。

 大正池は大正4年に、近くにある焼岳大噴火による泥流で、下を流れる梓川(あずさがわ)がせき止められてできた池で、その際水没した木々――シラビソやカラマツなどが池の中に立ち枯れとなって林立してる様は、どこか寂寥を感じさせる。それらの木々が池に逆さまに反映して、それがまたこの景色を幻想的なものにしているのだ。また池には鴨がいて、今もすぐそこを親子連れが悠々と泳いでいる。
 ここからほどない場所に、田代池というまた一回り小さい池があり、周辺は湿原地帯になっている。田代橋を渡り、ホテルが並ぶ上高地温泉を過ぎるとウェストン広場に行き着く。ウェストンは日本アルプスを世界に紹介したイギリス人で、その功績を称えてレリーフが作られている。そこからさらに梓川沿いに行くと、上高地の中心地でもある河童橋がある。芥川龍之介の小説『河童』にも出てくる有名な場所だ。

「でもすごい眺めやなぁ」
 本山が歓声を上げた。彼は荷物を入れた大きなリュックのほかに、16ミリカメラやその機材を入れた金属製バッグも抱えているので、重そうだ。
「やろー? 目の前に雪解けの穂高連峰!」
 俺も前方を指差して、大きな声で自慢げに言った。
 俺と本山、それに真は関西出身で、サークルの中でも特に気の合う仲間だ。
「神野も見たかったろうに」
 本山の横にいた真が、残念そうに呟く。彼はリュックを背に抱え、記録用の一眼レフカメラのバッグを肩から提げている。俺ははしゃいでいた表情を変えて、振り返る。
「当日になってドタキャンなんて」
 と、呆れたように早川。
「しょうがねえよ。ひどい風邪らしいもん。なっ、哲也」
 その横にいる前田。
「あ・・・うん」
 俺は戸惑いを隠して、頷いた。

 今日の朝。俺は電話の呼び出し音に目を覚まされた。一人暮らしの下宿アパートの一部屋に、それは響き渡った。
「なんや誰や〜、朝から・・・」
 目覚し時計よりも早く起こされて、俺は不機嫌にベッドから身を起こした。
 電話台の上の白い電話から受話器を取り、覚めきらない頭のまま、耳に当てた。
「はい、中村です」
「俺・・・」
 沈んだ声が、電話越しに漏れてきた。
「神野か?」
 受話器を持ち直す俺。
「俺・・・今日、行かない」
 沈んだ声は続ける。
「・・・なんで?」
 真剣な面持ちで、俺は聞く。
「聞くまでもないだろ? 見せつける気かよ」
 言葉の裏に静かな怒りの感情を込めて、神野は言った。
「・・・お前何ゆうとんねん」
 自分勝手な彼に、俺はいらついた。
「映画は協同して作るものやねんぞー! お前一人が欠けるだけでみんなが迷惑・・・」
「辛いんだ・・・」
 それだけの言葉を耳に残し、ガチャ・・・と彼はそっと電話を切った。

「監督さん」
 その声に、考え事をしていた俺は気付かなかった。
「哲也」
 やっと、はっとする俺。顔を上げた。声の主は本山だった。
「いや・・・何?」
「今日、撮れるとこは撮っときますか? 林のシーンとかさ」
 前を歩く本山は聞く。
「そうやな」
 大きな池を眺めやりながら、俺は答えた。池は輝き、空は青い・・・。


『辛いんだ・・・』
 その沈痛な声を、俺は反芻する。
 俺と神野は1浪して、今の大学の油絵学科へ入った。同い年だ。真は現役組なので、一つ下だ。
 昔から美大は、私大であれ国立であれどの学科も狭き門で、ちょっとやそっと絵が描けるだけでは、到底入れない。中でも現役で入る者が特に少ないのが、この油絵科なのだ。高校1年から美術部に入って準備していても、難しい。美大専門の予備校の先輩には、国立へ入るために3浪も4浪もしている人がいた。俺も一応現役の時から国立は受けたが2度とも落ちて、なんとか受かったのがこの私大なのだ。神野は最初からここ狙いだった。
 俺と神野とは同い年で1浪同士なこともあって、すぐに仲良くなった。美大生というのは不思議と、初めのうちは現役同士、1浪同士、2浪同士とグループを作って友達になる。高校までは、周りがみんな同じ年で同じ学年だったから、その名残が残るのだろうか。それに、同じ苦労を味わってきた者同士、というのもあるのだろう。しかししばらくすると、そんな垣根は越えて年の差など関係なくなるのだが。

 俺は神野だけでなく、同じ関西出身の真ともよく話すようになった。初めは俺も、彼が現役ということで一目置いていた。多少の悔しさもあったから・・・。だが、ある日彼のほうから話しかけてきた。話してみると人懐っこいというか気さくな奴で、俺はすぐに自分の中の垣根を壊せた。前髪を立てた短髪の黒髪が似合っていて、くりくりとした大きな目が人を惹きつける。俺とはちょっと違う柔らかい関西弁で話す真は、年を問わず男子にも女子にも人気があった。
 そして3人が映画好きということも分かり、一緒に映研へ入った。昼食の時など、3人で行動することも多くなった。観た映画や、自分で撮りたい映画の話に花を咲かせた。

 それが変わったのは・・・俺が真を映画の主役に選んだ時からだった。1年の夏休み前、その年の学園祭用に撮る映画を構想していた時のことだった。映研の部室でみんながいる時に彼がなんとなく冗談で、昨日観たドラマの俳優の真似をしてみせたのが、すごく似ていて上手かったからだ。台詞を言う声の張りも良かった。それを見て俺が試しに、その時書いていた映画の脚本を見せて「ここを演技してみてくれ」と言うと、彼は最初は恥ずかしがって嫌がった。それでも俺が懇願すると、彼は根負けして演じてくれた。すると真は俺が想像していた主人公そのままに動き、台詞を吐いた。男の友情ものでシリアスなシーンだったのだが、・・・俺はその場で震えてしまった。まるで、その主人公が俺の頭の中から飛び出してきたかのようだった。俺は彼を主役に抜擢した。
 
 それから、演技の打ち合わせだといって、俺は神野より真といることのほうが多くなった。映研を出ても、絵を描く時や構内を歩く時も、いつでも彼と一緒だった。神野は何故かやがて、そんな俺たちから離れるようになった。昼食の時も、俺と真以外の学生が一緒にいる時でさえ、同じテーブルにつこうとはしない。
 そんな秋のある日、神野は俺にこんなことを聞いてきた。夕方、部室に二人になった時だ。
「・・・どうして、お前は俺を名字で呼ぶんだ? 小笠原は名前で呼ぶのに・・・」
 立ったまま俺の書いた脚本を見ながら、俺のほうを見ずに彼は聞いた。俺は椅子に座って、撮った映画のフィルムを、スプライサー(切ったフィルム同士を繋ぎ合わせる機械)を使って編集していた。明りをつけた部屋の中に、窓からの夕日が差し込んでいた。
「だって、優(すぐる)って、なんか言いにくいやん? 真やって、そっちのほうが言いやすいからや。そんだけ」
 俺が軽く答えると、そのまま神野は黙ってしまった。その時は、その質問の意味がはっきりとは分かっていなかった。
――ぎくしゃくとした1年が過ぎた。
 今年に入って、俺はまた真を主役に選んだ。映研のメンバーも、誰もそのことに疑問を呈す者はいなかった。神野以外は・・・。

 2週間前のことを思い出す。サークルの打ち合わせ日ではないその日、俺は部室で、脚本の最後の仕上げに取りかかっていた。家でも大学でも、俺はそれを仕上げるために鉛筆を走らせてばかりいた。部室はサークル棟の端にあり、割と静かで落ち着くので、俺は時々ここを執筆部屋として使っていた。そばには真がいた。はかどっているかと、差し入れを持ってきてくれたのだ。
「何々? 『約束の場所』? うわっ、さっぶいタイトルやなー。なんとかならんのかいなこれ、監督さん」
 俺のそばにあった原稿用紙の1枚目を取って、真は冗談交じりに言った。彼は俺の後ろの椅子の一つに座っていた。自分が持ってきたポテトチップスの袋から、1枚を取り出して食べた。
「うっさいな。ええやろ。もう決めたんやから」
 俺は鉛筆を止めて振り返り、反撃した。
「だってや、俺が出るのに、せっかくの学園祭やのにこんなありがちなタイトル? きっついわー。ほかに考えつかへんかったん?」
「はい、そうでした。考えつきませんでしたー!」
 俺は椅子ごと真のほうに向き直り、関西弁のイントネーションで、膝を両手で叩きながら冗談で開き直ってみせた。

「ほんなら、お前何かもっとええの考えてぇや」
 俺は一度立って椅子を真のほうに近づけ、また座った。膝の上で、手を組んだ。
 真は腕組みをし、下を向いた。
「んー・・・。俺も思いつかん」
 顔を上げた。
「なんやそれ」
 俺は拍子抜けして、左肩をがくりと落とした。
「ならやっぱ、これでいくでー!」
 また身を起こす。
「はいはい、しゃーないわ。監督さんも主演男優も、発想が貧困やから」
 真は原稿用紙を俺に渡した。
「どんなサークルやねん」
 二人おかしくなって、笑った。

 そこへ、ドアの開く音がした。真越しに見ると、そこには神野が立っていた。彼は茶色い、肩まで伸ばした髪をしていた。絵を描く時のツナギを着たままだった。俺たちを見た途端表情を変えたのが、俺には分かった。
「何? 今日は打ち合わせはないで、神野くん」
 真は後ろを振り返り、椅子から立ち上がって軽く言った。
「な?」
 俺を見やって同意を求めた。
「ああ。何か取りにきたんか?」
「いや、横井先生が呼んでるから、呼びにきたんだ。たぶんここかと思って・・・」
 神野は真から目を逸らして告げた。
「そう。ありがとうな。・・・また、描き直せっちゅうんやないやろなー。勘弁してほしいわ、あの先生ちょっとでも気ぃ抜いて描いてるとすぐ分かりよるから・・・」
 脚本はまだ仕上がっていないが、続きは家で書くしかないようだ。横井先生は説教を始めると、長いのだ。今日はせめて話だけにして、描くのは明日にしてほしいものだ。ここのところ映画のことばかり考えて、絵のほうが疎(おろそ)かになっているのが、教授には分かってしまったのだろう。

「じゃ、行ってくるわ」
「うん。がんばってき」
「何をや」
 俺は真とそんな会話をし、部屋を出ようとした。
「先生どこにおるって?」
「・・・」
 ドアを開けたところに立つ神野は、俺の顔を見たまますぐには答えない。
「神野?」
「・・・2号棟の、2B教室・・・」
 俺たちが今授業で使っていて、描きかけの絵をイーゼルに立てかけて乾かしている部屋だ。
「分かった。お前も戻る?」
「あ、ああ・・・。絵、もうちょっと描きたいから・・・」
 下校時間だが、助手の許可があれば教室で、自分の納得がいくまで授業で描いている絵の続きを描くことができる。神野がいるところへ、教授がやってきて俺の絵を見たのだろう。
 サークル棟の廊下を歩く時、横を行く神野の表情が冴えないのが見て取れた。
「神野、どうしたん? 最近暗いで、なんか」
「・・・別に、何もないよ・・・」
 口ではそう言っても彼が何かを思いつめていることを、俺はその時悟った。それがなんであるかは、今から数日前に分かった。・・・ 


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