池の周りを少し散策した後、荷物も置きたいし旅疲れもあるので一旦ホテルで休もうと、全員で予約してあるそこへ向かった。
「ここてほんまに絵になるとこやなあ。カメラマンの腕がなるでー!」
 長方形の卓の一角に落ち着くと、本山は後ろに両手を突きながらくつろいで言った。和室で、今この部屋には俺と本山、真、前田と早川、つまり男性組が揃っていた。女子の二人は隣の部屋だ。俺の前には真、右斜め横に本山が座っている。卓の上にはポットなどのお茶入れセットがあり、3人の前にはそれぞれ湯飲みが置かれ、温かそうな湯気を立てている。
 他の二人は部屋に備え付けてあった将棋盤を見つけ、これから勝負を始めようとしていた。
「おい、後で撮影しに行くんやから、勝負してる暇はないで。将棋倒しか将棋崩しにしとけよ」
 俺は部屋の片隅に陣取っている前田と早川に軽く言った。この二人は1年同士で仲が良く、いつも行動を共にしている。
「えー。ちょっとぐらいいいじゃん。部屋出る時、1回勝負お預けにしてさ」
 早川がだだをこねるように言う。盤を挟んで彼と向かい合っている前田も同じような顔をしている。
「しゃあないな、全くお前らは・・・」
 俺は呆れながらも許した。二人共どこか子供っぽいところがあって、だから気が合うんやろうか、などと思った。許された二人は喜び勇んで駒を並べ始めている。

「ところで・・・監督はなんでここ知っとったん?」
 上着を脱ぎ、白いTシャツ姿になった本山が聞く。
「子供の頃家族で来たんや。そん時も霧がすごくて・・・今回のシーンにピッタリやて思い出したんや」
 俺は頬杖を突きながら、当時のことを思い出す。池の水面を、微風にそよいだ長細い霧がゆっくりと動いていく様は、圧巻だった。幻想的で・・・。あんな美しい景色は、生まれて初めて見た。まだ小さい頃だったが、その時の感動だけは今でも鮮明に覚えている。
 今回の映画の脚本はこうだ。
 それまで仲睦まじかった若い男女が、ある時感情のすれ違いから喧嘩別れしてしまう。逃げた女(篠田麻衣)の行方を男(真)が追う・・・。二人が最初に旅行をした思い出の地である湖に男が辿り着くと・・・霧に包まれた湖のボートに、一人で揺られている女と再会するのだ。彼女は男がここまで来るのか、そして男の愛を、確かめてみたかったわけだ。
 大正池は「池」と名が付いてはいるが、湖といってもいいくらいの面積はある。何よりそのエメラルドグリーンの水と霧とが、俺の心を捉えて離さなかったのだ。だから俺はここを撮影地に選んだ。

 本山を見ると、霧のボートに乗った篠田を想像しているのがすぐ分かった。
「篠田さんきれいやろなあ」
 うっとりとした顔つきで、宙を仰いだ。
「俺は? 一応主演男優なんやけど・・・」
 真は苦笑いで、突っ込みを入れるのを忘れない。


「でも・・・やっぱこれも霧あったほうがええんちゃう? ほら、なんちゅうか、しっとりした話やし」
 カメラのファインダーを覗きながら、本山は俺に言った。
 このカメラは学校の備品で、合宿の間借りている。同じ映研の3、4年生の先輩は、バイトで稼いだお金で買った、もっと高価なカメラを持っていたが、彼らは彼らで別チームを作って映画を撮るので、借りられなかった。
「見てみる?」
 本山に勧められ、俺は彼と位置を変わってファインダーを覗いてみた。レンズの向こうには、林の中に佇む篠田がいた。彼女はストレートのロングヘアーで、目鼻立ちの整った美人だった。普段から、あまり美大生には見られないようなお嬢様っぽいところがある。美大の女子は総じて、自己主張が強いせいか、性格が男っぽくなる傾向があるのだが。服装もほとんどみんなジーンズなのだ(これは絵の具などで服が汚れてしまうから、という理由もあるが)。例えば高橋なんかがその典型だ。篠田はそれに反して、大学にスカートもよく穿いてくる。今は役柄もあるので、足首まである白くて長いスカート姿だ。つなみに本山は1年の時から彼女に度々言い寄っている。結果はいつも惨敗なのだが。

 ファインダーの中の篠田は俺に気付き、笑顔を見せて手を振った。少しつり上がった猫のような目が、細くなる。
「中村くん、ちょっと歩いてみていい?」
 少し離れているので、篠田は声を張った。
「ああ。10歩ぐらいでええで」
 カメラマンは本山だが、まずは監督の俺が見てみることにした。
 彼の横には、今日は出番のない真が一眼レフを首から提げながら立って、現場を見守っていた。
 篠田は生い茂る青々とした草の中を、ゆっくりと歩き出した。俺はそれをカメラで追う。
 一歩ずつ歩を進める度に、長い髪が横顔にかかる。俺は彼女を引きで見たり、アップで見たりした。

「いつまで見とるん? もう彼女歩き終わったで」
 本山が横から声をかけた。
「あ、ああ・・・」
 俺はファインダーから目を離し、かがんでいた腰をまっすぐにした。
「な、どんな感じ? これに霧があったら、もっとよくなると思わん? 木とか周りの景色が霞んどるほうが、篠田さんの美貌が映えるってもんや。な、真もそう思うやろ?」
 真は篠田のほうに目をやり、「まあな」と軽く頷く。本山はわくわくしている様子だ。
「うん・・・。でも、明日以降ちゃんと霧が出るかどうか・・・」
「なんで? さっきはあんなに自信ありげやったやんか。明日は曇りやからって」
「そうやけど、青空やもん、今。なんか自信なくなってきた」
 俺は空を見上げた。本山も真もつられる。空には雲も出ていたが、面積的には青色のほうが勝(まさ)っていた。
「ま、これ見とったらそう思うのも無理ないけど。合宿の間ちゃんと出てくれんと困るな。それがあっての映画やし。な、とりあえず今日はどうする? 霧なしで撮ってみる?」
「うん。とりあえず今日は、試し撮りだけしよう」

 その日は結局、”女”が湖に向かって林の中を歩くシーンだけを撮って終えた。
 機材を片付けている時、手伝っている俺に向かって本山は聞いた。すぐそばには真や前田、早川もいる。
「な、お前って篠田さん意識しとるわけ? それとも、篠田さんがお前を好きなんかな?」
 俺は三脚を畳んでいた手を止めた。思わず鼻で笑った。
「何ゆうとるん? いきなり・・・。彼女にはちゃんと彼氏がおんねんぞ。同じ科の・・・。お前も知っとるやろ?」
「そんなん分かっとるけどや、気が変わるってことも人間にはあるもんや」
 何やら疑り深い彼だった。
「あのな、俺は彼女をそういう目で見てへんから、安心しいや。俺までお前の片想いに巻き込むなや。篠田はあくまで”友達”で”仲間”や。サークルの・・・。彼女かて、全然そんなんとちゃうと思うで」
「ほんまか?」
「ああ。せやからこれからもアタックがんばりや」
「アタックて、そんな古い言葉・・・。でもま、そんなら分かった。ごめんな、変なことゆうて」
 彼はやっと納得してくれ、カメラをバッグに入れに来た。

 篠田が美人なのは認める。だが、言葉の通り俺にはまるで恋愛感情のようなものは湧かなかった。仲間として、女優としてしか考えたことはない。彼女のほうも、今は彼と仲よくやっているようだし、俺にそんな素振りを見せたことはない。本山の勘繰り過ぎだ。撮影の時手を振ったのだって、単なる監督である俺への合図だ。
 それよりも・・・俺が今気になるのは真のほうだった。数日前の、神野とのある諍い・・・。そのことがあってから、俺は彼を特別な感情で意識するようになってしまった。
「哲っちゃん。また考えごとしとるん?」
 夕日を望むホテルへの帰り道、横を歩く真が声をかけてきた。今回のチームで、俺のことをこう呼ぶのは彼だけだった。
「ああ、もし霧が出なかったらどうしようかて、考えてた」
 俺は適当にごまかした。
「せやな。本やんが言う通り、霧があっての映画やしな。ま、あとは運任せやな」
 彼は仕方がない、といったほのかな笑みを見せながら言った。


 夕食後、明日の撮影計画を立てようと、チーム全員が俺たちの部屋へ集まった。前田と早川の将棋の勝負は、夕食前までの空き時間で決着をつけていた。ちなみに勝ったのは早川だった。
「で、明日は池まで出て、ボートを借りるんやけど・・・」
 俺は絵コンテと脚本を卓の上に置いて、全員に説明していた。みんなの前にも、コピーして作った同じものが置かれている。
 その時、いきなり携帯の着信音が響いた。流行りの女性アイドルグループの曲だった。――篠田の携帯だ。
「おい、篠田。切っとけって言うたやろ?」
 俺は呆れて言った。
「ごめん、ちょっと・・・」
 と、彼女は音を切って携帯を耳に当てた。口元をもう片方の手で隠す。
「あ、ごめんね。今打ち合わせしてるから、後でかけ直すね」
 小声でそれだけ相手に告げると、携帯の電源を切った。
「どうぞ」
 照れ隠しに、篠田は右掌を見せ、前へ差し伸べた。
「何々? 誰? あ、斎藤くんでしょ?」
 彼女の隣に座っていた高橋が、いたずらっぽい顔をしながら肘で小突いてみせた。
「うん、まあ・・・」
「じゃ、今夜は長電話だ」
「うるさいなあ」
「お前たち、もうええか?」
 女二人の他愛ない会話を呆れて聞いていた俺は、咳払いをしてから言った。
「はい」
 二人は怒られた子供のように肩をすくめて、大人しく正座し直した。
 斎藤というのは篠田の彼氏で、旅先の彼女を心配して電話をかけてきたのだろう。本山は真の横に座っていたが、ちょっと見ると悔しそうな顔をしてみせていた。これで俺への疑いも、晴れたことだろう。


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