しんとした教室の、部屋に漂う油の匂いを俺はまた思い出した。
「神野・・・。真とはそんなんやないねん。お前誤解しとるわ。俺はただあいつの演技に惚れこんどるだけや」
 パレットを持ち、筆を動かす手を休めずに俺は後ろの神野に言う。動揺した気持ちを隠すためか、腕は機敏に動く。視線はキャンバスの中を泳ぐ。
「でも・・・今はお前の気持ちにも答えられへん。ごめん」
 俺は神野の顔は見ない。いや、見られない、のか・・・。
 ツナギの衣擦れの音がし、彼が動いたのが分かった。
「なんでだ?」
 神野はおもむろに筆を持った俺の右手首を上から掴んだ。そのまま自分のほうへ引っ張り、もう片方の手で俺の肩を掴んだ。無理矢理、振り向かせる。

「ちゃんと俺の目を見ろよ!」
 カラン、と音を立てて絵の具のついた絵筆は床へ落ち、転がった。
 顔を近付け、見据える神野。俺は掠れ気味な声を出した。
「離・・・せや・・・」
 しかし彼は俺の右手首を掴んだ手の先に力を込めた。
「なんで俺を突き飛ばしたり・・・、笑ってはぐらかしたりしないんだ?」
 睨み付けるように、視線はまっすぐに俺の瞳を捕らえる。俺はその言葉に眉を歪めた。視線を外すことはできない。
 掴んでいた俺の右手を神野は二人の顔のあたりまで挙げる。
「分かってたんだずっと前から・・・。お前は俺と同じだって」
「う・・・」
 ぐっと言葉を詰まらせる俺。
「離せやアホ!」
 たまらず、俺はようやく彼を振りほどいた。早足でドアへと向かう。
「合宿前やのに妙なことぬかすな!」
 彼に表情を読み取られないよう、ドアに向かって俺は叫んだ。叫ぶとドアを開け、振り向く。
「当日ちゃんと時間通り集合せえよ! 分かったな!」
 あの時神野は何も言わなかった。でもあいつの目は訴えていた・・・。”同じだ”って・・・。


 俺は・・・。
『同じ』ってなんや? 『同じ』って・・・。
 神野の気持ちが薄々分かっとったのは事実や。けど、『そんなはずない』って、俺はずっと自分の中で否定しとった。俺にとって神野は、友達以上の何かになってほしくなかった。いつかこういう日が来ることを、予想はしてた。せやから俺は、あの時驚く素振りもあまり見せへんかった。けど、けど・・・。
 やっぱり俺は神野の言葉には納得でけへん。俺は違う。あいつとは違う。
 今まで一度も、同性をそんな目で見たことはないねんから・・・。ないはずや・・・。
 けど、俺はあの時あいつに見据えられたまま、動かれへんかった・・・。

「哲っちゃん」
 思考が渦巻く中、真の声で目が覚めたように顔を上げた。俺の表情は、沈んでいただろうか。
「さっきからなんもしゃべらんと・・・。その間に1枚撮れてしまいましたよ」
 カメラの後ろに立って、真は言う。
「あ、ああ、そう・・・」
「なんや、こっち来てから元気ないなあ。監督さんがそんなんやったら、俺も演技に力入らんようなるわ」
 座ろうと、彼は膝に手をついた。
「何? なんか悩んどるん?」
 彼はその場に体育座りをした。彼に目で促され、俺も横に座る。河原の小石のひんやりとした冷たさを、触れた部分に感じた。真の横顔を見る。

『俺はお前を好きなんかもしれん』
 そんな台詞が、心によぎった。
 アホか俺は・・・。そんなこと言えるかい・・・。
 真に対しても神野同様、俺は彼とは友達のつもりだった。しかし神野に言われてから、俺は確実に真を別な心で意識し始めている。人に言われて目覚める感情、というものがあるのだろうか・・・。
「いや・・・別に・・・。ただ、ちゃんとこの風景を活かしきれた映画が撮れるんやろかって・・・」
 言えるはずのない言葉を飲み込んで、俺は言った。しかし出されたほうの言葉も、あながち嘘ではなかった。
「大丈夫やって! お前の脚本ええし・・・。俺らもがんばるから」
 真は俺のほうを見て大きな目をさらに見開き、笑顔で励ましてくれた。
「うん・・・ありがとうな」

 神野に唇を合わせられようとした瞬間が、蘇る。
 あの時・・・俺はあいつを受け入れるのが嫌やいうより――怖かったんや・・・。

「ほんまに・・・きれいな景色やな・・・。お前が撮りたなるの分かるわ・・・」
 体育座りのまま霧に霞んだ満月を見上げ、俺は溜息をついてから言った。心が震えるような、現実にありえないような風景・・・。しかし、それは目の前に実在している。
「何ゆーてんのー。ここロケ地に選んだん監督さんでしょー。おかげでええモチーフ得られたけど」
 真は膝の前で組んでいた両手を組み直し、目を細めた。焦る俺。
「いい写真撮れるとええな」
 言いながら、俺はあることに気付く。

 なんやろ・・・。なんか、あったかい・・・。
 こういうの、神野といる時には感じひんかった・・・。
 そう俺は思った。

「ありがとう」
 真は微笑む。
 俺は彼のこの温かい眼差しを、いつも待ち望んでいた。彼の笑顔を見ることに、安らぎを覚えていたのだ。だから、この眼差しを壊したくはない。
 横にいる真を、俺はじっと見た。微笑みを返しながら・・・。
「何見とんの?」
 見つめられた真はちょっと不審な目をして、聞いた。
「いや・・・なんとなーく元気出たし・・・」
 俺は池のほうに目をやった。生き物のような霧の流れは止まず、水面を覆い尽くさんとしていた。広大な池、山、空、澄んだ空気・・・それらに包まれ、心は晴れ晴れとしていた。深呼吸をする。

「一緒におるだけで楽しいゆーのはこんなんかなーと思て」
 俺の台詞にきょとん、とこちらを見る真。赤くなる俺。
「俺も・・・かな」
 しかし真は空を見上げながら、さりげなく呟く。そして、また俺を見る。
「お前とおると安心するわ」
 それを聞き、俺の顔はさらにぱっと晴れたに違いない。
「この霧朝まで続くとええな」
 真は体育座りを崩し、後ろに両手を突いた。
「せやなあ」
 外気は冷えていたが、俺の心は反対に温まっていた。


「哲也! 起きろや! 見て見て、外!」
 朝になり、俺は本山に叩き起こされた。あまり寝ていなかった俺は、眠い目をこすりながら窓から外を見る。――目は、覚めた・・・。
「ほらほら真も! 早く起きなきゃ、撮影やろ! 二人ともどしたん? 遅いで!」
 本山は真も起こした。真もなかなか起き上がろうとしない。俺と二人一晩語り合って、彼も寝ていないのだろう。本山はすでに着替えている。他のメンバーも皆起きて布団を畳んでいるところだった。
「あ。・・・やったな。哲っちゃん」
 寝巻き代わりのTシャツのまま、窓にいる俺の横に立って真は言う。

 風景は変わらなかった。夜の間と・・・。違うのは、そこに朝の光が雲を通して注いでいることだった。黒く見えた山も空も池も、今はグレーに染まっている。しかし、立ち込めている霧はとても白い。
 木製の白いボートを借り、篠田をそこに乗せて池に浮かべ、撮影は始まった。俺としては真のシーンを先に撮りたかったが、映画の一番の見所を後回しにするわけにはいかない。朝食の時ホテルの人に聞くと、霧は朝のうちが濃いので撮影するなら今が一番いいと言っていた。

 少し岸から離して、池の中ほどにボートは漂った。
「やっぱり想像した通り・・・いやそれ以上やな。・・・見る?」
 本山は、カメラ越しに見ていた篠田の感想を述べると俺と代わろうとした。今度は俺がカメラの後ろに立った。
「お前また、こんなアップにして」
 笑いながら、俺は篠田を見た。
「だって、表情チェックしないと。きれいなもんは大きく見たいしね。・・・やろ?」
 うまくはぐらかしながら、しかし後半は真面目な口ぶりになって、本山は言った。
「うん・・・」

 確かに彼の言う通りだった。
 彼女は長い髪を乱し、ボートの仕切り板に寄りかかっていた。両手を重ねて、その上にあごを載せて・・・。顔はこちらのほうに傾けている。伏目がちな長いまつ毛の目元、薄く化粧した淡いピンクの唇、白く細い手指・・・。その様は美しかった。俺が脚本を書いている時、心に浮かべたそのままの寂しげな彼女の表情、周りの景色・・・。無意識のうちに、俺は撮影開始のボタンを押していた。
「哲也・・・?」
 本山は驚いて声をかけた。
 気が付いて、俺は撮影を止めた。
「ああ、カメラマンはお前やったな。つい、あいつの表情がええから・・・」
 俺は笑って弁解した。再び本山と代わる。

「・・・今の、使う?」
「いや・・・後で全部撮ってから決めるよ。後はお前に任せる」
「そ。・・・あ、ねー篠田さん、今撮っちゃったって!」
 本山はボートにいる彼女に向かって叫んだ。彼女はぱっと顔を上げる。
「えー、言ってよー! 今変な顔してたでしょ、あたし」
 篠田は俺と本山の二人に言う。
「ごめんごめん。でも、そんなことないって。やっぱええ女優さんや篠田は。俺が見込んだだけある」
 俺は冗談半分に言ってやった。
「もう」と言ったらしい彼女の声はこちらまでは届かなかった。
 ”美しい”と感じたのは確かだ。だが、やはり俺の中には恋愛感情は生まれない。きれいな絵や景色を見るのと同じ感情・・・とでもいえようか。美しいものを美しいと感じた、ただそれだけだ。

 やっと真――”男”を撮る段階になった。
 林の入口に佇む男・・・。彼女――”女”が湖にいるかもしれないと感じ、これから走りだそうとしている男・・・。真が演じるのはそのシーンだ。
「本山」
 カメラをセッティングし終えた彼に、俺は呼びかけた。彼はファインダーを覗こうとしていたが、振り向いた。
「最初に・・・俺に見せてくれへんか?」
「ああ・・・ええけど・・・」
「画角、確かめたいから。さっきみたいに勝手に撮ったりはせえへんよ」
 彼と場所を代わりながら、俺は言う。
「カチンコ係だっているんだから」
 前田が白黒ストライプのそれを持ちながら冗談交じりに言った。本来なら、神野がやるはずだった仕事だ・・・。神野もADの一人だった。
「分かっとる・・・」
 俺は16ミリカメラのファインダーを通して、真を見た。この瞬間はいつも満たされた気分になる・・・。
「真」
 ファインダーを覗いたまま、彼に声をかける。パーカーのポケットに両手を入れて立っていた真は気付いて、こちらを見て微笑んだ。俺も微笑む。

 互いになんも求めんけど・・・俺らは心のどっかで通じ合えとるんやと思う。だから俺は真とおる・・・。それじゃあかんか? 神野・・・。


END


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