打ち合わせが終わると男女それぞれ温泉に入り、男子部屋では世間話や大学の話を仲間同士でしばしすると、ようやく寝ることにした。明日も朝が早い。
 深夜になった。俺は本山の隣に敷かれた布団に入り、眠りに就こうと努力していた。枕合わせに前田と早川が寝ている。3人とも、すでに夢の中らしい。だが、俺は一向に寝付けずにいた。長旅と撮影で、体は疲れているはずなのに・・・。天井を向いていた体を横にし、寝返りを打った。
「・・・」
 俺は神野のことを思い出していた。それは、夏休みに入る直前のことだった。


 放課後、俺と神野とは二人だけで教室にいて、授業時間だけでは納得がいかなかった油絵の続きを描いていた。静物画や人物画ではなく、設けられたテーマにそって描く、というものだった。今回のテーマは「再生」だ。俺は自分のエスキース(スケッチ)をもとに、抽象的な形を描き出そうとしていた。
「哲也、疲れない?」
 俺の後ろのあたりで描いていた神野が、声をかけた。
「いや、もうちょっとがんばってみるわ」
 俺は彼のほうは見ず、絵筆を走らせながら答えた。
「俺、何か飲み物買ってくる」
 彼が椅子から立ち上がる音が、後ろでした。
「うん、分かった」
 その後はドアへ向かう足音がするはずなのに、その音が聞こえてこない。不思議に思って、俺が振り返ろうとした時だった。

「哲也」
 俺の体は、彼に後ろから抱きしめられていた。彼は俺の肩から腕を回して、前で両手を組んでいる。彼の着る青いツナギから、油と絵の具の匂いがした。部屋には、空調の音だけがしている。
「好きだ」
 その声が、二人だけの部屋に響いた。それほど大きくはない、その声が・・・。俺はまだキャンバスに向かったまま、息を止めた。
「神野・・・」
 俺は座ったままやっと振り返り、彼の真剣な表情から、それが冗談ではないことを感じ取った。神野はそっと俺のあごを掴み、口付けようとした。俺は体を動かす代わりに、口を開いた。
「ごめん。俺・・・あかんわ・・・」
 その言葉を聞くと、彼は俺の首の前で組んでいた指を解き、ゆっくりと離れた。ツナギのポケットに両手を入れた。
 彼の今までの言動の答えが、その時全て分かった。思い詰めていた、そのわけが・・・。
「そんなに・・・あいつがいいのか。真が・・・」
 再びキャンバスに向き直った俺の背中に向かい、神野は静かに言った。


 そこまで思い出している時、キィ・・・という音に気付いて俺は起き上がった。ドアのほうを見ると、俺とは一番離れた場所に寝ていたはずの真らしき人影が、ドアを開けて部屋を出て行くのが見えた。部屋は真っ暗なので廊下のほの明りを受けてそれは四角い空間に一瞬現れ、パタン・・・という音とともに、すぐに消えた。
「真・・・?」
 俺は気になるので上着を着て、彼の後を追うことにした。
「うわっ、外は冷えるわ」
 ホテルの外に出ると外気の冷たさに震え、俺は両肩を抱いた。夏とはいえ、ここは山が近いので標高も高い。昼間はまだ暖かいくらいだったが、夜になって気温が下がったのだろう。

「おっ、やっとるやっとる」
 少し歩いて池に着くと、真がカメラを三脚に載せようとしているのが見えた。彼が四角い空間にシルエットで現れた時にカメラバッグのようなものが見えたので、もしやと目星をつけて来たら、案の定だったのだ。
 真は写真が趣味で、いつもカメラを持ち歩いている。このロケには俳優としてだけでなく、スチール写真の記録係としても参加している。持ってきた一眼レフに、自分が気に入った景色を撮るのと、映画撮影の様子を記録するのと、二つの役割を果たさせている。
 今も彼は、池に向けて三脚を動かしながら好位置を探し、カメラをセッティングしている。脇には、色んなレンズやフィルムの入ったバッグが河原の上に置かれている。

「お前も眠られへんのか?」
 俺はそんな彼の横へ歩いていった。カメラのファインダーを覗いていた真は気付いて、俺のほうを振り返った。
「いや・・・見てみ。霧が・・・」
 顔で池を指し示した彼につられてそこを見ると――目の前の景色一面に、白い霧が立ち込めていた。池にも、山にも、林にも・・・。
「あ・・・」
 そのまま、俺は声を失った。子供の頃に見た、その時と同じ霧渡る大正池が、そこにあった。いや、子供の頃に見たのは朝だった。夜の霧に包まれた池を見るのは、これが初めてだ。蘇る、そしてまた新たに生まれる感動に、俺は横にいる真の存在も、しばし忘れた。

「それに満月や。霧に霞んどるけど・・・」
 彼の言葉に暗い空を見上げると、確かに煌々と輝く丸い月が浮かんでいた。薄く霧を通して、それが見える。その影が池に映じている様に、俺は一層息を飲んだ。
「すごいな・・・。いつ、気付いた?」
「うん。最初疲れてたから寝てたんやけど、冷えるなあ思って目ぇ覚ましたんや。そんで、昼間哲っちゃんが霧が出えへんかったらどうしよう言うてたの思い出して、ふと寝ながら窓の外を見てみたんや。そしたらなんか、空気が霞んどった。これはと思ってカメラ持って外に出てみたら、こうなっとった」
 真は話しながら、カメラにレリーズを取り付け終えた。夜の景色を撮るのは露光時間が長いので、直接カメラのシャッターを触って切ってはカメラブレしてしまう。そのために、こうしてレリーズという間接シャッターを使うのだ。黒い紐でカメラのシャッターと繋ぎ、その先にスイッチが付いており、それを押すとシャッターがバネ仕掛けで切られる、という仕組みだ。

「そうか。寒ないか?」
 真は灰色の、俺は白いパーカーを着ていた。それでも、俺は少し肌寒い感じがした。
「いや、大丈夫。下に着とるから」
 次に、真は露出計を使って露出を計った。
 そうしている間にも、池には濃い霧が渦を巻きながら、その上を滑っていた。ゆっくりと、まるで生き物のように・・・。周りの林や穂高連峰は、青白く霞んでいる。いつか、こんな景色を有名な日本画家の絵で見たことがあるような気がした。きっと、その画家も今の俺と同じように、霧を見た深い感動に包まれて記憶に強く刻み付けたのだ。

「俺な、好きな写真集があって・・・それ全部月の光だけで撮っとんねん。そん中に山と湖の写真があるんや。深い霧の夜で・・・」
 セッティングが一段落すると、真は話し始めた。俺が絵のことを考えている時に、彼は写真のことを考えていたのか。俺はパーカーのポケットに両手を入れて、彼の話に聞き入ることにした。下を見ると、様々な大きさの小石が敷き詰められていた。それが、月の光を受けて一つ一つ艶やかに光っている。
「でもな、できた写真には月光が霧を通り抜けて・・・写ってないねん山と湖しか。あるはずの霧が、写真には存在してへん」
「へー」
 俺は感心した声を出した。その写真集は聞いたことはあったが、俺はまだ本屋でちらりと見かけたことがあるくらいだった。真の言わんとしてることは分かる。長時間露光でその時間が長いほど、夜の光はより多く写真に写し込まれる。よく見る花火や車のライトが線になって写っている写真なども、露光時間が長いからこそ撮れるのだ。太陽の光に比べれば、本来ならば弱々しいはずの月の光が、時間をかけて撮ることによって、立派な光源となるのだ。

「俺もいつかそんなん撮ってみたかったんや」
 真は微笑みながら言った。俺も笑む。
「で、こんな夜中に」
「そ」
「暗いから露出に時間かかりそうやな」
「せやねー。何話しましょ?」
 真はまたかがんでファインダーを覗いた。
「・・・」
 俺はそこで口をつぐんだ。俺は――俺はこいつを好きなんやろか・・・?


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