クーラーの効き過ぎた教室に、いろんな高校から集まった男女の学生がひしめき合っている。じっとして若い男性英語講師の講義を聞いていると、俺には寒ささえ感じられるのに、周りのみんなは平気そうに彼のほうに集中し、シャープペンシルを走らせている。
「なあ、寒くねえ?」
 と、隣の春樹が顔をこちらに向けて俺の思いを代弁した。
「うん。みんな大丈夫なのかな? 熱気のせいかな」
 俺は講師に聞こえないよう、ぼそぼそと言った。
 やがて午前中の授業は終わった。

「行こうぜ、飯」
 春樹は立ち上がって黒いカバンをたすきがけに提げ、誘った。
「今日もハンバーガー?」
 俺も立ちながら苦笑いをしてみせ、緑のリュックを背中に背負う。二人の荷物の中には、塾で使う教材やノート、ペンケース、辞書などが入っている。
「ああ。飽きたか? じゃ、牛丼にでもする? ここって食堂はないんだよな、不便なの」
「香純」
 俺が答えようとした時、声をかける奴がいる。享だった。
「俺も一緒に行って、いいだろ?」
「あ、ああ・・・。牛丼にするって、いいか?」
「賛成!」

 夏休みの今、俺たちは大学受験のため、塾の夏期講習に来ている。今受けていた英語構文の授業には、同じクラスの奴や違うクラスの奴が、何人か来ていた。うちの高校に間近いという理由からだ。同じ顔ぶれが違う場所で揃うというのも、変な気分だった。が、春樹だけは違う。
 学校で同じ教室にいられないだけに、こうやって毎日一緒に机を並べていられるというのは、嬉しくて仕方がなかった。春樹も俺も、ついでに享も塾の一般クラスで、成績が中くらいの生徒たちが集まっている。偏差値の高い大学を狙っている頭のいい奴らは選抜クラスに入っている。ちなみに、いつもつるんでいる彰や勝彦は家に近い別の塾に通っているそうだ。

「暑っ・・・」
 1階の自動ドアになっているガラス扉が開いた時、むっとした熱気が3人を包み、春樹が顔をしかめて言った。
 空は青く、雲一つない。まさに快晴だった。
「やっぱ外は暑いな」
「一番日が高い時間だもんな」と俺も掌を額にかざして言う。
「30度くらいまで上がるって、今朝テレビで言ってたぜ」と享も続く。

 塾名が前面に出ているファサードを抜けて建物を出ると、街路樹の百日紅(さるすべり)が赤やピンク、白い花を咲かせているのが目に入った。俺は7月から8月になると、家のマンションの周りの一軒家なんかにこれがあちこち咲いているのを毎年見ているので、この花で『夏が来たんだな』と感じる。「猿も滑りやすい」ほど幹が滑らかなので、この名が付いているのだ。咲き方は、枝の先に小さい花がいくつも円錐状につく。「滑る」なんて言葉、今は使いたくないけれど・・・。3人は空腹を抱えながら花を見、牛丼屋へと急ぐ。

「並三つね。卵も三つ」
 カウンター席に3人落ち着くと、春樹が目の前にいる店員に注文した。威勢のよい返事が店内に響く。
「でも、享を同じ教室で見つけた時はびっくりした。ずっと音楽続けるのかと思ってたから・・・」
 丼が着くのを待つ間、俺は冷たい水を一口飲んで言った。
「なんだよ、俺が大学行っちゃいけないとでも?」
 享は冗談交じりに笑顔で聞き返す。
「いや、そんなこと言ってないよ。ただ、意外だったから・・・」
「言ってるじゃん」
 すると春樹が笑った。
 あの体育祭の後夜祭以降、俺が享たちに会いに遊びに行くのについてきて、春樹も時々軽音の部室へ訪れるようになっていた。今では3人とも仲がいい。

「音楽は――バンドは続けるよ、中村たちと。あいつらもそのつもりだって言ってるし。進路がバラバラになってもさ、土日だけでもいいからバンドやろうって」
 享はテーブルの上で両手を組み合わせ、今度は少し真面目な顔をした。
「ふうん・・・。なんかいいな、そういうのって」
 俺は胸に熱いものを感じながら言った。
「ほんと、仲いいんだな、お前らって」
 と、春樹。
「うん。楽しいから、一緒にいると。別にプロまで目指してるってわけじゃ、ないんだけどさ」
 3人の間に、温かい空気が流れた。ずっと続く友情――それはやはり素晴らしいものだと思う。

 俺は――春樹とはどうなんるんだろう。高校を、卒業したら・・・。
「はい、お待ちどう。牛丼並三つに卵三つ!」
 そこで、店員が丼を次々と目の前に差し出した。俺たちは腹が減っているので、すぐさま生卵を割って丼にかけ、かき込み始める。
「なあ、お前はどこ行くわけ?」
 真っ先に食べ終わった享が聞く。
「え、俺・・・? 大学・・・?」
「うん」
「え、いいじゃん、なんか言いたくないな」
「そう。なら無理には聞かないよ。じゃ、春樹は?」
「俺は・・・第一志望はK大文学部。あとはM大、N大とか」
「へえ。結構いいとこ狙ってるじゃん。春樹って国語好きだっけ?」
「ていうか、歴史のほう。世界史とか日本史とか、もっと勉強したいなって思ってて・・・」
「へえ、そうなんだ。俺もM大は狙ってるよ」

 二人のそんな会話を聞きながら、俺は焦りを感じていた。この時期になっても、なんとなく国文学部系に行きたい、と思っているだけだったから・・・。俺は現代文や古文が好きだから・・・。将来何になるかなんてことも、はっきりとは定まっていない。なんとなく、サラリーマンになるのかなと思っているだけなのだ。もう、18になろうとしているのに・・・。
 でも、行きたい大学だけは決めてある。
 俺も、高校のホームルームや進路説明会の時なんかに、志望校を3つくらい書いて先生に提出しなきゃいけないから必死で考えて、いくつか書いた。その機会は2回ばかりあって、俺は2回目の時志望校を――第一志望を変更して提出した。その間に、春樹の第一志望校を知ったからだ。
 そう、俺は――『春樹と同じ大学へ行きたい』と思い始めていた。今の享と同じ質問を、1回目の提出の後春樹にして、彼は大学の名前を言った。俺はその時、彼には紙に書いた通りの行き先を告げた。2回目の時は、俺はあえて聞かなかった。

 やがて俺たちは店を出て、午後の授業を受けるために再び塾校舎へと向かった。百日紅はまだ咲きそろってはいなく、枝の先端だけ花びらで太らせていた。
『卒業しても一緒にいたい』――この想いを、俺はまだ春樹に告げていない。
 まるで女子中学生のようだって、子供みたいだって思われるかもしれない。そんな甘いことが、大学受験を迎えるこの年で通用するとは、普通だったら考えられないだろう。好きな奴と一緒に通いたいから、志望校を変えるなんて・・・。恥ずかしいのだ。それを口にしてしまうことが・・・。
「香純、着いたよ」
 気が付くと、俺だけ塾の前を通り過ぎていた。呼び止めたのは春樹だ。
「あ、ばか、俺って・・・」
 顔が赤くなるのを感じながら、俺は数歩駆けて戻った。


雲の峰