「ふう、やっぱ中は天国だなー」
 春樹の言った通り、塾舎の中はエアコンが効いていて涼しかった。ロビーには、受付の周りに高校生がひしめいている。中には浪人生もいるようだ。俺たちよりも年上に見える。
「次も、昨日と同じか」
 春樹があくびを一つしてから、言ってきた。
「うん。漢文」
「そっか。なんか慣れないんだよな。じゃ、行こう」
 そして3人、階上へのエレベーターに乗り込んだ。

 この塾の夏期講習では、コース受講と単科講座受講の二つがある。一つは公立、私立など志望大学別にコースが設けてあり、これは予め決まった講座がセットになって組まれている。もう一つは単科講座といって、いくつもある講座の中から、志望校や学習習熟度など、目的に合わせた講座を自分で選ぶ。コースと単科講座、二つを組み合わせた受講もできるようになっている。だいたい1週間を一区切りにして、それを1タームといい、夏休みを7期間に分けている。1週間のうち5日間、毎日同じ時間帯に同じ講座を受ける。一つの講座の授業時間は高校と違い、90分ある。

 俺と春樹とは中堅私立大コースを取っていて、あとはそれぞれ好きな単科講座を取っている。ちなみに享も同じコースだ。午前中の授業は、そのコースの授業だった。これからある漢文の授業は、春樹も俺も苦手でコースの中には含まれていないので、一緒に取ることにした。夏休み前、学校に夏期講習のパンフレットを持ち寄って、二人話し合って決めたのだ。
 その時も俺は、現在は第ニ志望になっているH大学を、第一志望として春樹に告げていた。

「じゃ、俺次は政経だから、ここで。また後でな」
 2階に着くと、享はエレベーターを降りながら言った。
「うん」
 二人頷く。漢文の講座は3階で行われる。
「さっき、なんで享に志望校言わなかった? H大だろ? 文学部」
 廊下を歩いている途中、春樹が聞いてきた。俺はどきりとした。
「う、うん・・・。なんか恥ずかしくてさ」
「なんで? いいとこじゃん、H大」
「そうだけど・・・」
 俺はそのまま黙ってしまった。今思えば、H大と享に言っておけばよかったのだ。春樹にこうして怪しまれることになった。だがその時俺は、思わずK大と言ってしまいそうになり、言葉を濁したのだった。

「しかし、そうすると・・・」
 しばらく間を置き、教室に辿り着く前、ジーンズのポケットに両手を入れ、下を俯いて真面目な声で春樹は言った。
「え?」
 俺が顔を振り向けた時、教室に着いてしまった。
「いや、後で話すよ」
 そして授業が始まった。しかし俺は今の春樹の言葉が気になりだし、講師の話を聞くことにあまり身が入らなかった。
『しかし、そうすると・・・卒業後はバラバラだな』
 彼はそう言いたかったに違いない。
 このまま彼に本当のことを言わなければ、ずっとそう思わせることになる。
 やはりいつかは彼に、話すべきなのだろうか。いや、このまま毎日過ごしていれば、彼のほうで気付いてしまうかもしれない。俺にとって、どっちがいいことなのだろう。どちらにしても、隠し続けるのが辛いことに、変わりはなかった。

 3時限目が終わり、あとは帰るだけとなった。
「今日も1日終わり!」
 享は外へ出てから伸びをした。
「これで第2タームもあと1日か。しかし、授業長いよなー」
 肩に手をやり、首を回しながらさらに言う。
 夏期講習の第1タームは夏休み直前の1週間にあり、それを合わせると全部で8タームになる。今は夏休み最初の1週間で、第2タームに当たる。俺たちは第2タームから受講している。
「受験のためなんだから、しょうがないじゃん」
 と春樹。
「なんか、大学みたいだよな、塾っていうか、予備校って」
 これは俺の意見だ。
「高校と全然違うな。好きな講座、自分で選ぶとことか」
 春樹も続く。

「まあ、受験までがんばって無事受かれば遊べるから、それまでの辛抱かな」
 享の言葉に、二人とも驚いた。
「お前って、遊ぶために大学行くわけ?」
 俺は呆れて享の背中に向かって言った。
「っていうか、今バンドの練習もろくにできないしさ、辛いんだ。スティック握れないのが。だから早く楽になりたいの!」
 それを聞いて、春樹も俺も同時に笑った。

 駅前の本屋で雑誌を立ち読みしたり買ったりしたいという享とそこで別れ、俺たちは二人で駅へ向かって歩いた。
「春樹、あの、さっき・・・」
 話は俺から切り出した。
「ああ。さすがに大学までは、一緒にいられないんだなって、思って」
 自分が想像していた通りの内容に、俺は胸が締め付けられた。『違う』と本当は言いたい。しかし、言葉は俺の喉からは出てこない。ただ黙って歩き続ける。
「そうだよな。もう俺たち、大人なんだし。そこまでは無理だろうなって、俺も思ってたよ」
 諦めたような笑顔を作り、春樹は言った。
「でも、卒業しても逢えるだろう? 俺たち・・・」
 彼の言葉に色を添えるようなことを、次の瞬間俺は言ってしまっていた。
「逢うさ。当たり前だろ」
 春樹は俺の顔を見て、何故わざわざそんなことを聞く、とでも言いたげな表情をしてみせた。


 家に帰った時、妹の恵梨は出かけていた。中2でも宿題は出ているだろうに、彼女は夏休みに入った途端友達と遊んでばかりいる。
 夕食前になって、やっと帰ってきた。
「お前いいのかよ、毎日遊んでばっかで」
 俺と母、恵梨の3人で食卓を囲んでいる時、俺は口を開いた。父はまだ仕事から帰っていない。
「いいの。宿題は8月になったらやるんだから。読書感想文の本だって、夜はちゃんと読んでるもん」
 細く手入れをした眉を歪めながら、妹は反論する。毎日日焼け止めを塗っているらしく、日に焼けてはいない。髪は黒く肩までのセミロングで、好きなアイドルの髪型を真似している。
「お兄ちゃんは毎日勉強しなきゃね」
 すました顔で、恵梨は箸を進めた。
「お前な」
 俺は少し怒った声を出した。最近富みに生意気になってきたので、時々腹が立つこともある。
「お前だって来年は受験なんだからな。今からそんなんじゃ、後で泣くぞ」

「やめなさいよ、食事中に。恵梨ちゃんも遊びに行くのはいいけど、へんなとこ行ったらだめよ。夏は特に怖いんだから。夜遅くなるのもだめ」
 兄妹喧嘩を止めておいて、母もこの場にそぐわないことを言った。
「はーい」
 恵梨は母親の言葉には素直に応えた。
「男の人に声かけられても、ついてっちゃだめ。いつも言ってるけど」
「分かってます。でも花火大会は夜だよ? それは行ってもいい?」
「あら、今年は母さんたちと一緒には行かないの?」
「うん。友達と行こうねって、話してあるんだ」

「それ、女の子?」
 母は不安そうな声で聞いた。
「そうだよ。恭(きょう)ちゃんと麻紀(まき)ちゃん」
「そう。いつもの子ね。ならいいわ」
 母はほっとして言った。
「男の子とは、遊んでないのね?」
 しかし次には、また元の顔に戻った。少し遠慮するような声音になる。二人の会話の間、俺は八宝菜が主菜の夕飯を食べ続けていた。

「お母さん、またそれ? そんなに心配?」
 恵梨はため息をつき、呆れて言った。
「だって、恵梨ちゃん可愛いんだもの。年頃だし、そりゃ心配するわよ」
「いつも女の子としか遊んでないよ。彼氏だってまだいません」
「そう、そうなの。それならいいけど」
「母さん、もうよせよ。母さんこそ変な話になってるぜ」
 俺は箸を止めて言った。
「あら、勉強の話してたんだわね」
 母は口に手を当てた。

「どう、夏期講習は? ちゃんとついていけてる?」
「うん、今の自分のレベルに合わせてるから。今んとこ、総復習みたいな感じ。後半になるにつれて、授業も難しくなってくみたいだけど」
「明日も同じ授業だったわね、確か。緒川くんも一緒なんでしょ? 予備校」
「うん。やっぱ、知ってる奴がいると心強いよ。他にも同じクラスの奴とかいる」
「緒川くんもK大受けるんでしょ? 一緒に受かれたらいいけど、ライバルにもなっちゃうのよね、友達なのに」
 俺はさすがに母には、第一志望はK大だと言ってある。話さないわけにはいかないから・・・。彼女にはK大が春樹の第一志望だとは俺は告げていず、ただ彼が受ける大学をM大やN大と並べて母に話していた。
 母はまだ、俺たちのことをただの友達関係だと思っている。もちろん、俺からもう一つの関係について話す気はない。俺に彼女ができることを、いつも望んでいる人だからだ。俺は男が好きなわけではなく、好きになった春樹が同性だっただけなのだが、彼とのことを周りに隠したい気持ちは自然に自分の中に芽生え、育った。

 それにしても、ライバル――考えたこともない言葉に、俺は戸惑った。ただ春樹と一緒の大学に行きたい、今までそれだけしか考えていなかった。もし二人がK大を受け、片方だけが受かり、片方が落ちてしまったら、どちらにしても一緒には通えなくなる。それは嫌だ。
「ライバルだなんて、俺そんなふうには思ってないよ」
 その時母には、それだけ言った。

 食事が済み、食器を洗い場に持っていく時、後ろのテーブルにいて汚れた食器を重ねて片付けている恵梨に聞こえないよう、俺は小さな声で母に言った。
「母さん、春樹には・・・俺がK大受けるって、言わないでくれる? 余計な心配させたくないんだ」
 彼女は一瞬言葉の意味を推し量るように、数秒置いたが、やがて飲み込んだらしく、優しい顔をして答えた。
「分かったわ。じゃ、あなたからもまだ言ってないのね?」
 聞かれ、俺はゆっくりと頷いた。言っていない本当の理由は、もちろん違うのだが・・・。


雲の峰