浜辺は海水浴客でごった返していた。家族連れやカップルが多かったが、中には女の子2、3人連れというのも、結構いた。その一組に目が行った時、俺は自分が見たくないものに出合った。20歳くらいの女の子二人組がシートに座って海を眺めていたのだが、そこへやけに浅黒く日焼けした若い男二人組が、声をかけてきたのだ。下心見え見えな、にやけた顔で、「一緒に遊ばない?」と言っているのが俺の耳に入ってきた。女の子たちは、一人はパレオ付きの青っぽいビキニ、もう一人は花柄のワンピース水着を着ている。彼女たちは少し困ったふうな感じを作りながら、でも嬉しそうに応対している。

 男たちの軽々しい態度に、俺は嫌悪感を覚えた。次に『俺はお前たちとは違う』と、心に強く念じた。
 誰か、本気で愛してくれる人が俺は欲しかった。大切な存在がすぐそばにいるということは、何ものにも代えがたい喜びだ。春樹がいなかったら、俺は愛について何も知らずに過ごしていたかもしれない。あいつらはきっと、愛し合うことなんて知らない。人を本気で好きになったことなんてないのだ。だからああやって、色んな女に声をかける。
「何見てんだ? ああ、そんな怖い顔して。あんなの無視しとけよ」
 俺の見ているものに気付いた春樹は言った。そうして少し歩を早め、俺より先に立った彼の背中は、男らしかった。

 やがて荷物を預けてあるロッカーのある、海の家に着いた。俺たちは貸し温水シャワーを浴びるとロッカーのところへ行き、鍵を開けてタオルで体を拭いた。
「昼飯、そこでいいか?」
 春樹は聞いた。更衣室を出たところには、食堂や売店がある。
「うん」
「どうする? もう着替えちまう?」
「うん・・・でもシャワー浴びたばっかで暑いから、後にするよ」
 それで俺たちは水着のまま、財布だけ取り出した。

 食堂に入り、一段高くなったござ敷きの席に、サンダルを脱いで上がる。茶色くて四角いテーブルに着く。やってきた若い女性店員に春樹は焼きそばを、俺はお好み焼きを頼んだ。
「やっぱ海の家は焼きそばだよなー」
 運ばれてきた皿の上で割り箸を割り、春樹はうきうきとして言う。二つの皿からは、できたてを示す湯気が立っている。
「お前のもおいしそうじゃん。後で一口いい?」
「うん。ふふ」
 俺は彼を見ながら頬杖を突き、目を細めた。
「どうした?」
「春樹、こういう時は子供っぽいんだなって思って。可愛いなって」
「なんだよ、お前のほうが可愛いって!」
 そう言って、彼は焼きそばをぱくついた。
「ば、ばかっ」
 やはり、彼のほうが一枚上手らしい。

「おいしいよ。はい、一口ぶん」
 しばらく食べ進んだ頃、俺は割り箸でお好み焼きを切り分け、彼の焼きそばのお皿に一かけらを載せた。
「あーん、じゃないんだ」
「もうっ、するわけないだろ、そんなこと!」
 俺は呆れて言った。彼は解放的になりすぎているのではないだろうか。だがこんな会話もいいものだと、魅力を感じる俺もいた。
 互いの皿が空になった後は、かき氷を頼んだ。今度は体の中から冷えてくる。
 横の壁は上のほうがなくて、海や浜辺が一望だった。日差しも遮られている。そこから、海風も入ってきていて気持ちいい。店の一角では扇風機が回っているが、いらないかもしれない。

「次、どうする? もう帰る?」
 彼はかき氷をスプーンでシャクシャクやった後、俺のほうを見た。
「え、もっといようよ。まだお昼だよ」
 せっかくの彼との貴重な時間を、俺はもっと満喫したかった。
「じゃ、また泳ぐ?」
「うん・・・泳ぐのはもういいかな。人が多くなってきたし」
「じゃあー、ええっと、岩場でも行ってみるか?」
「岩場? それもいいね。うん、行く」


 服に着替え、俺たちは防波堤の上を歩きながら、岩場を目指した。横には道路が走り、車が通り過ぎていく。カーステレオをガンガンに鳴らしている車もあった。
「なんかやっと、夏休みって感じがしてきたな」
 俺は感慨深げに言った。下には、さっきまでいた海水浴場があり、砂浜を埋め尽くす人々が蟻のじゅうたんみたいに見えた。その向こうにある入道雲は、さっきとはだいぶ形が違う。
「だな。明日からもずっと、ここにいたい気分になってきた」
「だめだよ、明日からはまた、夏期講習だよ」
 そう自分で言った時、途端に現実に引き戻される感じがして、言わなければよかったと思った。
「分かってる。希望だよ、希望」
 彼はため息をついた。

 やがて岩場の近くに着いた。防波堤から下りる階段を見つけ、二人眼下の岩場に下りていった。そこには、磯釣りを楽しむおじさんや、岩場に棲む生き物探しに夢中な子供たち、それを見守る親、などが中心にいた。浜辺よりは、人が少ない。時折岩に大きな波が叩きつける様は、迫力だった。
「おい春樹ってば、また勝手に先に行く。危ないってば」
「大丈夫。あそこまで行けそう」
 彼は岩から岩へと渡り、波が大きくぶつかる場所まで行こうとしていた。なんだか、子供を心配する母親みたいな気分になった。
「滑ったらどうするんだよ。戻れよ」
 言いながら、彼が易々と渡った岩の手前で、立ち止まってしまった。間が空いていて下の潮溜まりが見えるので、怖いのだ。

「来いよ、ほら」
 春樹は岩の端まで戻り、手を差し伸べてきた。俺は一瞬躊躇したが、そっと右手を出した。すると彼がその手を強く掴み、引っ張ってくれた。俺は脚も動かして岩を渡った。渡り終えた時彼の胸に飛び込みそうになって、恥ずかしくなって思わず身を引いた。それで後ろに倒れそうになった俺の腕を、彼はまた引く。
「ごめん、痛かったか?」
 腕を強く引いたせいか、彼はこう聞いてきた。
「ううん、大丈夫。ありがとう」
 俺はほっと安堵の息をついた。肩から提げたバッグの肩ひもを、かけ直す。彼の手の感触、温かさを、心に蘇らせながら。

「大丈夫だよ、下はまだ浅い水溜りだ。海じゃない。でもやっぱ危ないから、ここにいようか」
 そこは平らな岩の上で、足元は安定していた。
「あ、何かいる」
 今自分たちが越えた潮溜まりに、何かが動いている。俺はかがんだ。
「魚だ。ちっちゃいな。ここに取り残されちゃったんだな」
 春樹も膝を折り、覗き込んだ。そこには、名前の知らない小さな魚が数匹、悠々と泳いでいた。自分たちだけの小さな縄張り、とでもいう感じで・・・。
「可愛いな。えさとか、大丈夫なのかな」
「さあ。でも満潮になったら、また海に帰るのかもな」
 彼は俺が思いつかないことを言った。そんなところにまた、彼の優しさを感じた。
「じゃあさ、他にも色々いるかも」
「そうだな。じゃあ、探してみよっか」
 そうして二人わくわくしながら、あちこちにある潮溜まりの中を探して回った。まるで、子供に戻ってしまったかのように。

「いた! ほら、蟹、蟹!」
 各自分かれて探していた時、俺は手を振って春樹を呼んだ。彼もすぐ駆けつける。
「ほんとだ。蟹だー。偉いぞ、香純」
 俺が見つけたのは赤い小さな蟹が、潮溜まりから出て岩の上に登ってきたところだった。蟹は横ばいに歩いてゆく。
「こんなの見るの久しぶりだなー。なんか感動」
 かがんでいた姿勢を崩し、春樹はしゃがみ込んできた。
 俺も同じ気持ちで、思わず手に取りたくなったので、右手を蟹に近づけた。
「ああ、逃げちゃった」
 だが蟹は俺の手に驚き、岩の隙間に隠れてしまった。
 再び出てくることはなかったので、俺たちはまた別の蟹や生き物を探していった。

 童心に帰った時間を堪能すると、俺たちは疲れて、防波堤に近い岩場のほうへと戻った。濡れていない岩を探し、その上に腰かけた。
「今日か明日、雨大丈夫かな?」
 春樹が前方を見ながら言った。
「え?」
「だってほら、入道雲が出ると夕立が来るって、言うじゃん」
「へえ、そうだっけ?」
 言われてみればどこかで聞いたことがあるような気はしたが、こんなに晴れているのに本当に雨なんて降るのだろうか。
「今日はたぶん大丈夫だよ。なら明日、折り畳み持っていかなきゃ」
 明日――。また勉強の日々に戻る、最初の日。考えたくはないけれど、今日が終われば必ず訪れてしまう、日・・・。
 これから益々忙しくなって、こんな時間は過ごせないかもしれない。それを思うと、寂しさを感じた。

「香純」
 ふと出された春樹の声の調子が、今までと違った。
「何?」
 真面目な話が始まるのだろうかと、緊張しながら俺は返事した。
「今から言うことは、子供じみたことだって分かってる。でも、言わせてくれ」
 そう言った時、彼は膝の上で組み合わせた両手に、力を込めた。
「何・・・春樹・・・」
 俺は彼の横顔を見た。
「・・・志望校、どうしても変えられないのか?」
 その言葉を聞いた瞬間から、胸の鼓動が早まるのが分かった。
「春樹・・・何を・・・」
 俺は笑ってはぐらかそうとしたが、顔が強張って笑顔が作れない。

「もうお前が決めたことだから、今更俺がどうこう言うなんてできないのは分かってる。でも一度だけ、聞きたかったんだ」
 即答できない俺は、二人の間に沈黙を作ってしまった。
「・・・やっぱり、だめだよな。もういいんだ、忘れてくれ」
 彼は頭を振り、向こうを向いてしまった。その時俺は、彼が遠くへ行ってしまうような悲愴感に襲われた。
「・・・違うんだ。違うんだ、春樹。本当は俺もお前と・・・お前と一緒に、K大に行きたいんだ!」
 吐き出すように、俺は言葉を迸らせた。彼は再び顔を向けてくれた。しかし、表情は戸惑い気味だ。

「そんな、今俺が言ったからだろ? ごめん、変なこと聞いて。お前はH大なんだよな」
「違う。俺、お前の第一志望聞いてから、変えたんだ。自分の第一志望を・・・。やっぱりずっと、お前と一緒にいたいって思って・・・」
 分かってもらいたくて、俺は必死になって言った。
「香純・・・」
「俺もずっと、怖かった。好きな奴と一緒の大学に行きたいなんて言ったら、子供みたいだってお前に思われるって。だから変えた後もずっと、言えなかった」
「・・・本当、なのか・・・?」
 俺は頷く。彼は戸惑った表情でいたが、やがて笑顔を混ぜた。

「そう、だったんだ・・・。ならもっと、早く聞けばよかったんだな。じゃあ、学校にも塾にもそう・・・?」
「ああ」
「じゃあ、H大は?」
「受けるけど、第二志望なんだ」
「そうか・・・」
 春樹は立ち上がった。そして振り向く。顔は笑顔だ。
「じゃあ、明日からライバルだな」
 思いがけないことを言われ、俺は言葉に詰まった。
「な・・・、そんなこと言うなよ」
「冗談だよ。・・・俺、嬉しい。お前も俺と同じ気持ちでいてくれたんだな」
「うん・・・」
 俺は座ったまま、はにかむように頷いた。

 雲は形を崩し、入道雲ではなくなっていたが、まだ水平線上に集まってはいた。今日は雨は降りそうになかった。
「俺、明日傘持ってくのやめようかな」
 岩場を去り、防波堤の上へと上がる階段を目指している時に春樹は言った。
「なんで? 夕立かもって言ったのお前じゃん」
「降ったら、お前のに入れてもらうの」
 彼は俺の横で瞳だけ上向けて言葉を捨て置き、駆け脚になった。
「春樹」
 頬を赤く染めて呆れてから、俺は彼の後を追った。この先もずっと見続けるであろう、その背中を・・・。


END


雲の峰