風景が通り過ぎてゆく。日曜の朝10時頃、俺たちは同じ目的を持つ人々と一緒に、海へと向かう電車に揺られていた。車窓から見える空は晴れ渡り、遠くの水平線上には入道雲さえ見える。
 夏休みに入っている車内は、俺たちと同世代の学生らしき若者や親子連れで溢れかえっていた。午前中なのでまだ満員というほど混んではいなかったが、乗り込んだ時座る席は空いていなかった。春樹と俺とは、座席前の吊り革を握って外の景色を見ていた。二人とも肩には水着やタオルの入ったバッグを提げている。

 目の前には、キャミソールなど薄着姿の高校生くらいの女の子3人組が座って、盛んにおしゃべりしていた。化粧もしっかりとしている。3人とも痩せ型で、うち二人の穿くスカートは膝頭から遠く離れるほど短く、細い脚がそこから伸びていた。俺は目を逸らし、再び景色を見た。
 どきっとして一瞬性的なものを感じた自分に驚き、続いて嫌になった。俺にもまだ、そんな醜い部分が残っていたのかと・・・。しかしその感覚は、また懐かしくもあった。いつか自分も、また女のほうに戻ることがあるのだろうか。春樹がいる今は、そんなことはまるで別世界の出来事のように思えた。こんなことを考えていること自体、彼への裏切りのような気がして、俺は思考をやめた。
 横に立つ彼の、吊り革を握る右腕に俺は目をやった。腕の外側や手の甲に、青く透けた血管が浮き上がって見える。それは自分も持つ、若い男に特有の彫刻だった。俺はその彫刻を見て安心感を覚えた。

 電車が駅に着くと、どっと乗客がホームに吐き出された。やはりみんな海へ行く人々なのだ。彼らに混じり、俺と春樹も階段を上(のぼ)り下(お)りし、改札を出、海岸へと脚を運ぶ。
「しかし海なんて、久しぶりだな。去年は彰たちとプールに行っただけだったし」
 通りに吹く海風を受けながら、電車を降りて気分が少し解放的になった俺は言った。
「俺も。でも昔は家族でよく行ってた。夏休みっていうと、海やら山やらにキャンプにも行ってたよな。そうじゃねえ?」
「うん、そうそう。楽しかったな。海辺で花火したりさ。でもそれも、恵梨が中学上がってからはあんまり行かなくなったな。あいつ、あんまり家族と旅行したがらなくなった」
「そういう年頃なんだろ。俺も妹が欲しかったな、兄貴じゃなくて」
「そうか? 生意気なだけだよ、妹なんて」
 俺がそう言うと、春樹は穏やかな、温かい笑顔を見せた。

 10分弱歩くと、海水浴場へ着いた。砂浜に立ち並ぶ海の家から1軒を選んで、俺たちは男子更衣室へと入った。春樹と俺とは、水着に着替えようと空いているロッカーを探した。二つ並んで空いているところを見つけた。開けるとまずは床にバッグを置き、水着とビーチサンダルを取り出した。俺は周りに人がいる中で、彼の前で改めて服を脱ぐのが恥ずかしかった。彼に背中を向けて、ジーンズを下ろした。しかし彼はなんでもないふうに、俺より先にさっさと着替えていた。大事な部分を晒す時も躊躇せず、俺にも周りにも構わなかった。俺にとっては一苦労な着替えが終わると、二人それぞれ脱いだ服やバッグをロッカーに入れた。
「お前ってやっぱ、可愛いのな」
 黒いショートパンツの水着姿になった春樹は更衣室を出ながら、くすくすと笑う。
「からかうなよ」
 俺は自分の顔が赤くなっているだろうと想像した。ちなみに俺のほうは柄の入ったショートパンツだ。海水パンツは恥ずかしいので、持ってこなかった。

 砂浜の上には、すでにあちこちにレジャーシートやパラソルが点在していて、徐々に砂を隠しつつある。お昼頃には、立錐の余地もなくなってしまうだろう。
 その中を、俺たちはビーチサンダルを履いた脚で縫っていった。
 俺は否が応にも目に入ってきてしまう水着姿の女たちに対して、見てはすぐに目を逸らすということを繰り返していた。春樹の前で自分が”男”になってしまうのが嫌だったからだ。春樹は、どうなのだろう。そう思い、俺は横の彼を見てみたが、彼の視線はずっと海のほうへと向かったままだ。わざと見ないようにしているのか? 気になって、俺は聞いてみた。
「お前、気にならない?」
「何が?」
「何がって、その・・・女が」
 俺は下を向いた。
「そりゃ、目には入っちまうけど・・・今はあんまり興味ねえしな。それより、俺はお前と来てるんだぜ?」
 春樹は俺のほうを向いた。俺は思わず息を詰め、目をしばたたかせた。

「泳ごう」
 彼は手を海のほうへ振り、砂浜の上を駆け出した。俺も続く。砂が散る。
 波打ち際でサンダルを脱ぎ、春樹は波を分け入ってどんどん歩いていった。すね、太腿、腰、と浸かったところで止まったかと思うと、沖へ向かってクロールで泳ぎ出した。
「お、おい待てよ!」
 彼について同じ深さのところに立っていた俺は、慌てて水面に体を投げ出して泳ぎ始めた。水の冷たさが全身を包む。しかしその冷たさは心地よかった。口に入ってきた海水の塩辛い味も、懐かしく感じた。

 クロールで水を掻きながら、先のほうで水音が止んだのに気付き、水の中の砂に裸足で立った。打ち寄せてくる波によってできた畝(うね)があるのが、感触で分かる。子供の頃俺は、この畝がなんだか分からなくて、怖くなった覚えがある。生き物でも踏んでしまったかとその時思ったのだ。
 春樹は顔を両手で拭うと前髪を掻き揚げて額を出した。二人で立ったまま、息を整えた。周りを見回すと、岸から10メートルほどといったところだろうか。

「あんまり沖に行くなよ。ちゃんと脚が着くところじゃないと・・・」
 今の場所は、海面は胸のあたりに来ている。そうしている間も、次々とやってくる波のせいで、翻弄されそうだった。俺は脚をしっかりと踏ん張った。
「でもここなら、二人きりになれるぜ」
 彼は両手を広げて水面を撫でながら空を仰ぎ、明朗な声で言った。
「な、何言ってんだよ」
 照れた顔を隠そうと彼から体を背けた。と、水平線上の入道雲が、電車に乗っていた時よりも大きく見えた。

「・・・凄いな、あれ」
 俺は呟いた。
「何が? ああ、雲?」
 彼も俺と同じ方角を向く。
「なんか、襲ってきそうな勢い」
 じっと見ていると、徐々に先のほうが形を変えていくのが分かる。もくもくとした形を作っている光と影のコントラストも、はっきりとしていた。
「まさに夏! って感じだな」
 春樹が言った。水面に注ぐ太陽の光が反射して、彼の笑顔が輝く。
「うん」

「・・・香純」
「ん?」
「来て、よかったか?」
 彼はどこか遠慮がちに聞いた。俺を無理矢理引っ張ってきてしまった、という罪悪感を感じてのことかもしれない。
「うん、よかった」
 俺は噛み締めるように答えた。
「な、今度はこっちに泳いでみようよ。平泳ぎな」
 彼に素直な笑顔を見せ、今度は俺から、岸から見て右の方向に泳ぎ出した。春樹と俺は二人並んで、ゆっくりと平泳ぎで進んだ。

 そうして立ち止まっては方向を変えて、平泳ぎやクロールで泳いだ。そのうちに、海に入ってくる人の数が増えてきた。俺たちは人を避けて泳ぐようになった。ぶつからないためもあったが、何よりできるだけ二人だけの空間を作りたかったからだ。岸に目をやると浜辺に集う人々も、増えていくようだ。色とりどりのパラソルの花が、どんどん開いてゆく。
 彼と泳いでいる間、俺は受験のことも周りへの後ろめたさも忘れた。自分たちと現実とを離してくれるこの広く青い水に、感謝したい気分だった。俺のそばには春樹がいる。彼だけがいる。それはなんと幸せなことなのだろう。

「そろそろ、上がろうか。なんか冷えてきた」
 立った時、彼は腕を組んで二の腕をさすった。
「そうだな。・・・わ、深い」
 気が付くと、脚が着くぎりぎりのところまで来てしまっていた。俺たちは水面から首だけ出していた。海に入ってくる人たちは、よく見ると水際でボール遊びや水浴びを楽しんでいる人が主で、沖まで来る人は少なかった。
「あ、サンダルどこで脱いだっけ?」
「そうだ、確かあっち・・・」
 俺たちは記憶を辿って、慌てて泳ぐ方向を定めた。人が増えてきているので、見つけにくくなってはいないだろうかと、心配した。
 岸に着き、少し歩くと、二人のビーチサンダルは見つかった。が、そのすぐそばに小さい子を抱えた家族連れがレジャーシートを広げて、団欒していた。俺は恥ずかしがりながら、自分のサンダルを手に取った。


雲の峰