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暑い夏。その日の厳しく激しい練習が終わり、クラブハウスのロッカールームへと向かうサッカー部員たち。
僕は1年坊主なので、他の1年生と共に道具の後片付けなどをやってから、やっと着替えに入れる。
ボール籠を用具庫に押し込んでいる時にふと目をやると、最後に着替えを済ませた先輩が出てきたところだった。その先輩の横顔そして後ろ姿に、遠くにいながら釘付けになった。僕の好きな愛原先輩だ。先輩は3年生で、その新緑のような爽やかさ、短く刈り上げられた、がっしりとしながらも色っぽい項(うなじ)、筋肉で形作られた丸みのある逞(たくま)しい背中が、僕の憧れなんだ。
片付けが終わって、ロッカールームにいたのは僕と友人とが最後だった。部内で一番成績の悪い二人のうち一人が僕で、もう一人が同じクラスの秋川裕(ゆたか)なんだが、こいつと僕とが、最後まで片付けをしてたんだ。
うちのサッカー部のクラブハウスは、手前がロッカールームになっていて、奥がミーティングルームになっている。ミーティングルームは部室とも呼ばれる。
先に着替え始めていた秋川が、ルームに入ってきた僕に「お前さっき愛原さんのこと見てたろ」と、小悪魔的に意味ありげな笑いを含めて言った。
「なんとなく振り向いただけだよ」
僕は悟られまいと、自分からさらにこう言った。
「だってあの人、うちの部の中で一番かっこいいもんな。お前も憧れるだろ?」
「まあ、そうだけど」
後は口ごもってしまった秋川。制服に着替え終わると、腕時計に目をやって、あ、と言った。
「悪い。今日、用があるから一緒に帰れないんだ」
僕は汗をタオルで拭きながら言う。
「何?」
「財布がカラでさ、今すぐに銀行行ってお金下ろさなくちゃいけないんだ。その後、母さんから買い物頼まれてて・・・」
「そう。今、何時?」
「5時40分くらい」
「じゃ、やばいじゃん。急がなきゃ。いいよ、分かった。すぐ、行きなよ」
「ごめんな、じゃ、明日」
「うん」
秋川は足早にルームのドアを開けて、出て行った。
僕は彼が遠ざかっていく足音を聞きながら、そろそろと愛原さんのロッカーのところに行き、そっと音を立てないように気を付けながら開けた。
中は、思ったよりさっぱりしていた。先輩たちが着替えている時にちらっと見る分では、アイドルや女優、サッカー選手のポスターを中に貼っている人、サッカー雑誌や漫画雑誌を溜め込んでいる人、携帯ゲーム機とそのソフトを散乱させている人など、いろいろいるのだが、愛原さんのロッカーの中には、ポスターも雑誌もなかった。彼の性格を示すようなものは、特に見当たらなかった。
あえていうなら、僕の目の前にある、きれいに畳まれたユニフォームの存在がそうだ。練習着はすぐ洗う必要があるから、持って帰ったようだ。ユニフォームはハンガーにかけず、きちんと畳んで棚に置くなんて、きっと几帳面なんだな。僕はしばらく、その赤いものを凝視した。試合になると彼が身に着けるんだ、これを。そう思うと、たまらなくなった。僕はそれを、恐る恐るといった感じで手に取り、顔を埋(うず)めた。彼への想いを募らせながら。洗濯して、今週はまだ一度も着ていないんだな。洗剤の香りが、ほのかに残っている。彼の匂いが残っていないのは、少し残念だった。でも、ユニフォームの赤色が、彼の体に流れる真っ赤な血の色にも思えて、生きている彼の中に小さくなって入り、泳いでいるような冒険心と恍惚感で一杯になった。
その時。いきなりドアの開く音がして、監督の沢本が夕焼けの逆光の中に立っていた。
僕はとても驚いて、一瞬自分のロッカーのふりをして、手に持っていたユニフォームで額の汗でも拭こうかと思ったが、やめた。愛原さんのを、汚すわけにもいかないし。そのまま、沢本の視線を気にしながら、赤いものを握り締めた。
沢本はしばらく何も言わず、ドアも閉めずに突っ立って、僕を睨み付けていたので、僕は「まだ着替えてもいないのか。早くしろ!」とでも怒鳴られるのかと思って、身が竦んでしまった。沢本は、戸締りに来たのかと思ったから。でも彼は、最初の言葉は言ったが次の言葉が違った。
「お前一人か。ちょうどいい。お前に言っておきたいことがある」
な、なんだろう・・・?
監督とは個人的に話したことはあまりない。プレーのことで注意されたり、指導を受けたりすることはもちろんあるけれど・・・。僕は前より緊張してしまった。下手だから怒られるか、説教でもされるのかと思ってね。沢本は、練習中でも怒ると怖いんだ、厳しくて。
でもまた違った。彼はドアを後ろ手に閉めて、おどおどしている僕のほうに近づいて来て、ユニフォームを手からそっと奪い、ロッカーの中の棚に置いたかと思うと、その手をなんと僕の両頬に当てたのだ。
「・・・!」
全く予想していなかった出来事に、僕はびくりとした後身動きができなくなった。大人の男の大きな手・・・子供の頃に父にあやされている時に、こうされたことがあるかもしれない。でも物心着いてからは、初めての経験だった。その手は、熱を持っていた。それが、僕の顔を覆うように包む。声が出ない。
沢本と目が合ってしまった時、僕はパニック状態になった。だって彼が見せたその目は、男らしさを半ば失って、潤んでいるじゃないか。
まさか・・・!?
良くない予感を覚えた。
沢本は僕の頬を挟んでいる両手に力を込め、あごを少し上向けた。僕はこんな異常な事態の時に、こんな変なことを考えてしまった。
こうして近くでよく見ると、沢本も案外男前だな。どっちかっていうと、二枚目の部類かも。
沢本はようやく再び口を開いた。僕の目をまっすぐに見つめながら。
「柊。お前はなかなか上達しないが、それは男の芯の部分が脆いからじゃないのか? 俺がお前を個人的に男にしてやってもいいぞ。俺が教えてやる・・・」
こう心を込めてゆっくりと言い終えられるや否や、僕の唇はこの男に奪われた。僕の大切な大切な大切な、希望としては愛原先輩との時のためにとっておきたかったファースト・キスを、いとも簡単に奪われてしまったのだ! 逃げられなかった僕の弱気と鈍感さと、沢本のいきなりさに、怒りが込み上げた。
僕は沢本の両腕をすかさず掴み、ぱっと離れた。ショックでまだ心臓が高鳴っている。
「お前はまだ何も知らないから・・・。そのままでは、きれいな顔が宝の持ち腐れだ」
と沢本はわけの分からないことを言った。
「な、なんでこんな・・・監督・・・」
気持ちを落ち着かせるために、僕は下を向いてシャツの胸の辺りをぎゅっと握った。額や体に、脂汗が流れてくるような気がした。
沢本は、再び僕に近づいてくる。腕を伸ばそうとした。
「ぼっ、僕をどうする気なんですか!?」
叫んだ僕。しかし、太い声にはならなかった。
「ここじゃ嫌か? こんな殺風景なところじゃ・・・。じゃあもっと、ぴったりのとこでも行こうか? どうする?」
一旦腕を下ろし、猫なで声でこう言う沢本の気持ち悪さに、僕はぞっとした。彼の目的は、明確になろうとしていた。だが、僕はまだ信じられないでいた。今まで少しも、そんな素振りは見せたことがなかったのだ。ただ監督として、真面目に厳しく生徒を指導する教師、として僕は頭の中にインプットしていた。こんなことをする人間だとは、思いも寄らなかった。何かの間違いだ、これは夢だ、と思おうとした。だが、これは現実なのだ。
嫌だ。僕は愛原先輩だけが好きなんだ。だいたい沢本は仮にも教師じゃないか!!
逃げなければ・・・。そう思い、とっさに僕は沢本をよけ、外へ出るドアのほうへと脚をゆっくりと踏み出した。が、彼は動いて行く手を阻んだ。正面から僕の両肩に、手をかけた。僕は必死で彼を押しのける。
「こんな・・・これが、先生のすることですか!?」
「まだお前に何をするとも言ってない」
沢本はにやけた表情をしてみせた。
「いきなり・・・したじゃないですか!」
「お前は男にならなくちゃいけない。そうすれば、もっと上手くなるんだ。これはいわば、教育的指導だ」
また、厳しい顔に戻る。
何を言ってやがんだ。
沢本の言うことは、さっきから全然筋が通っていない。僕は、じりじりと迫る彼から逃れようと、後ずさりする。しかし後ろは壁だった。でもその横には部室へのドアがある! 鍵は・・・とノブに手をかけると、果たして開いた。素早く部室へ駆け込むが、悲しいことに沢本まで一緒に滑り込んできてしまった。後ろ手に鍵をかけられた。袋の鼠とはこのことだ・・・。
眠れる太陽、静かの海
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