日曜、透吾は愁と夕方5時に、会う約束をした。
その日、透吾は自宅でパソコンに向かい、家に持ち帰った仕事をしていた。できあがった広告をクライアントに見せる時の、資料の作成だった。
仕事は夕方までかかり、窓の外に目をやると、小雨がしとしとと降っていた。
『愁の奴、傘を持ってるだろうか』
透吾は立ち上がり、カーテンを開けて窓のそばに立った。秋雨がアパートの外に植わった木々の、葉を濡らしている。まだ紅葉は始まっていず、どの葉も深い緑を保っている。彼は少し寒さを感じたが、
そのまま窓外の景色を眺めた。
もし愁が自分に気があるのなら、それを確かめる必要がある。だが彼は知っているだろうか、自分が清太を諦めたことを。まだそうではないと思っているのか、それも確かめたい。あの時、自分は清太をこの手で抱けるまで諦めないといい、愁とは物別れに終わってしまった。自分はまるで、彼の言葉など聞かなかった。今思えば、まるで子供だ。
透吾にとって、急に清太が、魅力的ではなくなった。
どうせ啓二の手に散々触れられた、汚れた体だ。そんな体を抱いても、なんの意味もない。
透吾は、もしこのままあの少年に関わり続けていたら、身を滅ぼすような気がしてきた。あの、無意識の小悪魔に。彼を襲おうとした時点で、かなり落ちていたのだ。啓二もきっと身を滅ぼす。それが復讐になるのなら、それでいい。
そろそろ5時に近くなってきた。結局駅で待ち合わせることにしたのだが、愁がもし傘を持っていなかったら、自分の傘に入れるか、それとももう1本持っていったほうがいいか。考えた後(のち)、透吾は後者を選んだ。上着を羽織り、玄関を出た。
透吾が駅に着いた時、もう愁は駅の屋根の下で待っていた。黒いカットソーの上に、水色の上着を着ている。彼の手に、傘はなかった。
「透吾」
自分を見つけて、少年は少し微笑んだ。誰も知り合いがいない、知らない町の中、自分だけが頼れる人物だから、ほっとしたのだろうか。
「なんだ、早いな。いつから待ってた? ほら」
透吾は少年に紺色の傘を差し出した。自分は黒いものを差していた。
「ありがとう。わざわざ、ごめんね。着いたのはほんの1、2分前だよ」
『今来たところ』とでも言えばいいのに、恋人同士でもないからか、と透吾は思った。
「天気予報では降らないって、言ってたのにね」
「ああ、今降らなくてもいいのにな」
並んでは歩かず、愁は青年の少し後ろを歩いていた。
天気の話を続けるかと思っていたが、愁はしばらく沈黙を作った後、言った。
「あの、清太くんのこと・・・」
「その話は後だ」
透吾は振り返らずに言った。
10分ほど歩き、アパートへと着いた。
「上がれよ」
「うん。お邪魔します」
傘を傘立てに入れ、愁は上がり框へと上がった。
短い廊下を抜けたところが、リビングだった。透吾は台所へと向かう。
「そこのソファに座れよ。何飲む? コーヒーか、紅茶か。ジュースも一応ある」
「あ、じゃあ、紅茶で」
愁は借りてきた猫のように大人しい態度で、ソファに腰かけた。
「なんだ、今更遠慮なんかするな」
台所で二人分の紅茶を入れながら、透吾は声をかけた。
「だって、初めてなんだもん、透吾の家に来るの」
愁にミルクと砂糖の分量を聞き、透吾は自分のカップにはどちらも入れず、少年の前に座った。愁は「いただきます」と言ってから、両手でカップを口元へ運んだ。
「おいしい」
「そうか。・・・しかし俺がいなくなって、Rは平穏を取り戻しただろう」
「透吾」
少年はカップをテーブルに置いた。
「どうせ俺の悪口でも言い合ってるんだろう、みんな。どうしようもない奴だって」
透吾は自虐的に言う。
「違う、透吾。あのことは、誰も知らない。清太くんが僕に、話してくれただけ。清太くんからも、誰にも話してない」
「じゃあ、あいつは・・・」
あの、啓二に知らせに行った青年は、誰にも言いふらしてはいないということか。それならば、ありがたかった。
「あいつって?」
「いや、なんでもない。本当か?」
「うん、今のところは・・・。でも透吾が街に全く来ないし、清太くんたちもまたRに来るようになったから、今度こそ本気で振られたんだ、ってみんな話してる」
透吾は少年に向かい、眉を歪めて見せた。
「あ、ごめん・・・」
愁は両手を膝の上に置き、俯いた。
「あの二人、またRで待ち合わせるようになったのか」
「うん。前より、回数は減ったけど・・・」
「それじゃやっぱり、平和になったんだな」
透吾は自嘲した。
「透吾・・・。そんな卑屈にならないで。もう、Rには来てくれないの?」
「行くわけないだろう。二人が来てるのなら。あいつらが別れるまで、俺は行かない」
いまいましそうに、透吾は熱い紅茶を一口飲んだ。
「透吾はまだ、清太くんのことを・・・」
「さあ、どうだろうな」
愁が本当の気持ちを言うまで、明かすものか、と透吾は思った。
少年は俯き、口の端をぎゅっと結んで、膝の上では両拳を握り締めた。外ではまだ、小雨が降り続いている。
「・・・僕、言った、清太くんに。透吾と付き合う気がないのなら、期待させないでって。だから清太くんは透吾に、強く断ったんだ」
やはりそうだったのか。透吾は俯いている少年の、見えない瞳を見ようとした。しかしそこには彼の前髪が下がっているだけである。
「何故それを今言う?」
予想はしていたのに、透吾は震えが止まらなかった。
「それを言えば透吾に嫌われるって、思ったから。だからずっと隠してた。だって、だって僕は・・・透吾が好きなんだもの」
最後の言葉の時は、少年は顔を上げていた。彼の苦しそうな表情を、透吾は見た。一度目を閉じ、青年は抑えた声で聞いた。
「なんでもっと早く、言わなかった? 俺がこうなる前に」
「だって透吾は、清太くんしか見てなかったんだもの。清太くんに気があって、二人が結ばれるのなら、それが透吾の幸せなら、仕方ないって思ってた。でも清太くんには気持ちがなかった。だったら、透吾に諦めてほしくて僕は・・・」
青年は奥歯を噛み締めた。
「いつからだ? 愁、お前が俺を気になりだしたのは」
「いつ・・・。最初は、年上の友達だって思ってた。でもだんだん、話すうちに僕の中じゃ、ただの友達じゃなくなってた。透吾はなんでも、僕の話を聞いてくれた。笑顔が胸を締め付けるようになった。いつかは告白しようと思ってた。でもそんな時、清太くんが現れて・・・」
「じゃあお前、もし清太に気があって、俺と付き合うようにでもなってたら、どうするつもりだったんだ?」
「待つよ・・・」
「待つ? 別れるまでか? ずっと付き合い続けたら?」
「それでも、待つ・・・」
また少年は下を向いた。
「お前な、それじゃ一生誰とも付き合えないぜ。だいたい、好きなら好きと、はっきり言えばいい。こんな回りくどいことをしないで・・・。俺から言わなければ、ずっと言わないつもりだったのか?」
「・・・少なくとも、今は・・・、無理だって、分かってたから。いつか、透吾が清太くんのことを忘れたら、優しくなってくれたら、告白しようと思ってた」
「その間に俺が、また他の子を好きになるかもしれないぜ? そしたらまた待つのか?」
「うん・・・」
透吾は立ち上がった。手振りを交え、少年を見下ろした。
「なんでだ? 待つことなんて、無駄なだけだ。・・・お前は俺をずっと野放し状態で、落ちていくのを眺めてたのか」
「言ったよ。何度も止めたじゃない。でも聞かなかったのはあなたのほうだ」
愁は顔を上げ、部屋に入ってから今までで一番、声を強くした。
「いいや、お前は面白がってたんだ。俺に告白してもだめだって勝手に思い込んで、早く振られればいいと、ずっと願ってたんだろう?」
「違う。そんなこと思ってない。ただ僕は、この人は一度傷を負わなきゃ分からないんだって、思ったから。傷付いたのなら、もう分かったでしょう? 自分の求めてたことが、無理なことだったって。体しか求めないなんて、そんなの恋愛じゃないって。僕はそんな透吾、見ていたくなかった」
「ああ、傷付いたさ。だから俺はもう、清太のことは諦めた。俺はもうあの子のことは追わない」
愁はそれを聞き、透吾の顔を見つめた。荒かった呼吸を、整えているようだ。
「じゃあ、今の俺は?」
透吾はテーブルを回り、愁のそばまで来た。愁は座ったまま、見上げる。戸惑いを隠せない様子の彼。
「俺が傷付いたら、自分のところに来てくれると思ってたんだろう? あてのなくなった俺が」
青年は、おもむろに少年の右腕を掴み上げた。
「透吾・・・」
腕に痛みを感じ、愁は立ち上がろうとした。そこで、もう片方の腕も透吾に掴まれてしまった。彼の体は、透吾と向き合った。
「透吾、僕、そんな・・・」
「言えよ、付き合ってくれって。今言えよ」
青年は掴んだ少年の両手首を振って、迫った。
「痛い、放して・・・」
「俺が好きなんだろう!?」
言いながら、透吾は愁をソファの上に押し倒した。テーブルの上の二つのカップから、残っていた紅茶がこぼれた。
「やっ、嫌だ、透吾、やめて・・・!!」
少年は手首を掴まれたまま相手の両肩を押し、逃れようとした。しかし、腕は自分の頭の上方まで引っ張られてしまう。
そのまま、青年は少年の唇を無理に奪った。それは、少年に衝撃を与えた。彼は腕を振り、自由を取り戻そうともがいた。
「透吾・・・!」
青年は唇を離すと、今度は左手を離し、彼の前髪を掴んだ。
「何故嫌がる? 俺が好きで、俺と寝たいんだろう? だったら、抱いてやる。清太よりは、汚れてないだろうからな」
今度は首筋に激しく唇を這わせた。
「やだ、僕は清太くんの代わりにはならない。こんなの嫌だ! 好きになってくれてからじゃないと、嫌だ!」
少年は青年の下で、涙声で叫んだ。
透吾は動きを止めた。
「透吾、そんなに僕が憎いの?」
込み上げてきた涙が溢れ出し、少年のこめかみを流れた。
「僕が、透吾と清太くんのこと、邪魔したから? だから許せないの?」
「そのことじゃない。お前がずっと本当の気持ちを言わないからだ。待つなんて、言うからだ」
透吾は髪を離し、彼の腕も解放し、上から愁の泣き顔を見つめながら言った。
「透吾・・・」
「だがな、俺が今すぐに、お前を好きになれると思うか? 清太を諦めたばかりの俺が」
「やっぱり、忘れられない?」
涙を流したまま、愁は聞く。
「時間が、必要だ。誰だって、失恋の後はそうだろう?」
少年はゆっくりと頷いた。青年は起き上がり、彼の横に座った。少年も身を起こした。
「でも、僕は・・・透吾のそばにいたい。透吾に今愛してもらえるなんて、思ってない。ただ、僕があなたを好きだってことは、知っててほしいんだ」
青年は、そっと少年の右手を取り、優しく握った。顔を彼のほうに向け、乱れた前髪を直してやった。
「・・・悪かった。お前が憎いんじゃないんだ。俺はお前の気持ちに気付かなかった自分の不甲斐なさを、その責任を、お前に押し付けてたんだ」
少年は、首を横に振ると、遠慮がちに彼に近付き、寄り添った。
「僕こそ、臆病だったんだ。・・・透吾、いつか僕を見て。今はただ、そばにいさせて。それだけでいいから・・・」
「・・・いろよ」
透吾は愁の頭部に手を回し、抱き寄せた。
自分を愛してくれる存在が、すぐそばにいた。
それに気付くのに、こんなに長くかかってしまった。なんて自分は、愚かだったのだろう。
今度は、まともな恋愛がしたい。いや、彼ならできそうだ。
自分が求めたもう一人の少年が、かえって二人を近付けたのだろうか。
透吾は外で続く静かな雨の音を、落ち着いた気持ちで聞いた。
END
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