「ね・・・指輪買ってくれる?」
 彼の左手を取り、銀色の婚約指輪を眺めながら、俊成は言った。
 一つ済み、征一の厚い胸の上でまどろんでいた頭を少し動かし、彼の顔を見やった。背中は彼の右手で抱かれている。
「どうして、急に」
 少年の濡れた茶色い髪をなでながら、征一は逆に聞く。
 俊成は半ば起き上がり、整った彼の顔を今度は真っ直ぐに見た。
「だって、結局スキーに連れて行ってくれなかったじゃないか。そのくらい、最後にいいでしょう?」


『割り切って逢ってくれる年上の人 お願いします』
 そんな携帯サイトの掲示板を見て、征一が俊成と約束をして逢ってくれたのは、半年前だった。
 俊成は高校卒業後親元を離れ、昼は焼き肉屋で、夜は初めはまともに居酒屋でアルバイトをしていたのだが、ある時金銭に困った挙句選んだ、もう一つの”仕事”のほうがメインになってしまった。居酒屋はやがてやめた。
 女だけでなく、男の体にも子供の頃から興味があったことから、自分は周りの男子とは違うことに気付いていた。それでも、そんな自分を簡単には認めたくない気持ちがあった。周りの友達同様、彼女を作って付き合ったりした。遊びではなく、真面目に・・・。最初の相手は女の子だった。
 だが高2の時、転機は訪れた。当時働いていたバイト先の先輩の家に呼ばれ、初めて”男”を知ってしまった。
 未成年なので酒こそ勧められなかったが、先輩の男のほうは飲んで酔っていた。それで、寄り添ってきたかと思うといきなりキスをされ、そのまま口で下のほうを弄ばれた。
 抵抗を全くしなかったわけではない。キスをされた後、すぐに彼を押しのけようとした。だが、押し倒されてしまった。その後は、――抵抗をやめる自分がいた。何故なら、その彼のことがずっと気になっていたから。好きだったのかもしれないから。だから、彼にされるがままの道を俊成はその時選んだ。彼に体を愛され、自然に感じる自分がそこにはいた。

 征一とは夜、駅前で待ち合わせた。親から若干の仕送りがあるものの、若さから遊びに使ってしまう額も徐々に大きくなりつつあった。二十歳を過ぎてからは酒も解禁になったので、バイト仲間と飲む機会も増えた。
『今日はいくらぐらいもらえるんだろうか・・・』
 そんな皮算用をしながら、俊成は道端に落ちている空き缶を眺めていた。と、それを拾った男がいる。そのまま持ち、近くの自動販売機横のゴミ箱に捨てた。――それが、征一だった。
 目の前にいるのが目的の相手とはすぐに気付かなかったようで、征一はそれと知ると慌てた。
「いきなり、妙なところ見られちゃったね」
 彼は照れ隠しに笑って言った。その笑顔に、俊成は一目で惹きつけられた。

 今まで金を求めて売る時は、「相手には絶対に惚れない」ことを自分の掟としていた。惚れてしまったら、金はもらえなくなる。それに”彼”ができては、その後売りをやる時にも心に抵抗ができてしまう。売りがばれて、当時付き合っていた女の子ともすでに別れていた。それが、最後の彼女だった。その彼女のようなことを、繰り返したくはなかったから、俊成は特定の恋人を作ることはしようとしなかった。
 だが征一の笑顔を見た時から、自分がこの掟を破るだろうことは、一瞬のうちに予感してしまった。さらさらとした黒髪を、自然にヘアスタイリング剤で流している彼は、俊成が今までに出逢ったどんな男よりも輝く笑顔を見せたのだ。いや、男だけでなく、女でもなかったかもしれない。こんなに自然に笑える人を、自分は初めて見た、と俊成は思った。

 ホテルの一室で抱き寄せられた時、煙草の匂いがした。俊成は、煙草を吸う男は匂いが移るのであまり好まなかったのだが、彼だけは嫌な感じがしなかった。キスを交わしても・・・。やがて露わにされた彼の体は、逞しかった。それで、俊成の想いは奔走を始めた。抱き合った後は、これが恋だということが分かってしまっていた。
 彼がベッドから立ち上がって服を着、スーツの内ポケットから財布を出すのを、俊成はベッドのへりに裸のまま腰かけてただ呆然と眺めるだけだった。「好きだ」と言えるような雰囲気ではなかった。当初の約束通り、金は支払われた。――1万円札が2枚。それが、俊成の掌に冷たく触れた。

 金を受け取った後何も言わない少年を見て、征一の右手があごに伸びた。
「君・・・名前は?」
 その温かさが胸に染みた。これで最初で最後なのに、何故そんなことを聞くのか分からなかった。少年は男を見上げた。悲しそうな顔を、そのまま隠さずに見せた。相手の表情も見た。何故そんな、優しそうな顔をするのだ、と心の中で彼を呪った。何も残してくれなくてもいいのに・・・。すると年上の青年は言った。
「君のこと・・・好きになったって言ったら、怒るかな?」
 言葉を吐く時は、困ったような申し訳なさそうな、複雑な表情をしていた。――俊成は彼の顔を眺めた後、眉を歪めた。
「なんで・・・? 嘘でしょう、じゃあなんで、なんで今金なんか払ったのさ? からかってるの?」
 後半は少し語気を荒げた。今度は真面目な顔になる征一。
「違う。本当に好きなんだ。でも、君はこうしたほうがいいんだろ? 『割り切って』って、掲示板にも書いてたじゃないか」
「何それ・・・。俺のため? いいよ、金なんていらない。俺も・・・俺も、あんたのこと、好きだから・・・」
 顔を横向きに伏せ、真っ直ぐに彼の顔は見られずに俊成は告白した。

 だが次に待っていたのは、二人が永遠でいられないことを告げる言葉だった。
「俺・・・結婚するんだ。今付き合ってる彼女と・・・。だから、ほんとは他の人のこと、好きになんかなってはいけないんだ。男と寝るのも、今日が最後と決めていた。だから、これは俺が最後にこの世界に置いていく金なんだ。俺も割り切りたいから・・・。・・・いらなかったら、どこかに捨ててもいい」
「なんだよそれ。勝手なことばっかり言うなよ。じゃあ、好きだなんて言うなよ! 無責任だよ・・・」
 ベッドの上に置いた拳を握り締めて、俊成は怒りと悲しみをともに征一にぶつけた。優しい顔をして、なんて残酷な男なのだろう。――そんな少年を見ながら、征一は一つ深呼吸をした。
「・・・じゃあ、付き合ってくれるの? これからも・・・」
「でも、だめなんでしょう? あんたが今言ったんだ」
「ほんとは付き合いたい。でも、このままでは・・・。じゃあ、こうしよう。これから俺は君に金を払い続ける。君はそれを受け取る。”恋人同士”じゃないという印に・・・。これなら、付き合える。期間は、俺の結婚までだ」

 年上の男が示すあまりにも子供じみた考えに、俊成はきょとんとした。怒りも、一瞬忘れそうになった。
「ほ、本気で言ってんの? そんな、形だけ装ったって・・・。お互い好きだってことは、もう分かってるのに・・・」
「でも、そうしたいんだ。君と別れたくないから・・・。これなら、お互い恋人がいても割り切れる。そうだろ?」
「そんな・・・」
 自分の考えを押し通そうとする男に負けないよう、俊成は言葉を探した。だが、見つからない。俯いて考えていると、征一がまたあごを掴んできた。
「OKなら・・・君の名前教えて」
 もう片方の手で、髪をなでられた。――俊成の口からは、自分でも驚くほどすんなりと自らの名前が漏れていた。

 それから、二人は付き合い始めた。名目上は”売り手と買い手”だったが、金のことを除けば、二人は愛し合っているといえた。二人で逢う時は、時間も何もかも忘れて夢中で抱き合った。が、やがて征一の指に光るものが現れると、俊成は二人の間に残された時間が少ないことを、感じ取った。
「ねえ、結婚式っていつ?」
 ある夜にベッドの上で、俊成は愛する男に尋ねた。
「12月」
「じゃあ、それまでにスキーに連れて行って」
「・・・前から言ってたっけな」
 征一の趣味はスキーで、俊成はそれを聞き、子供の時に家族と行った以来雪山を見ていない彼は、以前から征一に教わりたいと言っていた。
「ああ。時間ができたらな」
「約束だよ」
 指輪のはめられた手とは反対の手指を使って、二人は横になったまま空中で指切りを交わした。


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