だが、約束が果たされることはなかった。12月に入り、結婚式が目前に来てしまった。
 おそらくは次の夜が本当の最後になるであろうことが、二人には分かっていた。
 ホテルの外は、東京の都会のことでまだ雪など降りそうにない気温だ。ここから何時間かすれば、一面の白い景色が広がっているというのに・・・。
「・・・ごめん」
 少年になじられ、征一は左手を動かして指輪に触れていた彼の手を上から握った。
「もう、時間がないんだ」
「・・・だったら、買って、指輪・・・」
 握られたまま、少年はわがままを続ける。
「これと違う色の・・・。金色がいいな」
「どうして、指輪なんて欲しがるの?」
 すると俊成は彼の胸に一つ口付けた後、言った。
「だって、あんたの跡が一つだけなんて、嫌なんだ・・・」
「俺の跡・・・?」
 すぐには判じかねて、征一は言う。

「あんたの、煙草の匂い・・・。もう、服にも体にも染み付いて、忘れられないくらいになったよ。その匂いをかぐ度、征一のこと思い出しちゃってさ・・・。でも、匂いなんてそのうち消えてしまうでしょ? そうすると、あんたの跡がなくなってしまう・・・。何か、残るものが欲しいんだ。ずっと、ずっと残るもの・・・」
「そうか・・・」
 青年は、少年の肩を抱く手に力を込める。今まで抱くことしかしてやれなかったのだ。最後くらいは、プレゼントをしてやってもいい。約束のスキーにも行けなかったのだ。もっとも、”名目上”の金は払ってやっていたのだが、それは気持ちとは無縁のものだ。互いの関係を明確にするための、ただの道具だった。
「一緒に、見に行こうか?」
「ううん。あの・・・怒らないでね。できれば・・・、できれば、征一にもして欲しいんだ。俺とお揃いの、金色の指輪」
 すると征一は困ったように笑った。
「無理だよ。はめられるわけないだろ? 俺の指にはもう・・・」
 自分の左手指を見た。
「分かってる。買うだけ、持っててくれるだけでいいんだ。あんたにも、俺の跡残して欲しいから・・・」
 顔を男の胸にすりつけながら、俊成はあきらめずにねだる。
「・・・だめ?」
 青年はしばし考え込んだ。その時間を、少年は緊張しながら待った。
「・・・ごめん。できない」
「そう・・・」
 力なく息を吐き、俊成は起き上がった。

 服を着終わると、征一は宥めるように俊成に言う。
「でも、君のだけは買うよ。指のサイズは、分かってるから・・・」
「ほんと?」
 嬉しさを満面に出し、俊成は素直に喜んだ。
「じゃあ、この次持ってきて」
「ああ」
 この次――二人の最後の夜に。それを実感したくない二人は、あえて明るく振舞った。
 部屋を出る前、ドアの手前でするキスも、軽いものだった。


「これ・・・」
 最後の日、この日初めてのキスが終わると、征一は黒いカバンから白い箱を取り出し、俊成に見せた。
「・・・ありがとう」
 まだ中身を見ないうちから、少年は静かに感謝の言葉を述べた。
 箱を開けると、部屋の中の人口光に照らされ、金色に光るものが顔を覗かせた。俊成は右手でそれを取り出し、左手の薬指にゆっくりと差し込んだ。それから目を閉じて、ゆっくりと愛する男に言った。
「・・・これ、今日ずっとはめててもいい?」
「・・・ああ・・・」
 その返事を聞き終わるや否や、俊成は再び自分から男の背中に腕を回し、強く口付けた。

 シャワーを浴び終え、俊成とキスしながらベッドへ倒れこむと、見納めになる少年の体を、征一は唇を離してしばらくじっと眺めていた。脚を半ば開いた彼の中心は持ち上がっている。
「そんなに、見ちゃ嫌だ・・・」
 今日だけは何故か恥ずかしさが募り、少年は上ずった声を出した。
 彼の首筋に口付ける時、その伸びた筋をそのままなぞった。胸にほのかにともる二つの赤い点に達すると、両方にそれぞれ赤い帯を這わせ、歯を立てた。
「っつ・・・」
 小さな痛みに、少年は声を出した。
 そしてみぞおち、腹、と徐々に下がる征一の唇の動きに合わせ、俊成は男の背中、肩、髪、と回していた両腕を滑らせた。口付けの時間が短い時は、手で男の頭を抱え、元の位置に戻させた。

 すでにかなり熱くなっている自らの中心を、愛する男の口に包まれる時も俊成は、より奥に入るよう、体をずらせた。
「俺のこと、もっと知って・・・」
 吐息の間に、男に請うた。
 いつもは部屋に入った時、バスルームに入った時に、自分から彼の体に”サービス”するのに、今日に限って何もできなかった。まるで初めて先輩にされた時のように、されるがままになっていた。何故なのかは、分からない。自分は捨てられるのだから、せめて最後だけは相手の男に奉仕させてやろうという気持ちがあったからか・・・。
「ん・・・嫌・・・出・・・ちゃう・・・っ」
 彼に刺激され、体の中のものが溢れ出しそうになっていた。が、彼は少年が果てる寸前で唇を離し、 それから手で掴んだ。そのまま、手を上下にスライドさせて動かす。

「嫌・・・っ」
 半身を少し上げ、自分の左手を男の手に添えた。はめた指輪が、男の手の甲に食い込む。右手では、男の髪を掴んでいる。いつになく征一が燃え始めていることは、俊成にも分かってきていた。自分を求めてくれていることが、――自分の思い出を残そうとしてくれていることが、嬉しかった。
「いいよ、出して・・・」
「や・・・征一・・・っ!」
 何度となく叫んできた男の名前を迸らせながら、少年は果て、枕に頭部を沈めた。出されたものを青年は手の中に受け止め、後ろに滑らせた。それを潤滑剤に、これから自分が入る彼の入口を、指を使って潤した。前とは違って、そこは柔らかかった。
「あ、や・・・」
 果てて間もないのに時間を置いてくれない男に、俊成は戸惑った。が、男の指がさらなる快感を導き出すのに流されて、体をまかせた。
「征一・・・」
 すでに、自分は”売り”としては失格だと思った。この時彼はもう、紛れもない自分の”恋人”だった。しかし、これが済めば別れなくてはならないのだ。と思うと急激に悲しさが募った。

「は、早く、来て・・・」
 繋がって彼を全身で感じたいがために、少年は恋人に呼びかけた。
「俊成・・・」
 今までで一番愛情のこもった声で征一は”恋人”に答えながら、彼の両脚を持ち上げ彼の中に入った。
「あっ・・・」
 こんなに自分の入口を広げるほどになっていたのかと、俊成は相手に驚いた。それだけ自分を愛したがっていたということなのだ。嬉しさに、俊成は初めは遠慮がちに、そして徐々に彼と動きを合わせて揺れた。背中に回した腕で、彼の体を締め付けた。指輪も、背中に食い込んでいく。手を滑らせると、その動きがそのまま赤い線となって跡を残した。それは、縦横無尽に男の背中に刻み付けられた。征一はそれが痛みとも気付かぬまま、俊成を愛し続けた。こんなに愛しているのに、求めているのに、何故別れなければならないのか。今更ながら、己の愚かさが身に染みて分かった。だが、全ては自分で決めたことだ。もう、あとには戻れない。
「征一・・・好き・・・っ」
 より奥に彼が入ってくると、俊成は悲痛な声で言った。濡れた前髪が額にまとわりついている。その下には、眉間にいくつも刻まれた皺が見えた。
「愛してる・・・俊成・・・」
 最後だと思うと、自然に心の中のたがも外れた。顔を寄せ、深く恋人に口付けた。少年も舌をからませる。
 背中に付いた傷跡に自分の手が触れると、それが自分が彼に残せる”跡”だと気付き、俊成はさらに手を滑らせた。白い大地に付けることのできなかったシュプールを、今男の肌色の大地に刻み付けてやる。それが、自分ができる彼への唯一のプレゼントだった。


「・・・これで、もう最後だ・・・」
 札を出して、男は言った。背中に、今夜限りの恋人からの”罰”を感じながら・・・。
 俊成は手に取らずに眺めた。
「・・・いらない。最後くらい、”恋人”らしくしてもいいでしょ?」
 涙の跡が残る顔を見せて、少年は青年を見上げた。
「・・・そうだな・・・」
 微かに微笑んで、征一は元の財布に札を戻した。互いの気持ちは、すでに分かりすぎるほど分かっている。
 立ったまま、二人は数秒見つめ合った。征一は、この少年がこれほど美しかったか、と一瞬我が目を疑った。髪はまだ少し濡れている。頬は、上気している。唇もほのかに赤い。
「征一・・・」
 そんな彼に、俊成は呼びかけた。
 征一ははっとした。
「俺のこと、今日で忘れる・・・?」
「いや・・・」
 彼は頭を振った。
「忘れないよ。たとえ、この背中の傷が消えても・・・。たぶん、一生・・・」
 それを聞くと少年は目を細めて微笑んで、指輪をした手の上に、もう片方の手を載せてさすった。
「俺も、忘れない・・・絶対」

 征一は自分が与えたものを見やり、息を一つついた。
「いいのか? 君の恋人に見つかったら・・・」
「え・・・? 何言ってるの? 俺、恋人なんていないよ。今まで聞いてくれなかったけど。俺に、そこまで興味がないのかなって思ってた。やっぱりどこかで割り切ってるのかなって・・・」
「そうじゃない。・・・怖くて、聞けなかったんだ。最初に聞けなくて、君への気持ちが強くなるにつれて、どんどん聞くのが怖くなっていった。もしいたら、俺の嫉妬が始まってしまうんじゃないかって」
「そう・・・。俺、これから新しい人ができても、これは外さないよ。愛してるのは、あんただけだから・・・」
 少年は手の甲を見せながら、小悪魔的に笑う。
 征一は少し戸惑いを見せたが、やがて言った。
「でも、俺以上に想える相手が現れたら・・・」
「きっと、現れないよ。そんな気がする。・・・それじゃ、迷惑?」
「いや・・・」
 そう言うと、征一は俊成に近づき、抱きしめた。少年は、スーツから香る煙草の匂いを感じながら背中に腕を回し、うっとりと目を閉じた。


「それ、きれいだね」
 行きつけのその道の店で一人飲んでいると、横から知り合いの少年が呼びかけた。
 俊成は椅子のない高い丸テーブルに頬杖を突いていた手を離し、振り向いた。グラスの中の氷が一つ、音を立てて崩れた。グラスの中は、赤く透き通った色をしている。左手はテーブルの上に置いていた。知り合いは、その左手を見ている。
「ふふ」
 俊成は意味ありげな笑いを零した。
「なんだよ、誰にもらったの? ずっと外さないけど・・・」
「煙草の匂いがする人・・・」
 遠くを見るような目をし、その香りを思い出しながら再び頬杖を突き、俊成は言った。


END




Spur