離れた彼の唇は、冷たく感じられた。
 外に降り続いている雨の反映で部屋の中は蒸し暑く、クーラーがかけられていた。そのせいなのだろうか。
「寒い? 春樹・・・」
 俺はテーブルの斜め前に座る彼に聞いた。
「いや。お前は?」
「ううん、大丈夫。でも、ちょっと部屋冷えてるから切るよ」
 彼は否定したけれど、俺は今唇と同時に離された、二の腕にかけられていた彼の手の冷たさも感じていた。
「そう」
 春樹はテーブルに置かれていた麦茶のコップを口にしながら頷く。その周りには、二人分の教科書、ノート、英和辞典、和英辞典がそれぞれ開かれて雑然と並んでいた。俺は座ったままエアコンのほうを向いて、リモコンスイッチを切る。

 逢えない時間が長い日ほど、お互いへの気持ちは募った。俺たちは学校が終わるとどこかに隠れてキスしたり、抱き合ったりした。何もかも脱ぎ捨てて抱き合うのは、お互いの気持ちが符合した時だけだったが・・・。その場所は家族がいない時の彼の家だったり、安ホテルだったりした。俺の家はマンションの一室で、春樹の家とは違い部屋が全て同じフロアにあるし家族が家にいる時が多いので、こうしてキスをするくらいがせいいっぱいだった。
 1年の時から互いの家は行き来していたから、それぞれの家族に怪しまれることはない。小さな宿題やテスト前、新しいゲームが出たということを口実に、俺たちは今までと同じように互いの家に行った。口実といっても、勉強やゲームは確かにしていたから、嘘をついていたわけではない。ただ変わったのは、部屋の中で行われることがそれらだけでなくなったことだ。

「恵梨ちゃん、まだ帰ってこないね」
 春樹がテーブルに寄りかかり、教科書をパラパラとめくりながら言った。勉強机はちゃんとあるが、二人分の椅子がないし二人並ぶには狭いので、部屋の真中に小さなテーブルを置いて、二人で英語のテスト勉強をしていた。二人分の教材を並べると、ここもテーブルはほとんど見えなくなるのだが、何より二人向かい合えるのがいいので、俺の部屋ではいつもこうしていた。

「ああ・・・。遅くまで何やってるんだか」
 部屋の壁時計を仰ぎ見ると、6時になろうとしていた。俺には妹が一人いて、今年中学2年だ。彼女も部活はやっていないのに、最近はいつも帰りが遅い。
「でも、コギャルじゃないからまだいいよな。けどさ可愛いから、心配じゃねえの? 兄貴として」
「そりゃあ・・・。でも、可愛いか?」
 俺は考えたこともないから、こう言った。
「可愛いじゃん。だって、・・・お前が兄貴だし」
「よせよ、また冗談言って」
 俺は笑ったが、彼は真顔だった。俺は笑顔を消した。

「香純・・・」
 彼は再び顔を寄せて、口付けようとした。俺は戸惑ったが、そのまま目を閉じた。・・・と、彼は体を動かし、腕を背中に伸ばしてきた。口の中に、彼の舌も差し入れられた。
「だっ、だめ・・・」
 徐々に彼の体重がかけられてくるのを感じて、俺は慌てて唇を離して彼を押し戻した。
「そっか・・・」
 彼はほんのりと笑顔を混ぜてしょうがないな、という素振りをした。
「そっかって・・・」
 今リビングに母がいるのに、できるわけないじゃないか。俺の部屋は、そこからドアと廊下を隔てて、離れてはいるけれど・・・。そろそろ、彼女は夕食の支度をしているころだろうか。

「雨、止まないな」
 彼は立ち上がって、窓を開けて外を見た。マンションの廊下越しに、しとしとと降り続く雨が部屋の明かりを受けて光っているのが見える。窓は、廊下から部屋の中が見えないように擦りガラスになっている。
「うん・・・」
 俺は彼の制服の背中越しに見える雨を眺めた。雲の向こうにある日はまだ落ちていないけれど、大分暗くなってきている。5階のここにも届くほどの高い木が、1本だけ見える。その暗い緑の前でも、けぶる雨が細い線をいくつも作りながら、地上に向かって落ちていく。
 まだ胸は高鳴る。窓の縁を掴んでいる、彼の半袖シャツから伸びる腕は、夏の日焼けを待ってまだ白いままだ。でも、俺よりは色が濃い。

――彼から求められる時、俺はまだ拒みがちだった。特別寂しくなった時は別だったが、そうでない時はキスだけで終わらせてしまう。そういう時、彼は無理に抱こうとはしなかった。大切にしてくれている・・・それは分かる。でも、彼の気持ちに応えられない時は・・・その日の夜は、自己嫌悪に陥って眠れなくなる時もあった。
 友情が愛情に、そんな急激な変化に戸惑い、走り出せないでいる俺。彼のことが好きなのに、彼を満足させることができない。彼の愛情を、100%受け止めることができない。
 何故走り出せないか・・・? それは、今までの2年間で培ってきた友情が、関係が変わった途端無に帰するなんて、嫌だったからだ。全く違うものに変わり、友達としての様々な思い出が壊れるのが、嫌だったからだ。友情の上に愛情を重ねる、ということはできないのだろうか・・・?

「これって、梅雨かな?」
 彼は窓を閉めて、振り返った。
 今のことについて何か言うのではないかと俺は緊張していたが、そうではなかったのでとりあえず言った。
「でも、まだ5月だぜ?」
「うん。なのに、ここんとこよく降るじゃん」
「うん・・・。なんなんだろうな」
 彼は再びテーブルのほうに戻って、自分の教科書やノートを片付け始めた。
「俺、そろそろ帰るわ」
「え。そ、そう・・・」
 勉強は、今日目標にしていたところまでは終わっていた。

「でも、ちょっとゲームしてかない?」
 彼の気持ちに応えられなかった申し訳なさから、俺はもう少し引き止めようとした。
「だって、もうすぐお前んち夕飯だろ? 時間ないし、おばさんに迷惑だから・・・」
「そう・・・。じゃ・・・」
 カバンを持って立ち上がった彼に続き、俺も立った。廊下へ出て母を呼び、春樹が帰る旨を告げた。お互いに、相手の家族と夕食までは一緒に取ったことがなかった。
 玄関に母と揃っているので、彼に謝ることができなかった。彼も気にしていたようだが、心境は同じのようだ。
「緒川くん、雨も降ってるから気を付けてね」
 と母。
「はい。じゃ、また明日学校でな」
 春樹は明るく言う。俺も軽く答える。彼は傘立てに立てかけていた傘を取り出し、ドアを開けてもう一度俺たちに頭を下げ、出て行った。

 彼が去った後の、人工光が灯る部屋を見渡した。俺はテーブルのそばに座り込み、彼の飲みかけのコップを眺めた。透明な雫が流れ、中の薄茶色い液体を歪ませた。廊下に聞こえていた彼の足音も、聞こえなくなった。もう、エレベーターに乗ったのだろう。
 次に彼がこの部屋に来てくれるのはいつのことなのだろう。
 あの時、彼はただ抱きしめたかっただけで、母がいることだしそれ以上するつもりはなかったのかもしれない。今までもそうだった。もしそうなら、応えればよかった。
 彼は、俺たちの関係をどう思っているのだろう。彼の中では、もう”恋人同士”という認識ができているのだろうか。俺はまだ、その言葉に抵抗があるのに・・・。
 友達でいたい。愛情があっても、友達でいたい。その言葉が二人の間からなくなってしまうのは、悲しい。彼に愛されることを望みながらこんなことを願うのは、矛盾しているだろうか・・・? 今夜もまた、眠れなくなりそうな気がした。


 5月は下旬に中間テストがあり、6月には体育祭がある。だから、テスト勉強と体育祭の練習が重なって、今月はどの学年も忙しかった。
 そしてテストが終わり、答案が返される週になった。その時にはしばらく続いていた雨もようやく収まり、代わりに快晴の日々が訪れていた。
「なんか、梅雨が明けたみたいな感じだな」
「今年は早いのかな?」
 そんな台詞が、学内のあちこちで聞かれた。日差しは強く、暑い。
「ほんとに明けちゃったのかな?」
 俺も早すぎる梅雨が明けたのかと思って、ある日登校の道すがら、横の春樹に言った。
「でもさ、早すぎねえ? まだ6月にもなってねえのに」
 彼は言う。
「今年って、なんかなんでも早く行き過ぎちゃうな」

 あの日から、彼の家には一度だけ行った。その時は、キスよりは少し進んだことをした。最後まではしなかった。この間同様、今度は彼の母親が家にいたから・・・。だが理由は、それだけではなかった。ここのところ、俺は拒んでばかりいる。ホテルにも行っていない。「テスト前だからそういう気持ちになれない」、彼にはそう言ってはぐらかしていた。自分から家に彼を呼ぶこともしなくなっていた。彼は理由を聞かない。聞いてくれないことが、また苦しかった。
 学校では、春樹は普通に接してくれる。特別な関係のことを、校内で口にすることはない。俺からも、口にしない。下校の時だけは、その日その後どうするか少し話すのだが・・・。

 彼と別れて自分の教室に向かい、古典の授業が始まった。今日は答案返しと答え合わせが主だろうから、気は楽だった。
 答え合わせが終わると、古典の浜西先生――30代の男性教師だ――は窓の外を見て言った。
「今日もよく晴れてるな。こういうの、『五月(さつき)晴れ』っていうことがあるけど、ほんとは違うんだ」
 生徒の間から、「え?」という意外な声が上(のぼ)ってきた。
「なんで? 5月に晴れてんじゃん。だからじゃないの?」
 茶髪というよりは金髪に近い髪の長い一人の女子が、手を机に乗せたままシャープペンを軽く振りながら言った。彼女は前のほうに座っていた。先生のことを(あくまでも生徒としてだが)慕っているせいもあるが、彼女はどの教師に対してもタメ口だった。

 先生はそれにも慣れているので、表情を変えることもなく答える。
「この間まで降ってた雨も梅雨じゃないからな。なんか、みんな言ってるけど・・・」
 彼は笑顔だ。
「じゃ、五月雨(さみだれ)?」
 他の男子生徒が言った。
「それも違うんだ」
「じゃ、何よ?」
 先ほどの女生徒。
「『五月』と書いて『さつき』と読む時は陰暦の5月を指すんだ。つまり、今の6月から7月ごろだな。だから、『五月雨』といえば本来は梅雨のことを指すんだ。『五月晴れ』は梅雨の晴れ間のことなんだ。それが、今は陽暦の・・・今の5月のことを指して言うようになってしまってるわけだ」
 先生は黒板に漢字を書いて説明する。「ふう〜ん・・・」と納得する声があちこちから漏れる。彼女も彼も、頷いていた。

「あ、じゃあさー、こないだまでの雨はなんなの?」
 別の女生徒が聞く。
「ああ、あれは『走り梅雨』とか『梅雨の走り』とかいって、梅雨の前、5月くらいに降る雨をそう呼んでるんだ。『走り』っていうのは、『初もの』とかいう意味で使われてる。ほんとの梅雨は、これから来るはずなんだ」
「そうなんだ・・・」
「そういえば、テレビで『梅雨の走り』って言ってたような気がする」
 また納得する生徒たち。俺も同感だった。そんなこと、知らなかった。春樹に話してみようかな、と思った。


梅雨の星