そういえば、彼と今日一緒に帰るかどうかまだ決めていなかった。メールしようかな、と思ったが、授業中は携帯の使用が禁止されていた。電源も切っていなければならない。使用が見つかったら、授業が終わるまでその時間の教師に没収されてしまうのだ。俺は仕方なく、休み時間になるのを待った。
 彼にメールをしてみると、すぐに返事が返ってきた。『放課後校門で待ってる』ということだった。
 そして放課後。と、クラスメイトの一人が一緒に帰らないかと声をかけてきた。俺は「約束があるからごめん」、と彼には断り、教室を出た。
 新しいクラスになってから、普通に会話を交わす程度の友達はできた。春樹と行動を共にしたいのは山々だが、あまり同じクラスの連中を避けていると怪しまれてしまう。下校時間になる度、3組や校門に向かうのでは・・・。それは春樹のほうも同様で、約束を特にしていない時は、たまにはクラスの奴とかいつものつるみ連中とも帰るようにしよう、と密かに話し合って決めていた。でも今日は、もう春樹と約束してしまった。だから俺は断ったのだった。

 廊下を歩き、まずは下駄箱へ急ごうと階段を降り始めた。
「広瀬」
 と、また後ろから呼び止める奴がいる。今度は誰だ? 俺は手すりに手を置いたまま、振り向いた。
 まずい奴に呼び止められてしまった。軽音部の享だった。またしょうこりもなく、誘いに来たのか・・・。
「なんだよ」
 俺はズボンのポケットに両手を入れて、不機嫌に言う。
「って、分かってるだろ? いつもの話」
 享は笑顔を作る。
「それなら、そっちこそ分かってんだろ」
 こちらも言い返す。
「ああ、でもさ、もうすぐ体育祭じゃん。いつも頼んでるみたいに、ゲストでいいんだ、1曲で。だからなあ、歌ってくれよ」

 うちの高校の体育祭では、大会が終わった後、校庭にそのまま生徒たちが残って、盛大に打ち上げみたいなものをやるのが慣わしになっていた。そこで、毎年軽音部の連中がパフォーマンスをするのだ。それがまた、ライブ会場のようになって盛り上がる。ソロで歌う奴もいれば、享みたいにバンドを組んで演奏する奴もいる。軽音部だけでなく、自分で何かやりたいものがある生徒も参加できる(例えばダンスとかだ)。この高校は生徒の自主性を重んじていて、この打ち上げはそれを示す行事の一つでもある。体育祭とはまた別に実行委員会があるくらいだ。だが、度を過ぎた(音量の上げすぎとか、花火とか)行動は禁じられている。「青少年らしく、爽やかに」というのが学校側からの決め事だ。高校は坂の上にあるので、近所迷惑ということもない。最近では体育祭そのものより、こっちのほうを楽しみにしている生徒も多いようだ。だから文化祭だけでなく、こんなふうに夏の体育祭の時にも享はしつこく誘ってくる。今年もこれで数回目だ。

「俺、そういうの苦手だって言ってるじゃん」
 俺は下を向いて渋る。早く校門へ向かいたいので、いらつき出してもいた。
「もうすぐ本番だし、時間もないじゃん。無理だよ、今から練習したって」
「大丈夫だよ。お前上手いから、そんな練習しなくたって。曲だって、俺たちのオリジナルじゃなくてお前の知ってる曲だし。俺たちが演奏するから、歌ってほしいんだよ」
 黙っている俺。
「お前、カラオケじゃ歌うんだろ? なのに、なんでそんな嫌がるんだよ」
 どこで聞いたんだ、と俺は思った。いつもの友達の誰かが、話したのだろうか。
「だって、数人の前と数百人の前とじゃ、全然違うだろ。緊張しちゃうよ」
「じゃあさ、じゃあさ、1回練習見に来てくれよ。今日も、これからやるから」
 享はあきらめない。

「練習・・・? でも今日はだめ。友達と約束してるんだ。待たせてるから、行かせてくれよ」
「なら、明日は? あ、今週ずっと放課後にやってるから、いつでも来いよ。待ってるから」
「待ってるって・・・」
 俺は呆れたが、このまま渋っていても彼のしつこさは変わらないだろう。
「・・・分かったよ。そのうち、行くよ。見るだけなら・・・」
「ほんとに? ほんとに来てくれる?」
 彼は一転、嬉しそうな顔になった。
「ん・・・ああ」
 行く、と勢いで言ってしまったが、気持ちはどっちつかずだったので俺は焦った。
「じゃ、待ってるからな、部室で。約束したぞ」
 と言い、享は俺とは別方向へ小走りに去っていった。俺はひどく疲れた心地がして、肩を落とした。


 やっと校門へ着くと、春樹が待ちぼうけといった感じで柱に寄りかかっていた。が、俺の姿を認めると顔をほころばせた。
「ホームルーム、長かったのか?」
 坂を下りながら、春樹は聞いた。
「いや、あの・・・。また例の享だよ」
「呼び止められたのか」
「うん。で、またバンドの話された」
「で、お前は?」
「とりあえずは、練習見に行くって言っちゃった・・・」
 俺は恥ずかしそうに言う。
「へえ、心境の変化じゃん。ずっと断ってたのに、お前」
「だってさ、しつこいんだもん。しょうがなくて」
 坂が尽き、葉桜に変わっている桜並木の下に差しかかった。
「でもそう言ったんなら、見に行ってやれば? 練習。約束しちまったんだろ?」
「うん・・・どうしようかな・・・」

 と考えていると、思い出したことがあった。俺は顔を上げた。
「そうだ。それより、お前に話したいことがあったんだ」
「え、何?」
 それで、今日古典の先生に聞いたことを、春樹に話した。
「へえ、そうなんだ。俺も知らなかった」
 彼は教室の生徒たちと同じような反応を示した。俺だけ知らなくて彼が知っていたら恥ずかしいな、と内心思っていたので、安心した。
 それから他愛ないことを少し話し、二人駅に向かって歩き続けた。ふと、会話が途切れた。

「今日さ・・・これからどうする?」
 俺は彼からこう聞かれる度、緊張してしまう。「どうする」って、どう取ったらいいのだろう、と。彼の言葉の続きを待った。
「ゲーセンでも行く?」
 なんだ、普通の意味で聞いたのか。
「うん、行く」
 学校が終わってから、俺たちはこうしてゲームセンターやカラオケ、本屋やCDショップなどへ行き、そのまま別れることも珍しくなかった。二人共、そういう気分にはならずただ単純に遊びたい時もあるから。こういう時は友達として接していられるので、俺は緊張せずに済んだ。この日も適当に遊んで帰れるだろう、と思っていた。

 だがゲームをしたりCDショップを覗いたりした後、駅へ向かっている時に彼は言った。
「もう、帰るのか?」
「え、まだどっか行くの?」
 俺は軽い感じで聞いた。まだ遊びたいのかと思ったから。
「そうじゃなくてさ・・・。テスト終わったし、だめかな? 今日・・・」
 意味は分かっていた。テスト前だから、という言い訳はもう使えない。それにここのところ、俺はずっと拒み続けていた。その申し訳なさがある。それだけでなく、どこかで二人きりになるのなら、俺はまだ彼に話したいこと・・・というか、聞きたいことがあった。
「・・・いいよ。俺も、二人で話したかったから」


 二人で最初に入った安ホテルに、その後入った。
 春樹はドアが閉められるとすぐに、カバンを床に放り出し俺に飛びついてキスしてきた。彼の勢いで、互いの歯がぶつかった。入れられてくる彼の舌に、俺も素直にからませた。唇が離れると俺の右手を引っ張り、そのまま早足でベッドへと向かおうとした。
「待って」
 俺は手を取られたまま、脚で踏み止(とど)まった。
「なんだよ、シャワーなんかいいだろ」
 彼は急かすように言う。握っている手に力を込め、またベッドに向かおうとする。
「違う。その前に・・・話したいことがあるんだ。さっき、言ったろ?」
「なんだよ、話って。後じゃだめなのか?」
 俺は頷く。あきらめ、春樹は手を離してベッドのへりに不機嫌そうに腰かけた。

 気持ちを落ち着けようと、俺は一つ息をつく。
「・・・俺たちって、友達? それとも・・・恋人・・・?」
 勇気を振り絞って、声を出した。
 と、彼は呆れたように軽く鼻で笑った。
「何を今更? そりゃ、恋人じゃん? だって、・・・Hしてるし」
 あまりにも俗っぽい彼の答えに、俺は悲しくなった。本来ならば嬉しいはずの言葉でも、俺にとっては彼と俺との間に溝を作るものでしかなかった。
「なんで、そんな簡単に・・・。お前、俺たちはもう友達じゃないって、いうのか・・・?」
 眉を歪ませ、声を震わせながら俺は言った。
「じゃあ逆に聞くけど、お前俺とこうやって付き合うの、嫌なわけ?」
「ち、違う・・・」
 続いて出た彼の思わぬ言葉に、俺は慌てた。これが彼の本音だったのか・・・? 今まで、大切にしてくれていると思っていたのに、ずっと我慢して言わなかっただけ・・・?

「好きだよ。春樹のことは好きだ。でも、でも、いきなり友達から恋人になれって言われても、戸惑っちゃうんだ」
「何がいきなりなんだよ。俺たち、もうあの日から数ヶ月付き合ってるじゃないか。なのに、お前はいつまでも自分にブレーキかけてる。何を怖がってるんだよ? お前が慣れてないからと思って、今までお前が嫌がる時は我慢して、しばらく見守ろうとしてたけど・・・。違う。慣れないからじゃない。香純、お前は・・・人の気持ちより自分が大事なんだ。俺のこと、本気で・・・想う気がないんだ」
 怒気を含んだ彼の物言いが、胸に刺さった。最後のほうは悲しげに聞こえた。俺の臆病な疑問が、彼に本音を出させてしまった。こんなふうに思われていたなんて・・・。俺はまだ自分の耳を疑っていた。現実のことと、思いたくなかった。彼は両手を組んだまま、下を向いている。心持ち、震えているように見えた。

 俺はそんな彼を見ながら、彼に聞きたかったもう一つのことを言ってしまった。
「慣れないって・・・。じゃあお前は、なんで慣れてるんだよ? ・・・誰かと、俺の前にも誰かと、寝たことがあるからだろう? 俺のこと、入学の時から好きだったって言ったくせに、そっちこそ裏切ってるじゃないか」
 言った後、自分の息が荒くなっているのが分かった。
 俺が走り出せないもう一つの理由は、これだった。初めての時から気になっていたが、ずっと聞けなかった。肯定されるのが怖かったから・・・。否定してほしい、否定してほしい、彼の答えを待つ間、そう思っていた。
 だがしばしの沈黙の後(のち)、彼の口から出た言葉は前者だった。
「・・・あるよ。他の奴と・・・。それも、一人や二人じゃない」
 彼は顔を上げ、俺の瞳を見た。
 部屋の明かりはまだつけていず、日も暮れきっていないので彼の姿は逆光になっていて、判然としない彼の表情を怖く感じた。


梅雨の星