しとしとと、窓の外を雨が降り続いている。カーテン越しに、それが聞こえる。
「・・・真っ暗だな」
 部屋の明かりは最初からつけていなかった。外も、すっかり闇の中らしい。街明りだけが、うっすらと部屋に漏れている。それで、そばにいる彼の横顔も分かる。二人、何も身に着けず仰向けでベッドに横たわっていた。起き上がり、春樹は床に脱ぎ捨てられた下着と制服のズボンだけ、ベッドのへりに腰かけながら穿いた。そして、窓のほうへ近づく。カーテンを横に引いた。
「いつまで降るんだろうな」
「うん・・・」
 俺も半身だけ起こして、彼のいる窓のほうを見る。窓を流れる雨粒が、街のネオンをにじませている。雨脚は夕方よりは若干強まっていた。まだ止む気配はない。
「春樹、大丈夫? 駅から家まで、歩きなんだろう?」
 彼の背中を見ながら、聞いてみる。
「じゃあ・・・もう少しいようかな」
 振り返り、春樹は微笑んで言う。上半身だけ裸の胸を反らして、ズボンのポケットに両手を入れた。俺はその胸の高さを見て、こんなに逞しかったろうか、と思った。

 カーテンをそのままにして、彼はベッドへ戻ってきて仰向けに寝転がった。頭の後ろで腕を組む。が、俺がうつ伏せで頬杖を突いているのを見て、体を返して自分も同じ格好をした。
 二人、窓を流れる雨滴を眺めた。
「梅雨入り・・・しちゃったのかな。もうすぐ体育祭なのに・・・」
 俺はあごから両手を離して枕の上で重ね、その上にまたあごを載せた。
「そうだよな。うちの学校って、なんで梅雨の時期になんかやるんだろ。1年の時なんか、いきなり順延になったじゃん? 次の日に」
 春樹に言われ、俺も当時のことを思い出した。
「そうだったね。秋の文化祭と、交換すればいいのにな。・・・1年の時は、騎馬戦とかリレーとか、一緒にやったよな・・・」

 うちの体育祭はクラスによって色分けされ、どの学年も2クラスごとに3色のチームに分けられていた。クラスが一緒だった俺たちは1年の時は青チーム、2年の時は赤チームだった。彼と共に、中間発表で1番になったりすると互いに喜んだりした。結局、2年とも優勝は逃したけれど・・・。
「・・・お前、あれ好き? 今年の3年の演目・・・」
 俺は迫る本番に憂鬱な気分を起こした。
「あれか。俺は割と好きだけどな。かっこいいじゃん、ああいうのも」
「ええ?」
 予想外な彼の意見に、俺は眉を歪めて横を向いた。
「和太鼓の音って、いいと思わねえ?」
「ん・・・」

「そういやさ、お前どうすんの? ほら、享のバンドの・・・」
 考え込む俺をよそに、頬杖を突いたままの体勢で彼は聞く。
「うん・・・。歌って・・・みようかな・・・」
 ぽつりと、俺はつぶやいた。
「え、ほんとに?」
 彼と逢わない間のことを思い出すのは少し辛かったけれど、享たちと過ごした時間は、決して無駄なものではなかった。
「練習でちょっと歌ってみて、こういうのもいいかなって・・・。でも大勢の前で歌うの、まだ抵抗があるけど・・・」
「けど?」
 春樹は続きを促した。が、俺はその先を言えなかった。
――「春樹に聴かせたいから」という、その理由を・・・。


 雨は、数日降り続いた。体育祭の練習は、体育館で行われることが多くなった。天候の不安を抱えたまま、本番を3日後に控えたある朝、目覚めると日の光が部屋に降り注いでいた。俺はカーテンと窓を開けた。・・・雲もほとんどなく、晴れ渡っていた。
 駅を降り、学校へ向かうまでの歩道で、俺は春樹の背中を見つけて、リュックの中の教科書やノートをがたがた言わせながら駆け寄った。
「おはよう」
 その声を聞き、彼は笑顔で振り返ってくれた。
「おはよう。よく晴れたな、今日」
 春樹は俺の横で空を見上げた。青色が広がった夏空に、風もそよいでいる。
「『梅雨の晴れ間』だね。今週いっぱいは晴れるって」
「ああ、これが『五月晴れ』ってやつなんだな」
「うん」
 俺は微笑んで頷く。

「体育祭の日も、晴れるといいな」
 春樹は今日はスニーカーを履いていて、その音を地面に軽やかに刻む。
「そうだな」
 葉桜が、風にあおられてさわさわと音を立てる。
「・・・ボーカル、がんばれよ」
「うん・・・」
 俺は一際感情を込めた。
 こうして春樹と自然に一緒に歩き、自然に会話することが、こんなにも心を満たすものなのだということを、俺は改めてかみしめていた。

 その日、俺は久しぶりに春樹の家へ誘われた。新しいゲームを買ったそうだ。バンドの練習がある時は、彼とは終わってから逢うか、時間が遅くなってしまって無理な時は帰ってから電話で話すことにしていた。しかしこの日は練習のほうを断ることにしようと、放課後享の教室へ行った。もちろん、ゲームがしたいからだけではない。
「そう。でも、お前よく来てくれてたから仕上げはできてると思うよ。声も、だいぶ出てくるようになったしさ。あとは、本番を待つだけ。・・・しかしほんと嬉しいよ、お前が決めてくれて」
 廊下で、享はしみじみと言った。
「うん・・・。ごめんな、今日。明日は、行けると思うから」
「分かった。待ってるよ」
「じゃ・・・」
 と言い、俺は行こうとした。
「あ、香純」
 とっさに出た、彼の口から飛び出た聞きなれない言葉に、俺は振り向いた。しかし思いとは裏腹に、彼はなんでもない素振りをしていた。
「お前さ、最近いい顔してるよ。歌ってる時も・・・今もさ。自然になったっていうか」
 享は首を傾けながら、温かい目をして言った。
「そうかな・・・。ありがとう」
 そう言葉を残すと、俺は出入り口へと急いだ。

「今日さ、よかったら夕飯食ってかない?」
 校門を出て彼と歩いていると、春樹は言った。
「え・・・」
「母さんには、もう言ってあるからさ。どうかな?」
「でも・・・ほんとにいいの?」
「うん。母さん、来てくれるなら張り切るってさ。たまにはいいじゃん。遠慮するなよ」
「そう・・・。じゃあ、ごちそうになろうかな・・・」
 俺が照れながらそう言うのを確かめると、彼は頷いて、携帯をカバンから取り出した。
「あ、母さん? 香純と、今から行くから」


「香純くん、いらっしゃい。まだ時間かかると思うから、ゆっくり遊んでてね」
 俺が玄関口で挨拶すると、紺色のエプロンを身に着けたまま、春樹の母親は言った。俺の母とは違い、彼女は俺のことを1年の時から名前で呼ぶ。彼女は髪が短めで、パーマをかけている。春樹に似て明るく、おおらかで温かい人だ。
「何作るの?」
 右手で下駄箱を支えにし、スニーカーを脱ぎながら春樹は母親に聞いた。
「ビーフシチューとね・・・あとは、楽しみに待ってなさいって」
 彼女はおどけて息子に言った。

 彼の部屋に入って荷物を床に置くと、春樹は窓に近づいて大きく開けた。途端に、風が吹き込んだ。
「涼しいー」
 彼は窓に手をかけたまま深呼吸した。
 後ろにいる俺のところにも、風は届いた。少し汗ばんだ首筋や額に、心地よく当った。
「クーラーいらないかな?」
 春樹は振り返った。
「でもお前、今から着替えるんだろ? 開けっ放しじゃ・・・」
「あ、そっか」
 彼は窓とレースカーテンを再び閉めた。春樹はベッドの上で制服を脱いで、たんすから出したTシャツとジーンズに着替える。その間、俺は振り向かないようにして、テレビの前に座ってカーペットの上に放り出されていた1本のゲームソフトを手に取って見ていた。昨日の晩、彼はこれで遊んでから眠りに就いたのだろうか。
「これ? 買ったの」
 俺は後ろを見ずに聞いた。
「うん。ごめん。俺先に昨日やっちまった」
 彼は着替えながら言う。ソフトは時代劇調の剣劇格闘ゲームで、もちろん二人でも遊べる。
「いいよ、別に。面白かった?」
「ああ。パート1よりずっと。CGも凄いんだ。リアルでさ。・・・もういいよ」

 着替え終わった彼は、ベッドから離れてまずはズボンをハンガーにかけ、また窓のほうへ行き、開けた。反対側にあった網戸をスライドさせて引き寄せる。
「やっぱクーラーいらねえや」
 そして俺の横に座る。白地に黒いロゴの入ったTシャツに、ヴィンテージ風に色褪せさせた青いジーンズを穿いている。
「お前さ、別に見てもいいのに」
 俺の肩を引き寄せながら、呆れた笑顔で彼は言った。
「だって・・・」
 俺は顔に体温を上(のぼ)らせた。「恥ずかしい」そう言おうとした俺の唇を、彼は自分のそれで塞いだ。・・・俺は素直に目を閉じた。
 軽いキスの後、俺たちは新作のゲームで遊んだ。途中、おばさんがよく冷えたオレンジジュースと、皿に持ったスナック菓子を運んできてくれた。
「でも、食べ過ぎないようにね。ごはんが入らなくなるから」
 そう言って彼女が階下へ降りようとすると、春樹が立って声をかけた。
「あ、母さん、これ持ってって」
 ベッドの上にあった脱ぎ捨てた制服の半袖シャツを、母親に投げてよこした。
「まったく、お前はもう・・・」
 おばさんは呆れながら、それを受け取った。

 そうしてゲームで遊ぶうち、日は暮れた。彼に操作方法を教わって、互いに勝ったり負けたりした。
 一段落した後、俺は立って窓辺に立った。風が止んできてしまったから・・・。
「窓、そろそろ閉める?」
 俺は振り返って春樹に聞いた。
「そうだな。暑くなってきたし」
「あ」
 閉めようとした時に、俺は網戸越しに窓の下を見た。眼下にあるものに、目を奪われた。
「お前んちも、あじさいが咲いてたんだっけ」
「うん」
 彼も立ち上がって、横に立った。一緒に下を見る。庭には、あの公園にあるものと同じように、ぽつぽつとしか花を咲かせていない薄紫色と緑色の一群れがあった。

「俺んちのそばの公園にも、同じようなのがあるんだけど、これって、なんで花が少ししか咲かないんだろう? 普通、鞠みたいになるのに・・・」
 俺はずっと疑問に思っていたことを口にした。
「これ、”がくあじさい”だよ」
 すると春樹はこう答えた。
「え?」
 俺は下の窓枠に手を置いたまま、横の彼を見た。
「”がく”は額縁の”額”。真中に小さい花がいっぱいついてて、その周りに咲いてる花が囲ってるみたいだから、額に見立ててこういう名前が付いたんだって。普通に見るあじさいとは種類が違って、ほんとは”がくあじさい”のほうが元からあるものなんだってさ。俺も知らなかったんだけど、前母さんに聞いたら言ってた。・・・そばまで見に行く?」
「へえ・・・。うん、見てみたい」
 と、そこへ階下からおばさんが夕食の支度ができたという大きな声が聞こえてきた。俺たちは、食後に庭に降りてみることにした。

 おばさんによると、春樹のお兄さんもお父さんも遅くなると言うので、仕方ないから3人で先に食べましょう、ということになった。
「せっかく香純くんが来てくれてるのにしょうがないわねえ、二人とも。ごめんね、香純くん」
 おばさんは茶碗にご飯をよそってくれながら、申し訳なさそうにそう言った。
 テーブルに並べられたのはそれぞれの皿に注がれたビーフシチューと、味噌汁、付け合せ、大皿の刺身、サラダ、といったものだった。”腕によりをかけた”という感じが、見た目からも味からも感じられた。
 3人での食事は寂しいものになるかと思われたが、思いのほか楽しかった。おばさんと春樹の明るさが、食卓を賑やかなものにした。彼女は学校での春樹について、俺に色々聞いてきた。俺は彼がいつも明るいこと、人には慕われていること、などを話した。

「それにしても香純くん、クラスが変わっても仲良くしてくれるんだから、今までで春樹の一番のお友達かもしれないわね」
 俺の話を聞いて、彼女はしみじみと言った。シチューを口に運ぶ春樹の手が、微かに止まった。
「え・・・」
 俺は赤くなった。そして、春樹とはもうただの友達関係ではないことに、彼女を裏切っているような気がして、気分が重くなった。
「この子、遊び友達は昔からいっぱいできたけど、親友っていうのかな、そういう子は少なかったのよね。・・・そうだな、香純くんほど仲のいい子は、初めてかな・・・。もう3年目になるのね、あなたたち」
 そして、俺たち二人を交互に見た。目を逸らしてはいけない、と思い、俺は彼女の視線に耐えた。
「よせよ母さん、そんな・・・」
 春樹は普通に照れて言う。
「でも、親友でしょ、香純くんは」
 彼女の息子への問いかけに、俺は緊張した。
「・・・うん・・・」
 彼は照れを隠しながら、かみしめるように答えた。

 夕食後、食器を台所へ運ぶのを手伝った後、二人で庭へ立った。俺は自分の靴を、彼はサンダルを履いて、玄関から回って出た。
「・・・でも、きれいだな」
 俺は密集した小さな花の周りを囲んでいる、四ひらに咲く花びらの一つをなでながら呟いた。
 リビングから注ぐ光と月明かりに照らされ、ぽつぽつとした鮮やかな花が、緑色の葉の中に引き立って見えた。花の少なさが、かえって暗闇に映えていた。リビングからは、台所で食器を洗うおばさんの丸い背中が見えた。
「・・・こっち、座ってみろよ」
 春樹は歩き、縁側に腰かけて自分の横を軽く叩きながら呼びかけた。俺は言われた通り、彼の隣に座った。

「あのさ、さっきの・・・」
 母親に言った言葉の真意を尋ねたい気持ちにかられ、俺は彼に向かって口を開いた。
「・・・なくなるわけないじゃん。俺とお前が、今まで育ててきたもの・・・。その上に、またゆっくり育てていけばいいんだよ」
 彼は両手を縁側の床に突き、静かに言った。
 何を、とは言わなかった。けれど、俺はそれが何かを知っている。俺たちの友情は、なくなってなんかいない。友情と、愛情と、その二つとを、二人で・・・。
「見ろよ」
 彼は微笑む。その視線の先を、俺は辿った。
 空には、数は少ないけれども雲のない闇の中に星が瞬いていた。
 そしてその下には――地上には満天の星が咲いていた。
 緑の闇の中に浮かぶ、薄紫色の可愛らしい星――。


END
 


梅雨の星