廊下を急いでいる時にふと窓を見ると、朝からの曇り空に暗さが増して、今にも泣き出しそうな色をしていた。
 緊張に鼓動を早まらせながら簾(す)の子の上で上履きを脱ぎ、床に置いた靴に履き替える。歩き、出入り口を過ぎ、校門へと向かう。
 春樹はまだ来ていなかった。
 俺は毎日、下校の時にこの校門の壁を見るとはなしに見てしまっていた。いるはずがない、でも、いてほしい・・・そう思いながら。だが今日は違う。その壁に、俺は寄りかかった。下校する生徒たちが、そばを行き過ぎる。
『きっと行くよ』
 彼のその言葉を信じて、深呼吸をした。
 また、空を見た。一面雲に覆われて、もくもくとした影も見える。雨雲だろうか。
『降るかな・・・』
 朝の天気予報では、夕方か夜から降水確率50%、と言っていた。今日背負っている黒いリュックの中に、一応折り畳み傘は入っている。今度は下を向いた。
 彼に逢ったら、まず何を言おう。まずは、直接謝りたい。ずっと、避けてしまっていたことを。

 5分ほどして、周りの下校生徒とは違う慎重な足音が耳に届いた。それが、こちらに向かってくる。俺は顔を上げた。
「春樹・・・」
 今出された声は、震えてはいなかったろうか。
 まともに見るのも久しくなっている彼の顔は、決して明るいものではなかった。やはり、彼もどんな表情をしたらいいのか、決めかねているようだ。
「・・・どのぐらい、待った?」
 最初に、春樹はそう言った。
「まだ、5分くらいだよ」
 俺は腕時計を見ながら答える。
「ホームルームがさ・・・うちの先生、いつも話が長いんだ」
「そう」
 互いに、本題を出すのがためらわれているように、そんな短い会話をした。

「行こうか」
 春樹が先に立って、歩き出す。
「うん」
 初めは彼の背中を追っていたが、速度を速めて彼の隣を歩いた。
「・・・今日傘、持ってきた?」
 彼は俺のほうを見ずに聞いた。
「え? うん、一応・・・」
「帰るまでに、降り出しちゃうかな。俺、持ってくるの忘れちゃって」
 彼は初めて笑みを見せた。
「なら、俺のに入れば・・・」
 俺も合わせて言う。だが、こんな会話をいつまでしていてもしょうがない。
「春樹、あの・・・」
 謝ろうと、俺は彼のほうを向いて呼びかけた。
「香純。・・・どこか入って、ゆっくり話せないか?」
 彼は真顔に戻っていた。俺は頷いた。


 駅前の喫茶店の、できるだけ奥の席を選んで、俺と春樹とは向かい合って座った。二人、コーヒーを注文した。
 コーヒーが来るまでの間、俺はまず開口一番にこう言った。
「春樹、ごめん、今まで・・・も、あの時も・・・」
「香純・・・」
「俺・・・俺、お前のこと、お前の気持ち、深く考えなかった。あの時かっとなって、飛び出しちゃって・・・。『裏切られた』って、そう思っちゃったんだ。それがずっと引っかかってて、電話もできなくなって、顔も合わせられなくて・・・」
「香純・・・。俺が裏切ってたのは事実なんだ。だから、お前を悲しませることになって、悪いと思ってる。お前が飛び出していった時、どう言ったらいいのか、どうしたらいいのか分からなくなって、結局そのままになってしまった」
 彼が沈痛な表情でゆっくりとそこまで話したところで、コーヒーを盆に載せたウェイトレスが来た。二人の前に白いカップを置き、「ではごゆっくりどうぞ」と言って頭を下げると、去った。

 それを見届けると、彼は続ける。
「俺・・・あれからずっと悩んでた。やっぱり、お前を抱かないほうがよかったのかって。元の友達のままでいたほうがよかったのかって。でも、それじゃ俺の本当の気持ちに逆らうことになる。お前への裏切りを、続けることになっていたかもしれない」
「春樹・・・」
「いや、これじゃ自分を庇護してるだけだな。これじゃ言い訳だ・・・」
 彼は頭を振った。
「違う、春樹・・・。俺、後悔なんてしてないよ。俺だって、お前のことずっと好きだった。だから、抱いてくれて・・・嬉しかった。ほんとは俺が、俺のほうから、もっと前に告白していればよかったんだ。俺のほうこそ、お前をずっと苦しめてた」
 周りの客は皆それぞれの会話に夢中になっているらしいので、俺は思い切ってここまで言った。そしてさらに続ける。
「それに俺、友達でいたいなんて、子供みたいなこと言って、お前を困らせた。大人になりきれなくて、・・・お互いの関係を、認めようとしなかった。だから、お前をいら立たせてしまったんだろう?」
「子供みたいなんて・・・それは俺もそうだ。お前を見守るだけの度量がまだなかったんだ。拒むお前に、いら立っちまうなんて・・・。ガキだったのは、俺のほうだ」
 彼はいつか見せたように、また自嘲気味な顔をした。

「春樹、見守るなんて言わないで。俺、もっと大人になるから。もうお前を困らせるようなこと、しないから・・・」
「香純・・・。そんな、無理しなくてもいい。俺、待つから・・・」
 俺の表情が必死に見えたのか、彼はそう言った。
 俺は何か言おうとしたが、声が出なかった。口をつぐんだ。会話が途切れた。沈黙が流れる。店内の有線放送からは、流行りの女性ボーカリストのポップスが聴こえる。
 顔を上げて、向こうにある窓の外を見た。・・・雨が降り出していた。雨脚は、まだ弱そうだ。色とりどりの傘を差した人が、通りを歩いていく。傘を持っていないスーツ姿のある男は、カバンを頭の上に振りかざして駅へと急いでいる。
『待つから・・・』
 今の彼の言葉を、俺は心の中で反芻した。
 やはり、こういうことでは彼のほうが大人なのだろうか。今はまだ、彼の包容力に甘えるべきなのか・・・?

 コーヒー代は、彼が出した。
 店を出て俺の小さな黒い折り畳み傘を開くと、男二人入るには、やはり狭かった。
「春樹、やっぱり悪いから俺も出すよ」
 まだ歩き出さず、店の軒先で傘を持ちながら俺は言った。
「いいよ。俺が入るって言ったんだし・・・」
 彼がそのまま歩き出したので、俺も肩をぶつからせながら歩く。彼の脚の向く先は、駅だった。このまま、家へ帰るつもりなのか・・・。
 歩道を歩き、駅のある向こう側まで渡ろうとしたが、信号が赤になっているのを見て、俺たちは立ち止まった。やがて『通りゃんせ』のメロディーが流れ、彼は歩き出す。――が、俺は立ち止まったまま従わなかった。雨に濡れるのを感じて、彼は振り返った。俺を避けて、何人かは俺の差す傘にぶつかりながら、信号待ちをしていた人々が行き過ぎていく。

「香純」
 信号が変わってしまう、という気持ちを込めて、春樹は呼びかけた。たまりかねて、俺のいるところまで戻った。
「何か、忘れたのか? さっきの店に・・・」
 俺は首を横に振る。
「香純、じゃあ何?」
 何も言わない俺に、彼はまた名前を呼んだ。彼の半袖シャツの肩は濡れてしまっている。やがて信号は、再び赤になってしまった。
「・・・春樹、帰るの・・・?」
 彼の顔を見ず、焦点の定まらない目つきで俺はやっと声を出した。
「あ、ああ・・・」
 何故そんなことを聞くのか分からない、といった顔をして、彼は答える。
「俺・・・嫌だ。このまま、帰りたくない」
 まだ彼の顔は見ず、俺は言う。
「香純・・・」
「春樹」
 今度は彼の目を、まっすぐに見た。――彼の瞳の中に、彼が意味を悟ったことを知った。


 俺が飛び出したあのホテルの、それとは違う一部屋に、春樹と二人でいた。
 ベッドのそばの椅子にカバンを置いた後も、彼は戸惑っているようだった。
「ほんとに、いいのか・・・? お前、無理してこんな・・・」
「違う。無理なんてしてない」
 彼の背中に向かって歩きながら、俺は否定した。彼の制服の肩も背中も、濡れてしまっている。振り返ろうとした彼に、俺は後ろから腕を回した。背中の、濡れた感触が伝わった。濡れているせいでシャツは体に張り付き、彼の体温をより間近に感じる。
「春樹・・・」
 掠れた声で名前を呼ぶと、彼は俺の腕をいったん掴んで離させて、体を反転させた。掴んだ腕を、そのままにしている。それを振り解き、俺はまた彼の胴に腕を回す。顔を上げる。
「春樹・・・好きだ・・・」
 そのまま、自分から口付けた。舌も、入れた。彼は戸惑って、すぐにはそれに合わせなかった。俺の気持ちだけが、彼の口の中でさまよった。
「俺、お前のこと、もっと知りたい。お前のこと、全部受け止めたいんだ。だから・・・」
 再び口付ける。
「香純・・・」
 彼は、俺の背中に腕を回してくれた。唇のほうも、受け入れてくれた。

「愛してる・・・」
 何回目かで彼を自分の中に感じている時、俺は失いそうな意識の中で、そう言ったような気がした。いや、確かに言った。彼の首に、腕をからませながら・・・。そんな俺を、彼は強く抱きしめてくれた。


梅雨の星