「じゃあ、よかったらあっちで話さない? さっきまであそこで飲んでいたんだ」
 上だけに金属フレームのついた眼鏡をかけた彼は、顔でカウンターを指して優しく言った。


「あの人、ああやって入口付近に構えては、若い子を物色してるんだ。よその店でも同じようにしてるらしい。付き合ってた相手に振られてから、ずっとああなんだ。早く誰か、新しい相手見つけて落ち着いてほしいもんだけど」
「見つけたいから、ああしてるとか・・・」
 彼の左隣に座った涼は、ウーロン茶の入ったグラスを前に、カウンター上で両手を組んでいた。目の前には30代半ばくらいのバーテンダーがいて、他の客用のカクテルを作り始めていた。
「でも、他に方法があるだろ? 周りに迷惑かけてるし・・・」
「そりゃ、そうですけど・・・付き合ってた相手って?」
「ここの客に・・・友達に聞いた話だと、会社の部下らしいよ。不倫だって。でも、気になるの? あんな嫌なことされたのに」
「そういうわけじゃ・・・ないですけど・・・」
 嫌な男だとは思ったが、そんな事情を聞いていると、彼が哀れにも思えた。恋人に裏切られたという、あの佐々木という男に・・・。

「そう。――君さ・・・初対面の男にこんなこと言われたくないだろうけど・・・、もしかして人の目を見て話すの苦手?」
 涼はそう言われ、どきりとした。年の離れた大人の彼に、諭されたような気がしたからだ。ふと見ると、男は右手で頬杖を突きながらこちらを見ている。目が合った。涼はすぐに逸らす。その顔は、それほど取り立てて整っているわけではなかったが、色気を感じさせた。大人の男の色気、とでもいえようか・・・。
「ほら、また逸らした。こっち見てほしいな、ちゃんと」
 と、頬杖を外した男の右手が伸びて涼のあごに軽く触れた。人差し指の横で支え、自分のほうを向かせる。涼はその思いがけない行為に、そして眼鏡越しながらもまともに男の目を見てしまったことに、固まっていた。
 男はフッ、と笑う。
「可愛いね、君。まだ慣れてないって感じだ」

 涼を解放すると水割りのグラスを手に取り、一口飲んで喉を潤す。涼もお茶を飲み、心の中で胸をなでおろした。
「どうしてこの店入ったの? 誰か連れは?」
 男はグラスを両手で包みながら聞いた。
 彼に言われたのが気になり、涼は今度は相手の目を見て答えた。
「さっき・・・別れてきました。別に付き合ってるとか、そういう相手じゃないですけど・・・。悪友です」
「そう・・・。何かあったの?」
「・・・」
 涼は黙った。先ほどまでのことを、他人に――しかも初対面の相手に話すのは、かなり恥ずかしいことに思われた。
「話したくない事情なら、別にいいよ。そうだ、まだ名前聞いてなかったね。俺は芳則(よしのり)。他に源氏名考えようともしたけど、結局本名そのままさ」
「源氏名・・・?」
「ここの街とか、世界だけで使う名前。まんまじゃヤバい場合もあるからね。職場とか、学校にバレたら困るとか。で、君は?」
「涼・・・です。俺も本名・・・」
 そういう名前は、店で働く人間だけが使うものだと思っていたので、涼は意外に感じた。
「『りょう』・・・か。いい響きだね。羨ましいな」
 彼はカウンターに肘を突いて、両手を顔の前で組んだ。

「でさ、今日が初めて? この街来たの」
「はい・・・」
 また、涼は相手のほうは見ずに下を向いてしまっていた。
「ああ、堅苦しいな。タメ口でもいいよ。それに、また俺のほう見てくれてない」
 男――芳則がそう言った時、店内に流れていた音楽が静かなスウィングに変わった。それまではサックスなどを使ったミディアムテンポなジャズが流れていたのだが。
「君・・・涼さ、どっちかっていうと自分に自信ないほうじゃない?」
 彼にそう言われ、涼はちょっとむっとした。泰央といい、今日は妙に初対面の相手に見抜かれ、ずけずけと言われる日だ・・・。
「怒った? でも、もったいないと思ってさ。せっかくきれいな顔してんのに、下向いてばっかりじゃ・・・」
「そんな・・・俺なんて普通です。女にだって、もてたことないし・・・」
 涼は膝の上で両手を複雑に組み合わせた。言われても、すぐには敬語はやめられなかった。
「だからだよ。そうやって、自信なさそうにしてるから・・・。もっと、自信持ったほうがいいよ。だって・・・外歩いてる時さ、誰かに見られなかった? そのへんにいる若い子とか・・・」

 その時、涼は先ほど街灯の下に立っていた少年を思い出した。自分に、何か言いかけようとしていた少年・・・。売りをやっている部類の少年かと思って、無意識のうちに無視して通り過ぎてしまったが・・・。それ以外にも、思い出してみると何人かの男たちと目が合った。
「・・・目は、合い・・・合ったけど・・・」
「ほら、やっぱり。君可愛いもの。年下から見たら、きれいって感じなんじゃないかな」
「そんなこと・・・」
 恥ずかしさに、涼は掌に汗をかきながら否定しようとした。
「なくはないよ。俺が保証する。自信さえ持てば、きっともっと楽しくなるよ。これから・・・」
「そう・・・かな・・・」
「そうそう。しかし、やっぱりウーロン茶じゃ酔えないからだめだね。残念だな。酔った君も見たかったのに。・・・君、いくつ?」
「18。今度19になる・・・」
「じゃ、今大学生とか?」
 涼はお茶を一口胃に運んでから、頷いた。

「あの、あなたは・・・」
「ああ、俺のこと話してなかったね。俺は28になったばかり。でももっと下に見られることが多いから、得はしてるよ、いろんな意味でね」
 彼は眼鏡の奥で笑った。
 実際の年齢を聞いて、涼は少し驚いた。25、6だと思っていたからだ。例えば高校の時の同じ年頃の教師たちを思い出してみると、今の彼よりはるかに老け込んで見えていた。
「あなたは・・・会社員・・・?」
「ああ、普通にね。今日は早めに仕事が終わったからここへ来て、一人で飲んでた。前は、ちゃんと相手がいたんだけど・・・3ヶ月くらい前に別れちゃってね。それから、いつもは友達と飲んだりしてる。なかなかいい出逢いってないけど、友達といれば寂しくはないよ」
 そう言いながらも、芳則は自嘲気味な笑顔を見せていた。またグラスを傾ける。
 恋人に振られた――いや、振ったのかもしれないが、彼もあの佐々木と同じような境遇というわけか。他人に迷惑をかけないだけ、彼のほうがましかもしれない。

「・・・聞いていいですか? その、付き合ってた人って・・・年下?」
 涼は思い切って口を開いた。
「いや、年上。30代の人だったよ。でも・・・上はいつも俺」
「え・・・?」
 話が下がってきたのを感じて、涼は聞かなければよかったかと思った。彼の頬を見ると、最初の時よりは若干赤くなっているようだった。
「そ、そういえば・・・あなたって煙草は吸わないんだね」
 話題を変えようと、涼は焦って言った。
「ああ、昔高校ん時興味本位でちょっと一口吸ったことがあるんだけど、むせちゃってそれからだめ。『こんなもの吸えるかっ!』ってね。酒のほうが好きかな。それでも、悪酔いするほど飲んだりはしないよ 」
「そう・・・。俺も吸わないほうです。さっき言った友達なんか、まだ二十歳(はたち)前なのにすっかり慣れちゃってるけど・・・」

「君、どっちが好き? ・・・吸うほうと、吸わないほう」
 芳則は興味ありげな表情をした。涼の顔を覗き込む。眼鏡越しの眼差しを、涼はまっすぐに見た。見たまま、考え込む。
「・・・さあ・・・分からない・・・」
「どっちかといえば?」
 男はさらに顔を近付ける。肩が、ぶつかった。
「吸わ・・・ないほうかな・・・」
 涼が言い終わるか終わらないかといううちに、唇は男のそれに塞がれていた。眼鏡の一部が顔に当った。涼は目を見開く。すぐに身を引いた。胸の鼓動は早まっている。
「よかった。あ、眼鏡・・・外せばよかったね」
 男は平然とした笑顔だ。

 バーテンダーは少し離れた席にいる客の相手をしていたが、確かに彼の目には入っていたはずだ。それに構わない芳則の行動が、涼は理解できなかった。酒に酔い始めているのか・・・?
「ごめん。不躾(ぶしつけ)だったね。つい勢いで・・・」
 涼の戸惑った表情に気付き、彼は謝った。
「吸わないほうが好きって言ってくれたからさ・・・。でも・・・なんで? 理由は?」
 涼は座り直した。心を落ち着けようとしても、まだ収まらない。
「匂いが・・・しないから。吸う人って、キスするだけでも気になるから・・・」
 涼は武司のことを思い浮かべながら話した。彼との、何回かのキスの味を思い出しながら・・・。
「そう・・・。吸う奴と付き合ってたことがあるんだね。そっちもまだ経験がないのかと思ってた。その、初心(うぶ)だから、君・・・」
「付き合ってません」
 強く言った涼に、芳則はきょとんとした。
「もしかしてさ・・・さっき言ってた悪友って・・・」
 思い当たって、彼は聞こうとした。
 涼はそう言われた時、膝の上で拳を握り締めた。それを、芳則は見逃さなかった。涼の横顔が強張っていることも・・・。
「そうなんだね。でも、事情は聞かない約束だったから、これ以上はやめとくよ」
 それで、会話はしばし途切れた。


Bittersweet Carnival