互いのグラスの液体が半分以下になると、芳則が沈黙を破った。
「君がこの店へ来た理由・・・それもまだ聞いてなかった。酒を飲めるわけでもない。連れもいない。何故? さっき佐々木さんに、間違って入ったなんて言ってたけど・・・」
「それは・・・」
今度は答えないわけにはいかなかった。涼は深呼吸した。
「最初は・・・友達が欲しくて街へ来たんだけど・・・今は・・・」
芳則は眼鏡の中で瞬きをした。
「相手が欲しくて・・・?」
涼はゆっくりと頷く。スウィングが、会話のベース音になって聞こえる。
今の自分の答えが、青年の興味をさらにそそったことが、涼には分かった。彼が自分に気を寄せているだろうことは、先ほど唇を奪われたことで証明済みだ。それとも、あれはただからかわれただけなのか・・・? 10近くも離れている大人な彼にどう対応すればよいのか、涼は今ひとつ掴みかねていた。
「そう・・・。確かにここは、いろんな奴が集まるからね。で、君はどっちのほうなのかな? 見た目はネコって感じがするけど」
「やっぱり・・・そう見えますか? さっき友達にも言われました、それ」
涼は初めて彼に笑顔を見せた。苦笑いではあったが。
「俺・・・実際まだ分からないんです。最初は何も分からないから、下だったんだけど・・・。そいつと付き合おうとした時はずっとそれでもいいと思ってたんだけど・・・だけど・・・」
「だけど?」
芳則は優しい、それでいて興味津々な目をした。
「俺も一応、男だし・・・逆の欲望がないって言えば、嘘になります。だから俺、誰かその相手を探そうと思って一人になったんです」
涼は思い切って、そこまで話した。喉が渇くので、またお茶で潤す。
「ふうん・・・。そういう時って、あるよね。俺も最初は下だったさ。でも元々攻めたいって気持ちが強かったから、すぐに逆になったけどね。その後は、俺は年下とか年上とか気にしなくなった。好きになった相手がたまたま、年上だったり年下だったりって感じかな。君は年とか気にするほう?」
芳則はまたカウンターの上で両手を組んでいた。視線は涼の横顔を見ている。涼は顔をその目に向ける。
「それも、まだ・・・。最初のキスの相手は、先輩だったけど・・・。年上に憧れはあるけど・・・」
最後の言葉で、また正面に向き直した。『年下はまだ経験がない』と続きを言うのが無性に恥ずかしくて、涼は言葉を止めた。武司を見返すために、強くなるためにあの店を出たのに、まだ武司しか知らないことが悔しくてならなかった。それに比べて、芳則はやはり年齢分だけの経験を積んでいるようだ。
「じゃあ、いろいろ経験するしかないようだね。あと、自分が憧れてた年齢を過ぎるとタチになる、っていうのもあるよね。俺の周りにもそういう奴がいるよ」
――二人のグラスの液体は底近くになった。
「ね、どうする? 何かもっと飲む? それとも・・・場所変える?」
芳則は、グラスをカウンターに置いた涼の右手のそばに、自分の左手を置いた。
「変えるって・・・? 店を変えるんですか?」
それでは3軒目になってしまう、と涼は単純に考えた。もう飲み物はいい、という気がしていた。
「それでもいいけどさ・・・」
青年の手が、右手の上にそっと重ねられた。涼は手を引くタイミングを逃した。恐る恐る目を上げると、彼と見詰め合ってしまった。
「君、こだわりがないのなら・・・だめかな? 俺じゃ・・・」
包み隠さず、彼は言ってきた。顔は微笑んでいる。冗談なのか・・・? それとも・・・。
「・・・」
涼は声が出せなくなった。心なしか、体も微かに震え出した。
「嫌?」
彼は上に乗せた手を握る形に変え、さらに聞く。本気、と捉えたほうがよさそうだ。
「もしOKなら・・・、受け止めて・・・」
手を握ったまま、右手で眼鏡を外しテーブルの上に置き、涼のあごを上向かせた。再び彼の唇が近付く。――そして触れ合った。涼が目を閉じた時、彼の舌が口内に入り込み、涼のそれがからめ取られた。それは十数秒ほどのことだったが、涼は酩酊を覚えた。その間、店内の音楽は聞こえなくなった。――自分から唇を離した。彼も両手を離す。
バーテンダーは二人と1メートルほどしか離れていなかったが、見て見ぬふりをしてシェイカーを振っている。この店ではこんなことは日常茶飯事なのだろうか、と涼は彼の舌の動きを脳裡に蘇らせながら思った。自分と唇を合わせた3人目の男になった彼を、見詰めた。彼が、肌を合わせる二人目の男にもなるのか・・・?
「でも・・・俺・・・」
「分かってる。君、抱く相手を探してるんだろう? 君が望むならやらせてあげる。でも、後でも先でもいい、俺も君を抱きたい」
飲んだ酒の勢いなのか、芳則は直接的な言葉を吐いた。それを抵抗もなく聞いている自分がいることに、涼は気付いた。眼鏡を外した瞳で見詰めてくるその視線には、熱がこもっている。彼の頬は、さらに赤味を帯びている。
「芳則さん・・・」
初めて涼は、男の名を呼んだ。
「俺がおごるよ」
二人席を立ってカウンターを離れ、涼の肩を抱いて歩きながら芳則は言った。その手を、涼は振り払わない。しかし、まだ気持ちが固まったわけではなかった。迷いは、ある。
「そんな・・・いいです。俺も出します」
「いいよ」
彼はジーンズの後ろポケットから出した財布を持った涼の手を、手を挙げて制した。
レジに着こうとした時、涼は脚を止めた。
「どうしたの? ・・・怖い?」
背の高い彼は優しい笑顔を向けた。
『やらせてあげる』と彼は言った。しかし、自分が彼を抱く姿というのは涼には想像し難かった。もしうまくいかなかったら、武司の時以上にダメージを受けるのではないか。そんな不安があった。それで益々、自信をなくすことになったら・・・。
それよりも今の涼には、『君を抱きたい』との彼の言葉が引っかかっていた。武司しか知らない悔しさだけでなく、この年上の青年に抱かれてみたいという純粋な気持ちが確かにあった。未知への期待、とでもいうような・・・。しかし・・・。このまま店を出て彼についていくことが本当に正しいのか、分からなかった。『抱かれたくない』という気持ちもまた、あったからである。――そう、『武司以外の男には抱かれたくない』との強い気持ちが・・・。心を整理した挙句それに気付いた時、涼は愕然とした。
「ね、涼・・・」
止めた脚をなかなか動かし始めない涼に、芳則は顔を覗き込んで表情を確かめようとした。どこか蒼ざめたような、沈んだものに変わっていた顔が、そこにあった。
「・・・ごめんなさい」
振り絞るように、涼は声を出した。今度はみるみる赤くなっていくその顔・・・。
「やっぱり俺、だめです・・・」
真ん中で分けた前髪をさらりと乱し、涼は頭を下げた。それを聞くと、芳則は肩に回していた腕をゆっくりと下ろした。
「そう・・・。それなら無理にとは言わないよ。ごめんね、こっちこそ半ば強引みたいで・・・。もっと君の気持ち、考えればよかった」
青年は申し訳なさそうに言った。
「そんなことないです。俺が悪いんです。ほんとにごめんなさい」
このままだとこの青年は泣いてしまうのではないか、と芳則は心配になった。感情の起伏が激しいところなど、まだ少年の部分を残しているところがまた可愛いと、彼をして思わせた。
「そんな顔しないで。気にしなくていいよ。涼・・・」
たまらず、また肩を抱いた。しかしそれは、先ほどまでとは違う感情がそうさせた。
「とりあえず、店を出よう」
ドアを開けた時、その向こうで入ろうとしていた人物と二人はぶつかりそうになった。双方とも、驚いてみせた。俯きがちだった涼ははっとした。それが、あの街灯の下にいた彼だったからだ。
「なんだ、優理(ゆうり)。来てたのか。こんなところで何してる?」
さらに意外なことに、少年と芳則は知り合いらしい。涼は芳則の顔を見た。笑顔を作るでもなく、驚いた表情を続けていた。
「あ、あの俺・・・」
優理と呼ばれた少年は二人の青年の顔を見比べながら、慌てた。目の前にしてみると、円らな瞳の輝きがより印象深く涼の心に刻まれた。
二人がドアの外へ出ようとしているのに気付いて、優理はそのままおずおずと後ろへ下がった。スペースが空くと、二人はやっと店の外へと脚を踏み出した。ドアは芳則によって閉められた。
Bittersweet Carnival
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