啓二に招(よ)ばれた部屋の前で、清太は佇んでいた。ドアの隙間から、明かりがかすかに漏れている。このドアの向こうに、あの男はいる。まるで自分はコールボーイだ、と清太は思った。ノックをしたら、その後何時間啓二に拘束されるのだろう。
 と、突然ドアが中から開けられた。部屋の明かりを逆光にして、啓二の顔が覗く。
「どうした? 入れよ」
 清太は啓二を見据えたまま、脚を動かそうとしない。
「・・・すねてるのか?」
 ドアをより開けて、前から清太の肩に腕を伸ばし引き寄せながら、啓二は言った。

 清太と逢う時啓二は、いつも仕立ての良いスーツに身を包んでいた。自分の年ではスーツはあまり着ないので、啓二の着ているものを見ながら清太は、ジャケットやシャツ、ネクタイに色々な種類があることを知った。ブランドなどは分からないが、彼はいつでも趣味が良かった。
 今日の彼は英国調の、ダブルのスーツを着て清太を迎えた。ブルーシャツに、ノットを大きく結んだ細かい模様のネクタイを、Vゾーンの狭いスーツの襟から覗かせている。

 ドアに鍵がかけられ、啓二に抱き寄せられると、今日は香水を使っているらしく、ふと清太の鼻をついた。それはきわめて弱いもので、注意しないと分からない程度だったが、その香りで、清太はいつしか感じた酩酊感に、また襲われた。その弱さが、かえって強い印象を残すかのようだった。抱きしめられ、啓二の頭部が清太のそれと交差している。髪も櫛できれいに整えられ、艶を帯びている。・・・清太は目を閉じ、深呼吸をした。
――光樹とは違う香りがする。
 そう感じた後清太ははっとして目を開け、意識を取り戻した。――啓二に流されては、いけない。

「こんなことしてたって・・・」
 啓二に吸われていた唇を離し、清太は言った。
「僕はあんたの恋人じゃないからね」
 すると啓二は、向き合っている清太の、白いシャツのボタンを外し、合わせ目を開いて露わになった胸に口付けながら、言う。
「そう思いたければ、今はそれでもいいさ・・・」

 ホテルSは、啓二と清太が最初に関係を結んだ場所で、その後も彼らは一番よくここを使った。初夜を迎えた部屋は2階にあり、今日は3階の一部屋を割り当てられた。外観を良くするためか、カーテンの色はやはり同じ薄紫色だった。部屋の作りは、ベッドの位置などが多少違った。

 シャツだけ脱がせると、啓二は清太を抱きしめながら、ベッドに押し倒した。そして自分もスーツの上着、シャツ、と順に脱いでいく。
「でも・・・、少なくともお前は、俺に抱かれるのを求めてる。だからここへ来た」
 上半身裸になり、清太の顔を両手で挟み、覆い被さって囁く啓二。
「それにいつも”いってる”だろ?」


「やっぱり今日も使わないんだ・・・」
 脚を開かれている時、清太は啓二に言った。
「お前な、俺はこれでも知り合いの医者んとこで、定期検診してるんだぜ。そいつも同類だから、遠慮がいらねぇのがいいんだ」
 そう言いながら、啓二は清太の両膝が胸に付くくらいまで曲げさせた。
「それに・・・、俺は本気で愛してる奴とは、生身の体で繋がりたい・・・」
 啓二は清太の中に入っていった。
「そうじゃない相手には、使うわけ・・・?」
 彼の首に腕を回し、自分の中の啓二の存在を確かめながら、清太は溜息混じりに言った。
 あの最初の日、自分を30分も待たせている間に逢っていたらしい、相手にも・・・?
 清太はあの遅れた理由を、まだ啓二に聞いたことがなかった。今日終わったら聞いてみよう、と清太は思った。

 そのうち、官能が二人を包み始めた。
「あ・・・、ああっ・・・」
 清太が先に感じ出して、声を漏らした。
「いきそうか?」
 攻めながら、啓二が聞く。
「ばか・・・!」
 清太は薄目を開けて、自分の上の啓二を見た。啓二は普段は、前髪だけ少し立てて、後は後ろに流しているような髪型をしているのだが、シャワー後の濡れ髪も乱れ、今は前髪が完全に彼の目にかかっていた。悔しいけれど啓二のこの乱れ髪が、清太にとって一番魅力的だった。
「愛してるぜ。清太、愛してる・・・!」
 その乱れ髪の間から清太を見つめる啓二。

 清太は、啓二がいつになく激しく自分を求めてくるような気がした。啓二に揺さぶられ、清太の体はシーツの上で摩擦され、徐々に後ろに下がっていきそうだった。たまらず、啓二に合わせて動こうとした。なかなか叶わなかったが、やがてなんとか合った。
「や・・・啓・・・二さん・・・」
 繋がり始めてから、大分時間が経っていた。だが、彼はまだ解放してくれない。今自分の体中に、啓二がいるみたいだった。彼に満たされ、彼だけが、支配していた。
「お前だって少しは俺のこと、好きなんだろ?」
 啓二はさらに強く腰を使ってきた。
「はっ、はぁっ・・・! 嫌っ!!」
 清太は顔をのけ反らせた。両手で、啓二の肩を掴んだ。
「俺のこと好きか?」
 自分の分身の全てを清太の中に埋(うず)め、啓二は掠れ気味な声で諦めずに聞いた。
「ああ・・・」
「好きか?」
「ああっ・・・好き・・・!! もっ、もっと・・・!!」
 頂点に辿り着く直前、清太はとうとう、一番啓二に言うまいと思っていた一言を、叫んでしまった。
 後には、海のような恍惚だけが、二人を覆ってシーツの上を揺蕩(たゆた)った。


 枕にうつ伏せになり、重ねた両手の上にあごを載せて呼吸を整えている清太の、背後から啓二の声がした。
「よかったか?」
 かけ布団をかけた清太の上に、啓二は上半身だけ載せてきた。喉が渇いたと言って、冷蔵庫からビールを取り出して飲んだ後だった。
 そして清太の耳元で囁く。
「可愛い声だったぜ」
 清太は羞恥に顔を赤らめた。体の汗は、まだ乾いていない。
「やっやめてよ・・・。あんたが・・・あっ」
 啓二が布団の隙間から手を入れ、清太の前に触れた。
「今日もいったな。・・・俺が好きだって?」

 すると清太は顔だけ振り向けて、意味が分からないといった顔をして、言った。
「そんなこと・・・言うわけないだろ・・・」
「言ったって」
 啓二は身を起こした。
「もっとも絶頂の時だから、覚えてないだろうがな」
 からかうような笑顔を作った。
「もう・・・、ばか・・・!」
 事実、清太はそれを覚えていなかった。自分がそんなことを口にしたなんて、信じられないくらいだった。「愛してる」と言われながら、体の奥まで激しく愛されたせいだろうか。

『それじゃ僕は、完全に啓二さんのものになってしまったってこと? でも、ほんとに覚えてない・・・』
 今や恥ずかしさで一杯だった。

 そこへ、突然ピーピーピー、という電子音が、どこからか響いた。
 清太は自分のポケベルだと気付いて、急いで、先ほど啓二に脱がされたズボンのポケットを探った。青色のそれを取り出し、黙らせた。
『よりによってこんな時に・・・。電源切っとけばよかった・・・』
 啓二から見えないよう、そのまま立って画面を見やった。
「『あしたあえる』・・・コウキっていうのか、お前の彼氏」
 だが、背後から啓二が覗き込んでいた。清太の胸を後ろから両手で掴み、言った。
「明日そいつと逢ってセックスするのか?」
「うるさいな・・・、僕帰る・・・!」
「そう言うなよ。もう1発か2発やってかないか?」
 言いながら、啓二は清太をベッドに押し倒した。ポケベルが床に落ちて、チェーンの軽い音がした。
「な?」
「でっでももう時間が・・・」
「そんなもの!」
 啓二は唇を、清太のそれに強く捺(お)した。
「ん・・・!」
 清太は光樹からのメッセージが、啓二を嫉妬させたのかと思った。・・・いつもながら、啓二のキスが上手いので、清太は酔ってしまった。

 啓二は清太の耳に唇を移動させ、口付ける。徐々に、這わせている舌の位置を、首筋、胸、と下げていく。
「コウキって奴と逢うの、今日じゃなかったのか?」
「違うよ。最初から、明日逢えるかもってことになってたんだ。今日、はっきりするからベルするって・・・」
「なんだ。じゃ、俺と逢った翌日じゃ、そいつに浮気がばれるかもしれないから、今日はだめだって言ったのか?」
「そうだよ」
 清太は息を吐(つ)いて言った。
「そいつ、いくつだ?」
「・・・二十歳(はたち)」

 すると、啓二がいきなり、強く清太の左胸の辺りを吸った。
「なっ何するんだよ・・・!?」
 啓二はにやけて言った。
「だったら、思い切り嫉妬させてやろうと思って、そのコウキに」
「や、やだ。そんな子供っぽいことするなよ・・・」
「いいだろ別に。俺を好きだって言ったんだ、お前は。今日この時だけは、お前は俺のものだ・・・。この意外と厚い胸板も、下のほうも全部・・・」
 啓二は一時舌での愛撫をやめ、清太のものに右手を伸ばし、包んだ。
「今日こそ、本当の俺と本当のお前を見せてやる、分からせてやる」
「啓二さん・・・」
 清太は何故か、啓二の前髪に手を触れ、後ろに掻き揚げてやる仕種をした。啓二の瞳を見つめ、彼の気持ちを読み取ろうとしたかったのかもしれない。
「啓二さん・・・」
 もう一度、これからさらに自分を制服しようとしている男の名を呼んだ。
 下半身を舌で愛されている時、清太は彼の髪に両手の指を絡ませながら、胸の奥底に”愛しい”という感情が泉のように湧き出でるのを覚えた。


 二度目の頂点に昇りつめるまでの間に、清太は”本当の自分”を知った。啓二は、光樹がしないような多くのことを清太にした。清太は啓二が望むなら、動物的な姿態までしてみせた。かつて、ここまで心も体も何もかも、相手に解放してみせたことはなかった。こんなに自分が淫らだとは思わなかった。

 それだけに汗をかき終えると、自分のしたことや叫んだことが無性に恥ずかしくなって、それを隠すために、清太は啓二を責めた。
「嫌い・・・! こんな時間になっちゃったじゃないか・・・!」
 啓二は清太の背中にキスしていた。
「何言ってんだ。ノってたくせに」
 傍らの時計は、すでに午後8時半を回っていた。清太の家からこの街まで、電車やその他の時間を含めて、1時間半かかる。だからいつも清太は、できるだけ早くホテルを出たがった。遅くなるほど電車の本数が少なくなるからである。

「さてと」
 啓二が清太の肩を掴む。体を返し、仰向けにさせた。
「な・・・」
 清太の心に不安がよぎる。
 啓二は清太の両足首を掴むと、脚を大きく上げさせて、自分の両肩に載せた。
「な・・・何する気・・・?」
 聞きながら、清太は3回目が始められようとしているのを悟っていた。
「俺とのセックスが1回や2回で終わると思ってんのか?」
 そう言って、繋がる身振りをしようとした。
「まっ待って・・・! だめ。なんで? いつもはそんなに・・・」
 今までは、多くて2回までだった。
「言ったろ? 今日はたっぷり愛してやるって。せっかく、相思相愛にもなれたんだ。何したっていいだろ?」
 啓二はあくまでも始めようとする。
「やだ、待ってってば・・・。その前に一度、体をきれいにさせて」
「そんなの後でいいだろ」
 啓二は清太の脚を抱えたまま、いらついて言った。
「お願い・・・」
 清太は下で、目を潤ませている。
「しょうがねえな」
 二人はしばしの休息を取った。


 だがその日最後の繋がりを啓二と持った時、清太は自分でも意識して、啓二の愛を求めた。
 二人は互いの名を呼び合い、一つになろうと官能の海で懸命にもがいた。少年の声が、闇の中に谺(こだま)した。清太は「大好き」とさえ叫んだ。叫びながら、今この刹那だけは、この犯罪者に壊されてもいいと思った。・・・何故かは、自分にも分からなかったが。

「今だけ・・・今だけあんたの恋人になってあげる・・・」
 愛を交わし終えると、清太は自分から啓二に口付け、こんなことまで囁いた。
 二人は枕をクッション代わりにして、壁にもたれかかって寄り添っていた。啓二が左腕で、清太の肩を抱く。清太も、するに任せた。

「ね・・・。そういえばさ、なんで昨日電話、留守録になってなかったの? 僕、20回もコール待っちゃった」
「ああ・・・。俺も家に着いてから気付いた。朝、たまたま急いでて、忘れてたんだな」
 啓二はフッ、と笑みを零した。さらに強く清太を抱き寄せた。
「そう。・・・前の日に、誰かとがんばっちゃって、寝坊でもしたの?」
 すると啓二は、存外のことを言われて、清太を見た。
「何言ってるんだ・・・? 俺はお前と出逢ってから、一度も浮気なんかしたことないんだぜ?」
「嘘。あんたって、手当たり次第なんでしょ? あの店の客が、言ってたもの・・・。あの最初の日だって、僕を待たせてる間に誰か男の子と逢ってたんだ・・・」

「清太。そりゃ、妬(や)いてくれるのは嬉しいが、どっちも違うって。昨日は、前の日に仕事仲間と飲みすぎて二日酔いだったから、いつも通り起きれなかっただけで、その待たせてた日は、ちょっと馴染みの奴に呼び止められて、足止め食っただけだ」
 清太はまだ疑わしげな瞳で、啓二を見上げた。
「馴染みの奴って、何?」
「暇な時に何度か寝ただけの、2丁目でよく会う奴だ。その日、適当な相手がいないから、俺と寝てくれってさ」
「やっぱりそうなんじゃない」
「あのな。寝るわけないだろ。お前のことで頭がいっぱいなのに・・・。そいつしつこかったけど、なんとか宥(なだ)めて、別れたさ」
「・・・その子、いくつくらい?」
 啓二の胸に手を置く清太。
「21だ」
「結構上なんだ、僕より」
「ああ。・・・でももう、お前のことしか考えられない、今は」
 啓二は清太の栗色の髪に顔を埋(うず)めた。啓二がかかせた汗は乾こうとしていたが、まだ濡れている。
 そこへ、清太が小さくくしゃみをした。
「寒いか? ・・・そろそろシャワー浴びて、帰るか」
 清太は頷く。
 二人は別々に、愛し合った跡を洗い流すと、最後に短いキスをして、ホテル前で別れた。


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