『僕は啓二さんに、心まで奪われてしまったのだろうか・・・?』
翌日、光樹との待ち合わせ場所で彼を待っている間、清太は昨夜のことを考えていた。
何故あんなにも、啓二の愛を求めてしまったのか。単なる欲望だろうか。清太には、どうしてもそれだけとは思えなかった。彼の愛に応えなければならないという、義務感からか。だがベッドの上で、義務感が働くというのもおかしな話だ。
『まさか・・・』
ふとある予感が彼の頭をよぎったが、すぐに打ち消した。
『まさか、僕があの人を愛するはずがない。あんな、変質者的な性格をした男に・・・。僕は・・・』
自分があの男と同じ人種だとは、思いたくなかった。少なくとも自分は、正常な側の人間だと思いたかった。だが、求めてしまった。
――どこまでいっても、考えは堂々巡りになった。自分にとって、啓二と過ごした昨夜の数時間が、どんな意味を持つのか知りたかったが、一向に答えは出ないのだった。
そこはS駅前の植え込みがあるところで、他にも待ち合わせをしている若者が、大勢いた。あっちこっちで、ポケベルが鳴って合唱していた。中には少し大人で、携帯で話している者もいた。それでまた啓二のことを思い出しそうになったが、何とか頭を振って、散らした。
清太は待ち合わせ時間より20分前に着いたので、手持ち無沙汰に通行人や待ち人の群れを、なんとなく見ていた。10月の秋晴れの今日は、歩くと少し汗ばむほどの陽気なので、上着を手に持っている人が結構いた。
清太はミリタリー風のカーキ色のシャツに同素材のネクタイを着け、下は濃い茶系の皮のパンツを穿いていた。他の待ち人同様、植え込み前の柵をベンチ代わりにして座っていたのだが、そうしていると、まるでモデルのように映った。背はそんな高いほうでもないのだが。若い女の子はたいてい、通り過ぎる時に清太をちらりと見やって行った。もっとも、清太はうざったい気持ちがしていた。
そうこうしているうちに20分が立ち、光樹が目の前に現れた。彼は、グレーのVネックのカットソーに、同系色のボーダー織りがされた、肉厚のプルオーバーを着て、黒いパンツを穿いていた。
清太は立ち上がった。
「待った?」
「ううん、僕も今来たとこ」
二人は待ち合わせの決り文句で挨拶を交わした。
光樹のさり気ない笑顔を見た時、清太は急に、彼に駆け寄ってキスをしたい衝動に駆られたが、もちろんそんなことはできるわけがなかった。
「どうする? まだ上映時間まで、余裕あるけど」
今日は、リバイバル映画の単館上映をやっているので、それを観に行こうということになっていた。ヴィム・ヴェンダースの『ベルリン・天使の詩(うた)』という映画だ。
光樹は他に、フェデリコ・フェリーニやジム・ジャームッシュなどのロード・ムービーなんかが好きだと以前から言っていた。ヴェンダースが一番好きなのだそうだ。観慣れたハリウッド映画なんかとはかなり映画の作り方が違い、静かな作品が多いので、清太は最初入り込めなかったが、光樹に付き合って銀幕やビデオで何本か観ているうちに、段々好きになっていった。彼への想いも、それと比例して深まっていったものだ。
「あと、どれくらいあるかな?」
清太が聞くと、光樹は腕時計を見た。
「1時間と・・・30分はないな。じゃ、その辺で服でも見てようか? それでいい?」
「うん」
そうして彼らは歩き出した。
『今日一日光樹と過ごせば、僕が今彼と啓二さんと、どっちを愛しているか分かるさ、きっと・・・』
光樹に並んで歩きながら、清太は思った。
『ベルリン・天使の詩』は、公開当時異例のロング・ランを続け、80年代後半に話題になった映画である。”天使”の男が地上に降りて人間の女性に恋をし、最後は彼が人間になることで彼女と結ばれる、といってしまえば簡単なストーリーだが、モノクロとカラー、有音と無音を巧みに使い分け、映像と音楽がえもいわれず美しく、観る者の感動を誘う。清太もビデオで一度光樹と観たことがあるのだが、その時は、確かに感動はするが難しいという印象を受けた。それで、この機会にもう一度観よう、と光樹が誘ったのだった。
後で光樹に映画の感想を聞かれるだろうから、清太は今度はしっかり観ようと思っていた。・・・が、暗闇の中で、肘掛けに載せられていた右手に光樹の手が重ねられると、映画どころではなくなってしまった。光樹の手は熱かった。彼は少し頭を寄せ、耳元で囁いてきた。
「寂しかった?」
彼らが逢うのは二週間振りだった。先週の日曜は、清太の部活と光樹のサーフィンが重なって、逢えなかった。夜に逢えれば良かったのだが、これも海仲間の食事への誘いがあって、どうしてもと引き止められてしまったのだった。
「うん・・・」
清太は下になっていた手を動かし、光樹の左手を握った。今の言葉は、普通の意味で聞いたのか、それとも性的な意味で聞いたのか分からなかったが、逢えない間ずっと光樹の笑顔を見たいと思っていたことに変わりはなかった。
啓二といたり、声を聞いたりしている時は、心に安らぎを覚えることがあまりなく、いつもどこか緊張してしまうのだが、光樹と時間を過ごす時は、ただ一緒にいるだけで、清太は幸せを感じた。
「・・・今日、遅くなっちゃってもいい?」
今度は明らかに”誘い”の言葉だった。清太は思わず、光樹の手を握っている右手に力を込めた。・・・が、これはまずかった。
こういうところでなければ言えないことなので、以前から”誘い”はこのような形で行われることが時々あった。清太の答えは、光樹の手を握ることで”OK”を意味した。
光樹はわずかに頷くと、
「じゃ・・・後で・・・」
と言って、握られていた手を離した。
清太は肘掛けに載せた手をそのままにしていた。光樹の熱い手の感触が、まだ残っている。
「待って・・・今の違う・・・」という言葉が口を上りそうになったが、声には出せなかった。
光樹の横顔を見やると、彼は映画のストーリーの中に戻っていた。清太の手を握っていた左手を口の辺りに持っていき、スクリーンに見入っている。
『どうしよう・・・困ったな・・・』
清太は今日は、光樹とホテルに行くつもりはなかった。
昨夜、啓二にいつもより多く付けられた体中の赤い斑(ふ)を、光樹に見られたくないのだ。
だが、今ここで行きたくない理由を聞かれたら困ってしまうし、少なくとも、周りには映画を観る観客の存在がある。
とりあえずここでは何も言わず、おとなしく映画を観ることにした清太だった。
もっとも、内容はまるで頭に入ってこなかった。・・・天使が耳を傾けている、人間たちの心の声が場内に響いていた。・・・図書館、廃墟、帽子屋、ライブ会場・・・そんな場所を、天使は訪れていった。・・・ラスト・シーンでは、青く光るドレスをひらめかせるブランコ乗りの女性を、見守るように天使が見ていた。・・・
この後の対処を考えながら、これらの断片的なシーンが時折目や心に飛び込んでくるばかりで、結局ストーリーはよく分からないままになってしまった。
『今日こそしっかり観よう、と思っていたのに・・・』
映画館を出た二人は、近くの喫茶店でコーヒーを注文した。
「映画、どうだった?」
一口熱いコーヒーをすすると、光樹が清太に尋ねた。
思わず作り笑いになって、清太は答えた。
「あ・・・。う、うん、きれいな話だった・・・」
「どのシーンが好き?」
「え・・・。あっ、あの・・・」
下を向いて、考え込んでしまう清太。
その様子を見て、頬杖を突き、光樹は溜息を吐(つ)いた。
「・・・ごめん、やっぱり好きじゃないんだね、ああいう映画。アクションとかのほうが良かったかな?」
ギッ、と音を立て、椅子の背に背を持たせかけ、両手を頭の後ろで組んだ。
「あの、さ・・・。実は、全然別のこと考えてて、あんまり集中して観られなかったんだ。僕のほうこそごめん、光樹・・・」
清太はようやく面を上げた。
「何? 部活のこと?」
「うん、そう・・・」
一瞬、本当のこと――今日はホテルに行きたくないこと――を言おうかとも思ったが、どうしても清太は、公共の場でそういうことを口にすることはできなかった。
「部活でさ、僕ずっとレギュラーとは程遠い位置にいるし、いつまでもこんな状態が続くのかなって・・・」
ごまかして言ってみたが、このこと自体はあながち嘘でもなかった。
頭の後ろで組んでいた手を離して、光樹は今度は机の上で組んだ。
「そんなに・・・悩んでるのか?」
清太の言葉を信じたのか、真剣な目になって彼は恋人を見つめた。
「映画なんか、誘うんじゃなかったかな。だったら、ちゃんと君の悩みを聞いてあげて・・・」
「ううん、いいんだ。気分転換したかったから・・・」
「でも・・・」
「あ。ねぇ。僕、なんかお腹空いてきちゃったんだ。何か食べない? 光樹も」
場が暗くなりそうなので、清太はひとまず、食事をすることで雰囲気を変えようと思った。
「って・・・。いいのかい? ほんとに・・・」
「だって、今日せっかく久しぶりに逢えたのに、辛気臭い話なんてやじゃない。後で、電話でも話せることだし・・・。ね、何か食べよう。あ、すみません」
清太は、メニューをもらおうと近くのウェイトレスに向けて、手を挙げた。
二人共、早目の昼食は家で済ませていたが、空腹は光樹も感じていた。それで彼も、清太に合わせることにした。
その後二人は、映画館へ向かう前に行(おこな)っていたショッピングの続きをやった。光樹は冬用に黒いタートルのセーターを買い、清太はあまり持ち合わせがなかったので、高い買い物は控え、茶色の靴下一足だけを買った。
いくつかのデパートを回ったり、ジーンズ・ショップに入ったりして、服やCDなどを見ていったが、専らウィンドウ・ショッピングになった。
そんなふうに品物を選んでいる二人は、ごく普通の会話をし、ごく普通の友人同士に見えた。・・・いや、そう見えるよう、あえて自分たちに強いているような感が、なくもなかったが。
DISH U
6
|