日も落ちると、道を行く男女の恋人たち同様、二人も夜に向けて心が準備しだした。しかし清太は、光樹とは違う理由で動悸が早まった。
 その日彼らは、口付けはおろか、ぴったりと肩を寄せ合ったり腕を組んだりして歩くことすら、まだできずにいた。

 デパートを出て、とりあえずは駅に向かって歩き始めた二人だったが、つと光樹が歩を緩め、道の脇のほうへ少し場所を移すと、小さく囁いてきた。
「・・・ね。今日、どこにしようか。この辺でいい探す? それとも、いつものとこがいい?」
 清太は来るべき時が来たので、立ち止まって硬直した。
「あ・・・の、光樹・・・。ちょっと・・・」
 そう言うと、清太は再び歩き出すことを光樹に促して、建物と建物の間の狭い道を突き進み、真ん中辺りで足を止めた。そこは、駅へ向かう二つの通りを結ぶ横道だった。

「何?」
 光樹が最初に口を開いた。
「光樹、あのさ・・・。今日、実はだめなんだ」
 清太は光樹の目を見ずに言った。
すると光樹は、意味が分からないといった表情で、笑い混じりに聞いた。
「え? なんで? だって、映画館で君は・・・」
「だからあれは・・・、間違いなんだ。誤解なの」
「誤解って? 嫌なのに思わず手に力、込めちゃったとか?」
 光樹はまだ笑って言った。
「そう・・・。昨日さ、練習が特別きつくて、足腰がちょっとガタついちゃって、痛いんだ・・・」

「ほんとに?」
 笑顔を消し、右手に持っていた、セーターの入った紙袋を腕にかけ直して、光樹は清太の腰を抱いた。
「どの辺が?」
 恋人が思わぬ行動に出たので、清太は赤くなって、焦った。
「あ、こ、腰が・・・特に・・・」
「ここら辺?」
 言いつつ、光樹は清太の腰の、背中側に手を触れた。・・・だけでなく、ちょっと押してみた。
「あっ・・・」
 清太は眉を歪めた。
「ほんとに痛いんだね・・・。ごめん、気付かなくて・・・。いいよ、今日はこのまま帰ろう」
「え・・・。いいの・・・?」
「だめって言ったの、君だよ?」
 光樹は体を離した。
「あ・・・ありがと・・・。ごめんね・・・。せっかく二週間ぶりに逢えたのに・・・」
「はは、なんか今日、お互い謝ってばっかりだね、俺たち」
 事なきを得て、清太はほっとした。

 体を見られたくないのもあったが、腰が痛いというのも本当で、理由の一つだった。練習で・・・というのは、もちろん偽りだったが。
 この時ばかりは、光樹をだましていることに、罪悪感が募った。疑っていないような光樹の自然な笑顔が、清太の胸を刺した。

 そこへ、光樹が手を上げてきて、清太のあごを掴んだ。
「でも・・・さ。キスくらいはいいだろ?」
 真顔に変わっていた。
 清太は息を飲んだ。
「うん・・・」
 だが目を閉じ、光樹の肩に手を置いた。
 二人は唇を重ねた。
 久しぶりに恋人同士であることを確かめ合い、軽いキスだけでは嫌だったので、どちらからともなく相手の上下の歯の隙間を割り、舌を差し入れていた。
 少年たちは、表通りの雑踏やざわめきを聞きながら、互いに何度も顔の角度を変えつつ、この日唯一の愛情の交歓に酔い、時の経つのを忘れた。

――2、3分経つと、清太が先に唇を離しかけたが、光樹が清太の頭に両手を回して、引き戻した。
「こ、こう・・・っ」
 しっかりと後頭部を抱えられているので、やめることも叶わず、仕方なく清太は彼に従った。
――それでまた、2、3分経った。幸い、その間、人は一人も彼らのそばを通らなかった。表通りから反対側の通りに抜け出ようと、この横道に入りかけたものの、二人を見て引き返す者は何組かいたが。

「・・・清太」
 長い酩酊がやむと、光樹が低い声で言った。だが、その後の言葉が彼の口から出てこない。あまり長く沈黙が続くので、清太は聞いた。
「何? 光樹・・・」
二人は腕を取り合って、抱き合うまではいかなかったが寄り添っていた。清太は光樹の瞳に映っている自分を見た。
「愛してる・・・」
 ようやく開かれた光樹の口からは、この言葉が漏れた。
「光樹・・・僕も・・・」
 清太は恋人の言葉に応えて、彼の腕に絡めていた両腕を、背中まで伸ばした。光樹も同じようにした。

 光樹の肩の辺りにもたせかけながら目を閉じると清太は、自分の呼吸の音と彼の鼓動を聞いた。雑踏も人声も、耳から追い出した。
「大好き・・・」
 図らずも、昨夜啓二と交わっている時に叫んだのと同じ言葉を、口にしていた。


 家に帰り、眠りに就く前に、清太は光樹の家へ電話をかけて、昼間はぐらかした、部活の悩みについて話した。彼にわざわざそんな話をするのは、浮気を怪しまれないためかもしれなかった。彼に許されるはずのない行いをしながら、その彼に悩み事の相談をするなど、筋違いかもしれない。
 だから、光樹に元気づけの言葉を優しくかけられると、嬉しい半面申し訳なさが募った。

『光樹は100%僕を信じてくれているんだろうか・・・』
 彼の優しさに溢れる穏やかな声を聞きながら、清太は思った。

「だからさ。逢った時に笑顔をあまり見せてくれない君を見るのは辛いんだ。なんでも、俺に言ってくれよ、これからも。相談に乗るから・・・」
「うん。ありがとう、光樹。ごめんね、心配かけて。・・・今日、あれがだめになっちゃたのも・・・」
「いいって、そんなこと。俺は別にそれだけが目的で君と逢ってるわけじゃない。ただ、君といて顔を見たり声を聞いたりしてるだけでも幸せなんだ」
 確かに彼らの交際は、今日のように映画やショッピングだけで終わる日が珍しくもなかった。――啓二との間では、考えられないことだが。

「光樹・・・。じゃ、僕の何が一番好き?」
 野暮なことを・・・とも思ったが、清太は確かめてみたかったのだ。
「心だよ。当たり前だろ?」
「・・・」
 何も答えられなかった。電話の子機を持ったまま、耳から離して、呆然としていた。
「清太? どうした?」
「あ・・・。その、嬉しくて・・・。そこまで言ってもらえると、思わなくて・・・」
 気が付くと、両目から熱いものが溢れ出していた。

「・・・ふっ」
 清太の、しゃくりあげようとするのを抑える様子が、電話を通じて光樹に伝わった。
「清太、泣いてるのか?」
「こ、光樹・・・。だめだ僕、今はちょっと何も話せない。ごめん、切って・・・。いいから、また、電話するから・・・」
 次の約束を決めようと思っていた光樹だが、今日のところは、そんな状況ではないと判断した。
「でも、大丈夫? ・・・ほんとに切っていいのかい?」
「うん、だめだから、今・・・」
 涙声で、清太は言った。
「じゃ・・・。またベルか電話で連絡取ろう。・・・愛してるよ、おやすみ・・・」
「ん・・・。今日は、ありがとう・・・」
 涙声ながらも、やっとこれだけ言って、清太は電話を切った。

 子機を戻し、部屋の明かりを消して、枕にうつ伏せになった。・・・そうしていると、電話を切ったら収まると思っていた涙が、余計に溢れ出してきた。清太はそのまま、声を殺して泣いた。

 彼は”優しさ”について考えていた。
 啓二と二度目に逢ってからの、わずかな間に彼が見せた優しさは、偽りだった。
 光樹のそれは、しかし、本物だったのだ。
 今の電話で、全て分かった。清太はやはり、光樹のほうを強く愛していた。彼が、啓二を愛し始めているのではと思ったのは、体が体を求めていたにすぎないことを、錯覚していたのだ。

 その時々によって豹変する啓二の心など、信じてはならない。これ以上、啓二の体を求めてもならない。体が体を求めているだけなのだから、行き着くところは分かっていた。
 これからも啓二と逢って、ますます動物的な交わりを自分が求めるようになるなど、考えると恐ろしかった。
 自分はあくまでも、若さから啓二の幻術にかかったにすぎないのだ。
 光樹と啓二、どちらを失ったら苦しくなるか、清太に答えは出ていた。

今や、光樹への罪悪感で、胸が引き裂かれそうな気持ちだった。これ以上、どうして彼を裏切ることができよう。
 清太は涙が涸れるにしたがって、ある一つの決心をした。・・・いや、しかけた。

 啓二に別れを告げるとしても、どう切り出せば良いのだろうか。すんなりと別れてくれるとは、到底思えなかった。
 また、なんとか別れられたとしても、啓二とのことを隠したまま、光樹との交際を続けるというのも、納得いかない。
 光樹と自分との、互いの思いの深さは分かったものの、その後は色々と考えてしまって、なかなか寝付けなかった。だがやがて思考にも疲れて、いつの間にか夢の中へ入っていった。


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