「どこ行くの? 図書館?」
夕方、玄関で靴を履く息子の背中を見ながら、母親は言った。
「いや、ちょっと武司と会うだけ」
涼はバスケットシューズの紐を締めながら、後ろを見ずに答えた。
「遊びに行くの?」
「いや、色々話したいから。最近会ってないし」
ここで図書館へ行くと嘘をついても、筆記用具も持たずに出れば怪しまれてしまう。それで涼は、ある程度本当のことを言った。
「そう、行ってらっしゃい。夕食外なら、電話してね」
「うん、行ってくる」
いつもは大学生にもなった自分が出かける時は、そんなに気にかけないのに、今日はやはり沈痛な顔をしていたのだろうかと涼は思いながら、家を出た。
電車に乗り、地下鉄の駅に降り立つと、懐かしい感じがした。清太と出逢ってから、ずっと脚が遠のいていた場所だった。階段を上がり、地上に出ると、懐かしさはいや増した。まだ日が暮れるまでは間があるので、建物のネオンはほとんど灯っておらず、なんのやましさもない、明るい街に思えた。
歩き慣れた道を辿り、その街へと近付いていく時涼は、自分がまるで、卒業した中学や高校を久々に訪れる卒業生のような気がしていた。
武司と待ち合わせた店に着くと、涼はドアの前で一旦脚を止めた。思えば清太と最初に入ったのも、この店だった。自分たちの、昔からの行きつけの店・・・。ひとつ深呼吸してから、ドアを開けた。騒々しい音楽がまず頭に響く。あちらこちらで、煙草の煙が空へ昇る龍のように、立ち上っていた。
「あっ、涼っ、ひっさしぶりー」
と、能天気な声が涼の耳に届いた。武司のものではなかった。駆け寄ってきたのは、ヒロだった。すこぶる明るい顔をしている。短い金髪をきれいにセットしているところを見ると、今日は誰かをナンパしにでも来たらしい。
「ああ、ヒロ」
涼は片手を挙げ、挨拶した。
「清太ちゃんとくっついたんだって? 道理で、最近こっちに来ないと思ったよ」
涼は「は」の形で口を開けたが、声を出せずにいた。何故、ヒロが知っているのかと、あっけにとられたからだ。
「ラブラブなんだろ? どうやってゲットしたの? 聞かせろよ」
「いや、俺は今日、武司と話をしに・・・武司」
ヒロの質問に困惑し、涼は悪友を目で探した。ヒロの後ろから、彼は顔を出した。
「いやな、ヒロから電話があって、話してたら聞かれたから答えただけだ。お前が清太と付き合ってるってだけ。別に言いふらしちゃいねえ」
「そ、そうか・・・」
するとまた、ヒロが二人の間に顔を突っ込んできた。
「ねえねえ、1回振られたのに、よく振り向かせたね。なあ、教えろってば」
「うるさい奴だな。涼は今、それどころじゃねぇんだよ」
武司が涼の肩に触れ、自分のほうに引き寄せようとした。涼は、自分の大切な思い出を簡単にまとめられ、傷付いていた。ヒロは何も知らないのだから、仕方ないのだが・・・。
「えっ、別れたの? 別れそうなの?」
無神経に、更にヒロは高い声で聞く。
「やめろって。お前今日は酒飲むな」
「まだそんな酔ってねえって。フルーツカクテル1杯目だぜ」
なんだ酒のせいもあるのかと、涼は少し心が慰められた。
「いいから、元んとこ戻れ。俺は今日は、涼と話すからな」
武司は騒がしいフロアを避け、ボックス席のある奥を目指して歩き出した。
「ちぇっ。じゃあナンパもしないんだ」
「そういうことだ」
金髪の青年は渋々と元の仲間のところへと戻り、武司は涼の背中を押して、一緒に奥へと進んだ。その手を、涼は温かく感じた。
やっとソファのある席へ落ち着くと、二人共ジンジャーエールを頼んだ。
涼は、気になることをまず武司に聞いた。
「お前、今日・・・、ナンパしに行くことになってたのか? 俺が電話しなかったら・・・」
武司は赤いチェックの半袖シャツの、胸ポケットから煙草の箱とライターを出した。
「いいか?」
相手の質問にはすぐ答えず、武司は小さく聞く。
「ああ」
涼は一旦乗り出した身を、引っ込めた。
「別に、流れでそうなったら、それでもいいかって感じだ」
灰皿を引き寄せ、口にくわえた煙草に火を点けてから手で持ち、武司は涼の目を見ずに言った。
「ヒロが早目がいいって言うから、待ち合わせも夕方早い時間にしたんだがな」
そして、最初のひと吸いをやる。
「今はそうやって・・・、また遊んでるのか?」
一度は同じ相手を好きになったのに、もう清太のことは忘れたのかと、涼は悲しくなった。
「清太はお前にとって、やっぱり遊び相手の一人だったのか?」
武司は溜息を吐くように、煙を吐いた。
「そんなことねぇよ。あいつのことは、好きだったさ。可愛い奴だった」
それは質問に答えていることになるのかと、涼は独りごちた。
武司は続ける。
「遊び相手だとは思ってねえ。ただお前ほど、本気にならなかっただけだ」
涼はそれを聞いて胸が熱くなったが、まだ腑に落ちなかった。
「・・・本気じゃないなら、遊びっていうんじゃないのか?」
武司は眉をしかめ、強く煙を吐く。
「相変わらずガキだな。実際、俺は清太と付き合ってる間、一度も他の奴を抱いてないぜ」
会話は、そこで一度止まってしまった。武司は次から次へとつまみ食いするタイプで、一人にはまることは、涼の記憶によれば数えるほどだった。しかし一人だけと付き合う時、その間、彼は浮気をしない。自分という存在がなければ、あのまま清太とずっと付き合い続けていたかもしれない。彼は相手を愛しすぎない、距離を置くタイプなのだろうか。自分には、そんな真似はできない。自分も、清太に出逢うまではナンパもし、色んな少年を短い間隔で抱いてきた。遊びと言われても仕方ないような時もあったが、今は違うのだ。昔のような気楽な恋愛は、もうできない。
「俺のことより、今はお前のことだろ?」
煙草を持つ右腕の肘をテーブルの上に置き、その上に左手を載せ、武司は前のめりな座り方になった。涼は顔を上げ、また下げた。
「ああ・・・。清太が・・・、彼氏と別れてくれないんだ・・・」
言った後、涼は膝の上で右手を握り締め、奥歯を噛み締めた。
武司が何も言わないので、涼は続ける。ちらと彼の顔を見ると、驚いたような表情はしている。
「俺は、清太の気持ちが分からない。俺を許してくれて、ちゃんと付き合うことになったのに、相変わらず彼氏とも普通に逢ってるんだ。どうしてか、分からない・・・」
涼は「分からない」の部分は、搾り出すように言った。武司は、1本目の煙草を灰皿でもみ消した。2本目に、すぐには手を伸ばさなかった。いつの間にか運ばれていたジンジャーエールを、一口飲んだ。
「それで清太は、なんて言ってるんだ?」
「俺と彼氏と、二人と付き合いたいって・・・」
すると武司は、今度は煙草の煙を混ぜない溜息をついた。
「そりゃ、困った奴だな」
涼がやっと顔を上げて武司を見ると、笑みさえ混ぜ、呆れ顔をしていた。
「お前、清太に何かしたのか? そう言われる前に」
涼は息を飲んだ。喉が渇き、彼もやっと、ジンジャーエールの一口目を飲む。
「何かって・・・。清太を家へ呼んだ時があって・・・、その時、泊まってほしいって言っただけだ」
「それで、泊まってくれたのか?」
涼は首を横に振った。
「拒絶された。あの子が帰るって言って、俺は引き止めたいから・・・引き止めたいから、押し倒した」
青年は苦しい顔で、目を閉じた。
「それで、嫌がったのか」
「ああ」
涼は、歪めた眉を直すことができなかった。
武司は2本目の煙草に、やっと火を点ける。
「それでまた、泣かせてしまったんだ」
あの日のことは、本当は人には言いたくないが、言わなければ解決しないと思い、涼は友人に告白していた。
「・・・やっぱりお前、不器用だな」
友人は煙草を吹かす。店内の音楽は、涼が入ってきた時はヒップホップだったが、今は静かな女性ボーカルのジャズ・バラードに変わっていた。
「そんなの分かってる。自分でも・・・」
青年は泣きたい気分だった。
「あんまりあいつを追い詰めるなよ。あいつはあいつで、苦しんでんじゃねえのか?」
涼は顔を上げる。追い詰められているのは自分だとばかり思っていた。愛すれば逃げられる、と、そう考えていた。自分が、追い詰めている・・・? 清太が、苦しんでいる・・・?
「ちゃんと彼氏がいるのに、お前が追っかけ回すから、二人同時に付き合いたいとか、そんな変なこと言い出すんだろ」
「追っかけ回すなんて・・・。武司、俺たちを応援してくれるんじゃなかったのか?」
武司は煙草の灰を、灰皿に落とす。
「応援してるさ。お前は焦りすぎなんだ。抱くことばっかり考えるな。俺だってもし清太だったら、引いちまうよ」
もっと優しい言葉を望んでいた涼は、今までよりも声を大きくした。
「だって、じゃあ、俺はどうすればいいんだ? 俺だって、苦しくてたまらない」
息が、荒くなっていた。
「愛してる愛してるの一点張りじゃ、だめだってことだよ。もっと、あいつの気持ちを考えろって言ってんだよ。お前は分かってねぇが、あいつはお前に本気だ。本気だから、あいつも二人の間で悩んでんだろ」
武司は、相手の目を強く見つめて言った。涼は、ソファーの背もたれに沈んだ。
「本気・・・?」
「ああ、俺を振るくらいだからな」
武司は笑みを見せた。
「それは冗談だが、愛してるんなら、大事にしてやれ。お前だって、覚悟してんだろ、相手の男と戦うぐらいの」
「・・・してる」
涼は強く感情を込め、答えた。
「だったらとにかく、焦らないことだ」
一人で帰ると涼は言ったが、武司は駅への入口の階段まで、ついてきてくれた。日は、かなり暮れかけている。
「お前、大丈夫か?」
友人は横にいながら、肩をぽんと叩いた。
「大丈夫だよ。今日はほんと・・・ありがとう。話、聞いてくれて・・・」
涼は照れながら言った。
武司は優しく微笑む。
「押してもだめなら引いてみなって言葉もあるけどな」
「それは、冗談か?」
「さあな」
武司と別れ、一人電車に乗った涼は、物思いに耽った。ドア際の手すりを握り、窓に映る自分の顔を見ていた。
『エゴなのか?』
今までは浮かばなかったその言葉が、今初めて自分の中に灯った。
『俺は自分の気持ちばかり、清太に押し付けていたのか?』
そう思うと、後悔の念が募ったが、武司に言われた『あいつは本気だ』という言葉を蘇らせ、心を落ち着かせた。
『大事にするさ、そう決めたんだ』
The Flow Of The Waters
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