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「どうしたの? 食べてないじゃない」
朝食の席で、涼の母親が言った。涼が遅く起きたので、彼女は息子が食べるものを用意してくれた。トーストと、ほうれん草入りのスクランブルエッグ、ヨーグルトなどが涼の前に並んでいた。母親は先に朝食を済ませ、テーブルを挟んだ、涼の前の椅子に座り、紅茶を飲んでいた。息子は、せっかく自分が作ったスクランブルエッグに手を付けず、コーヒーを飲み終わろうとしていた。
「食欲ないの?」
「あ、いや、食べるよ」
涼はコーヒーを少しだけ残し、無理をして胃に卵を入れていった。彼の胃は”受け付けない”と訴えていたが、気にしないようにした。コーヒーも胃には悪いかもしれないが、今日はミルクを多目に入れたので、飲むことができた。
昨夜は清太に言われたことがショックで、動悸がして眠れなかった。明け方に、ようやく頭が考えることに疲れたのか、寝付くことができた。それで、起きるのが遅くなった。
「また遅くまで、レポートを書いてたの? それとも何か、悩みがあるの?」
母親は、前半は大学生の親らしいことを聞いた。夏休みの課題を、息子は夜に片付けることが多かったからだ。しかし後半の質問には、涼はどきりとした。
「うん、レポートだよ」
涼は残ったコーヒーを飲み干しながら、カップで答える顔を隠した。
「難しい課題だから、時間かかってるんだ」
とっさに思いついた嘘を、青年は言ってみた。
「そう。夜遊びするよりはいいけど、あんまり無理しないでね」
彼女は優しく言い、涼はそれ以上自分の心情を勘ぐられることがなかったので、ほっとした。『夜遊び』と言っても、彼女にはまだ自分の本当の傾向を言っていないので、母親は女のことを言っているのだ。
「武司君と、図書館でも行ってきたら? 午前中とかお昼のうちに済ませたほうがいいわよ」
彼女は、最近意識していなかった名前を口にした。武司は、大学の普通の友達の一人として、彼女の頭に入っていた。
「うん、ありがとう。ごちそうさま」
涼は淡々と答えて席を立ち、歯を磨きに洗面所へと向かった。
洗面台の上部についた鏡の前で、彼は自分の顔を覗き込んだ。母親に心配されなければいけないほど、自分は思いつめた顔をしていたのか・・・?
自室に戻ると、ベッドの上に置いた携帯電話が目に入った。階段を昇る時は、武司のことを考えようとしていたが、その途端一気に、また清太のことで心は埋められていった。空間を、煙が充満していくみたいに・・・。
あの後、すぐにもう一度清太のベルを鳴らそうかと考えたが、それで彼が再び電話をかけてくれるという自信が起きず、怖くて鳴らせなかった。何度も、涼は同じ考えを巡らせたが、結局できなかった。電話を握り締めたまま、眠ってしまったのだ。
『何かの間違いだ。何かの間違いだ』
電話を切られたすぐ後も浮かんだその言葉が、また繰り返し胸に上(のぼ)ってきて、清太との会話を打ち消そうとした。
バードピアで笑いかけてくれたことも、映画館へ行った後、ホテルで熱く抱き合ったことも、この部屋で、甘く口付け合ったことも、みんな嘘だったのか。いや、そんなはずはない。彼は、自分を愛してくれているはずだ。彼を抱いた時の彼の瞳は、真実を語っていた。ただ自分は、彼を信じればいいのだと、彼を愛しながら思った。
涼は携帯を手に取ろうとベッドに乗ったが、そのままうつ伏せに倒れ込んだ。枕に、彼の匂いが残っていないかと、微かに嗅いでみた。が、そんなものは残っていなかった。彼を抱きしめるといつも、艶やかな髪からは花の甘い香りがした。きっと、シャンプーの香りなのだろうが、彼自身から放たれる芳香ではないかと、時折錯覚した。彼が、花そのものであるかのように・・・。
涼は携帯を握り締めた。金属の冷たい感触・・・。それはまるで、清太の冷たさが伝わったかのようだった。
あんなに、自分に愛情を向けてくれていたのに。
『別れるってなんだ? 俺が悪いのか・・・?』
涼は自責の念にかられた。やはり、強引に彼の体を求めてしまうところが、消せないからか。
二人と付き合うなんて、何故清太は、そんな器用なことができるのか。彼は、自分が傷付きたくないだけではないのか。
『涼は好き。愛してる・・・』
自分が望んでいた言葉を、こんな形で聞かされても、少しも嬉しくはない。青年は目を固く閉じた。昨日の晩と同じ苦しみが、彼を苛(さいな)んだ。
どうすればいい? 自分は彼を愛することしかできない。しかし彼を愛しすぎれば、すり抜けてしまう。涼は、いつか見た夢を思い出す。あの、林の中で彼を追いかけた夢。どうしても、捕まえることができなかった彼・・・。やはりあれは正夢なのか・・・? 正夢になど、したくないのに。
涼はようやく起き上がり、再び携帯を見た。
武司・・・。彼なら、この答えが分かるだろうか。一時的にでも、彼は清太と付き合っていた。遊びの関係だが・・・。それで自分は苦しめられた。そう、彼は恋敵だったのだ、少し前までは。しかも清太は、自分が武司と寝たことを悲しみ、泣いたのだ。そんな悪友に、今更清太のことで会うなど、許されないのではないか。そう躊躇して、涼は携帯を握ったまま、右手を動かせなかった。
『でも・・・、他に誰が・・・?』
涼は、他の友達の顔を思い浮かべた。大学の友達は、カミングアウトしていないので恋愛の相談などできない。では2丁目で知り合った、同類の友達・・・。しかし彼らは、清太のことを知らない。すると、やはり彼しか脳裡に戻ってこないのだった。
涼は思い切って、武司の携帯の番号を電話帳から呼び出した。この名前と番号を携帯の画面で見るのも、しばらくだったと思いながら。
電話の呼び出し音が5回ほど鳴った後、武司は出てくれた。
「よう、涼か。久しぶりだな」
彼は呼び出しの時、携帯の画面に自分の名前が出たので、すぐ分かったのだろう。
「あ、ああ・・・」
涼は元気なく、答えた。ベッドの上にあぐらをかくような形で座っていたのだが、壁際に移動し、背中をつけた。
「今、何やってた?」
「ああ、家でレポートやってたとこだ。夜はヒロたちと落ち合うことになってるんでな」
「そうか。相変わらず、真面目なんだか不真面目なんだか、分からないな」
武司は少年たちと遊んでいても、大学の勉強はしっかりやるところがあった。
「で、なんだ? 何か用があってかけたんだろ?」
「そう、だけど・・・」
涼は身構えた。
「・・・清太とは、うまくいってるのか?」
こちらの様子を感じ取ったのか、彼は聞いてきた。
「いや、その・・・」
涼は言葉を探した。
「いってないんだな」
だが武司が、先に言ってしまった。この悪友は、自分の僅かな言葉や態度から、なんでも感じ取ってしまうらしい。
「ああ。実はそのことで、相談・・・したかったんだ。お前しか、いなくて・・・」
やっと言葉を吐き出せたことで、涼は幾分か呼吸が楽になった。
「何かあったのか? 清太と・・・。まさかまた、振られたのか?」
心配そうに、彼は言った。
「そうじゃないんだ。武司、直接会って・・・話せないか? 長くなるから、電話じゃ・・・」
「そうか。別に構わねえよ。どこで会う?」
「あ、でも、レポートあるんだろ? 今日は・・・」
「いいって。今のはどうせ、あとちょっとで終わるし。どっか、店入るか?」
「うん。でも、普通の喫茶店とかじゃ話せない」
「じゃ、ちょうど夜ヒロたちと2丁目行くから、そこの店で会うか?」
「ああ、いいよ。何時に?」
「5時・・・いや、5時半でどうだ?」
「分かった。行くよ」
昨夜と違い、涼は安心した気持ちで、電話を切った。