机の上の携帯電話は、黙ったままだった。
図書館の学習室で、夏休みの課題レポートを書きながら、涼は傍らに置いた電話を、ちらちらと何度も見てしまっていた。朝からここへ来て、数時間が過ぎたが、文章で埋まった原稿用紙の数が、なかなか増えない。
左に哲学書、真ん中に原稿用紙、そして右上には携帯電話を置いているのだが、哲学書よりも、電話のほうを見る回数が、時間が経つにつれて多くなっていた。
図書館なので、携帯はマナーモードに設定してある。学習室は、長い木製机が板で一人分ずつのスペースに仕切られていて、今も学生が並んで座り、ペンを走らせたり、ワープロやノートパソコンのキーを叩いたりしている。その筆記音や、キーを叩く無機質な音、紙をめくる乾いた音が、広い部屋に響いている。館内は冷房が効いており、窓は開いていないが、その締め切った窓を通して、蝉の声もやかましく聞こえてくる。
武司に相談してから、涼は自分から清太に連絡することを、あえてしなかった。本当に自分と別れるつもりなら、もう彼からの連絡はないだろう。しかし、そうではない、まだ望みはある、と、青年は期待していた。そんなに簡単に自分を忘れられるわけがない。彼が自分に対して、本気なら・・・。彼から電話がかかってくることに、賭けていた。
だが、実際に鳴らない電話を眺める日々が続くと、辛かった。まさか光樹を選んだのでは、との不安が襲ってくる。たまらなくなって、自分から清太のポケベルを鳴らそうとしたこともあったが、なんとか気持ちを抑え、今に至っていた。
『頼むから、鳴ってくれ・・・』
祈りにも似た気持ちで、涼はまた携帯電話を見やる。と、ブルルル・・・と、バイブレーター機能になっている携帯が、机の上で躍った。ゴトゴトとうるさい音も立てた。一つ置いて右隣の男子高校生らしき眼鏡少年が、じろりとこちらを見た。涼は慌てて携帯を手に取り、立ち上がりながら通話ボタンを押し、耳に押し当てた。
「はい」
「涼、僕・・・」
その声を聞き、心臓が、波打った。
「清太、ちょっと、待って。今図書館なんだ」
青年は通話状態のまま、ノートやカバンも置きっぱなしにして、出入り口のほうへと急いだ。
2階にある学習室の、ガラス扉になっている自動ドアを抜け、人気のない場所を探し、立ち止まった。そこは屋外で、蝉の声の群れが、直接自分を覆ってきた。
「ほんとに、清太なのか?」
気が逸るあまり、とっさに、こんな聞き方をしてしまった。
「僕だよ。涼、どうしたの? ・・・どうして、連絡くれないの?」
彼の声がやっと聞けて嬉しい反面、どうしてもないものだと青年は思った。
「だって、君が・・・」
「僕が、別れるなんて言ったから? だから、本気にしちゃったの?」
「君が、あんな言い方するからだ。一方的に切ったのも、君だし」
言ってから、涼はしまったと思った。喧嘩するつもりなどないのに、仲直りをしなければと思っていたのに、熱くなってしまった。彼を追い詰めてはいけないと、武司にも言われたばかりなのに。
「涼が、認めてくれないからだ、僕の気持ちを・・・。でもあんなの、言葉の絢(あや)だって、分かってくれると思ってた。すぐに連絡くれると思ってた。僕だって、あの後なんであんなこと言ったんだろうって後悔して、謝りたかった。ずっと涼からのベルを待ってたのに、何も言ってこないんだもの。僕も涼に、嫌われたのかと思った」
少年は早口気味に、今まで溜めていたことを吐き出すように、言った。
「そんな・・・、そんなわけないだろう・・・」
頭がくらくらとする。暑さのせいだけではない。自分を散々悩ませていたことも知らず、少年は勝手なことばかり言っている。だったら、もっと早く電話をかけてくれればよかったではないか。”振り回されている”、そんな言葉が浮かび、怒りと悲しみが入り混じった、複雑な感情が込み上げる。こちらの非ばかり責める彼への怒り、臆病だった自分への怒り、連絡してくれなかった彼への寂しさ、自分の気持ちが清太に伝わらない悲しみ・・・、そんなものが渦巻いた。しかし、感情に任せた言葉が上りそうになるのを抑え、涼は言った。
「逢いたい。逢って、ちゃんと話をしよう。逢ってくれるよな?」
「うん・・・」
少年は受話口の向こうで、静かに答えた。
涼は彼と逢う日をどうするか、一瞬迷った。すぐにでも逢いたい。その間に、また光樹に逢われては、たまらない。
「じゃあ、明日・・・は? 都合悪いかな?」
青年は遠慮がちに聞いた。
「明日は、部活の練習・・・。でも、午前中だけだから、午後なら逢えるよ」
「じゃあ・・・、前に君と車で待ち合わせた、駅前の場所でいいかな? また、車で待ってる」
「車・・・? どこかへ、行くの?」
「いや、まだ決めてないけど、ゆっくり話せると思うんだ、だから・・・」
「そう・・・。何時に?」
そうして二人は待ち合わせの時間を決めた。今度は清太は、自分が切るのを待っているようなので、こちらから切った。
携帯電話を切った後、涼は待ち受け画面を見つめ、息を一つついた。いつの間にか、髪の生え際辺りに、汗をかいている。彼はジーンズのポケットからタオル地のハンカチを取り出し、拭いた。
涼はすぐには学習室へ戻らず、周囲を眺めた。1階と2階を繋ぐ階段を、半袖姿の人々が上り下りしている。これから中へ入ろうとしている人は涼しい室内を求めて足早になり、中から出てきた人は中と外との温度差に、眉をしかめる。視線を図書館の外に移すと、並木道が見えた。その木々に、今も喚きたてる蝉たちが、止まっているのだろう。この騒々しいミンミンゼミたちの声が、静かなヒグラシの声に変わる時、自分たちはどうなっているだろうか、と青年はふと思った。その時も、少年は自分の横にいてくれるのだろうか・・・。
The Flow Of The Waters
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