今日は、昨日とは打って変わり、曇り空が広がっていた。
 涼は以前横浜へ行った時と同じように、駅前のロータリーに車を停めて、清太を待っていた。
 午後1時に彼と待ち合わせたが、まだ20分も前に、涼は着いてしまっていた。彼が先に来て、待たせてはいけないと思い、家を早く出たのだ。
 曇りとは言っても、気温は25度まで上がると、天気予報では言っていた。車外は蒸し暑いが、車内はある程度冷えてきたので、涼は来る時はつけていたクーラーを切っていた。エンジンも切り、アイドリングを控えていた。

『俺は負担になってるのか?』
 彼氏と別れろと迫れば彼は嫌だと言い、悩ませてしまう。では清太が光樹と自分との、二人と付き合うことを許すのが、彼への思いやりなのか? 妥協するのが・・・。
『ちくしょう、そんなのは嫌だ』
 涼はハンドルに顔を突っ伏し、眉を歪めて目を閉じた。
 愛し続けると、決意はした。彼が、いつかは自分だけを見つめてくれる日が来ると、信じていた。だが、その日はいつ来る? 出口のない迷路に、いつまで迷い込んでいればいい?
 待ち合わせ場所も形も、以前と同じだが、今日はあの時とは違う。今はちゃんと、彼と付き合っているのだ。恋人として・・・。自分は彼の恋人だ。青年は自分に言い聞かせた。

 今日、清太になんと言おうか、涼はまだ決めかねていた。また彼氏と別れろと追い詰めれば、同じ結果になってしまうだろう。では、いっそ・・・。
 涼は昨日の夜、ふと思いついたことを再び思い出し、血の気が引いた。彼と電話で話し、家へ帰ってから寝る前に考えていた時に浮かんだ、ある種恐ろしいこと・・・。
 自分から、別れを切り出す。
 涼はハンドルから顔を上げ、フロントガラスの向こうに視線を泳がせながら、怖いもの見たさに急かされるように、考えを進めた。
 今日、彼に、別れを告げてみる。それで彼がどう反応するのか、それに賭けるのだ。自分に反発してくれれば、愛してくれていると分かる。だが、もし彼が自分の言葉に従い、首を縦に振ってしまったら、どうなる? それを思うと、恐ろしくてたまらなくなるのだ。彼が光樹を選び、自分は捨てられる。永遠に、逢えなくなる。そんなことが現実になったら、自分の精神が尋常でいられなくなる。

 だから涼は、そんなことはやめようとも思っていた。愛している相手を試すようなことをしていいのか、良心も痛んだ。しかし、このままでは、自分はずっと”浮気相手”のままだ。
 そこでまた、涼ははっとする。傷付きたくないのは清太だけではなく、自分もまた、そうなのだと。これもまた、エゴなのだろうか。3人のうち誰かが傷付かなければ、この関係は終らない。

 そんな考えを巡らせていると、前方に清太らしき人影が近付いてくるのが見えた。近付くにつれ、美貌から、彼だとはっきり分かるようになる。左手首に着けたシルバーの腕時計を見ると、12時50分過ぎだった。涼は少しほっとした。ギアやハンドブレーキを乗り越え、左の助手席ドアを開ける。
「おはよう」
 今日は彼から、挨拶をしてくれたが、清太は口元に手を軽く握った形で当て、『あ、違った』という恥ずかしそうな顔をした。もうお昼だからだ。
「おはよう。来てくれて、良かった」
 青年は笑顔で応える。少年は、今日は水色に黒袖のラグランTシャツに、ネイビージーンズを合わせていた。Tシャツには、イラストと英文字が入っている。何より嬉しかったことは、頭に緑色の帽子を被ってきてくれたことだ。涼が中華街で彼に買ってあげた、あの帽子・・・。腰元にも、シュウマイのマスコットが付いたポケベルをぶら下げている。

 涼はずっとドアを手で押さえていたが、少年は何故かすぐには乗ろうとしない。
「どうしたの? 乗って」
 涼は更にドアを開き、促した。だが少年は、俯いている。
「涼、今日、後ろじゃだめ?」
「え、なんで。隣じゃ嫌なのか?」
「後ろがいいの」
 彼は主張し、後部座席へのドアへと歩を進めた。
「そう、じゃあ・・・」
 仕方なく、涼は前のドアを閉め、後ろのドアのロックを外した。清太はドアを自分で開け、乗り込む。涼の真後ろでなく、助手席の後ろに落ち着いた。

「涼、いつも早いね」
 少年は後ろへ座りたがった理由も言わず、別のことを言った。
「え、ああ・・・。君を待たせたくなくて。君も今日は早く来てくれて、嬉しいよ」
 青年は首を左に曲げたが、角度が足りず少年の顔が直接見えないので、バックミラーから覗き見た。
「今日は、すぐに服が決まったんだ」
 しかし見えたのは横顔だけだった。彼はこちらを見ず、まだ動き出していない車外の景色を見ながら、言っている。窓外には、駅へと向かう人々が歩いているのが見える。
「そう。君はおしゃれだね。いつもいいのを着てる。それに、帽子・・・、被ってきてくれたんだ」
 青年はバックミラー越しに、会話をすることにした。清太はおそらく、自分とあまり目を合わせたくないのだろう。自分が、怒っていると思われているのか。大事な話をするのに、寂しいことだが、今は我慢することにした。

「曇りだから、迷ったんだけど、Tシャツに合うかなと思ったの」
 確かに、Tシャツの文字には、濃い緑色が使われていた。清太は言った後、帽子を取って膝の上で握った。
「今日、雨降るのかな・・・?」
「え、ああ、どうかな」
 今日はテレビでは、降水確率は低いと言っていた。涼は念のため折り畳み傘を2本、後部座席に転がしてあった。それを、清太は見つけたのだ。
「降らないと思うけど、一応持ってきたんだ。君の分も・・・」
 言いながら、涼はやっと車のキーを入れ、エンジンをかけた。
「そうなの。ありがとう・・・」
 少年はバックミラーに向かい、上目使いに視線を送ってきた。涼はそれを、見逃さなかった。

 ロータリーを出て、青いスカイラインは走り出した。
「そういえば涼、今日はどこ行くの?」
「ああ、海に行こうと思って。海岸でも歩きながら、話したいから」
「曇りでも、晴れでも?」
「うん」
 バックミラー越しの会話は続く。
「でも、海なんて海水浴の人が多いんじゃない? 今・・・」
「そうかもしれないけど、どこか静かなところがあると思うんだ」
「そうかな・・・」
 清太は窓外の、動き出した景色を眺める。

 涼はいつ話を切り出そうか、迷っていた。走り出したばかりなのに、暗い話を投げかけるのは、気が進まなかった。今はまだ、ドライブの気分を味わいたかった。そこで彼は、カーステレオをつけた。あらかじめ、ドライブ用の洋楽のコンピレーション・アルバムのCDが入っていて、その曲が流れていく。だが、今日の二人の気持ちにはそぐわない、陽気で軽快なものばかりだった。それでも、涼は音楽を流し続けた。
「昼飯は済ませた?」
 青年は何気ない会話を選んだ。
「うん、家で。練習が終わって帰って、シャワー浴びて、その後食べたよ」
「何食べた?」
「母さんがチャーハンを作ってくれたから、それを」
「ふうん。おいしかった?」
「うん。涼は? お昼終わってるの?」
 子供にするような質問をされて気分を害したのか、少年は口元を歪めていた。
「ああ、俺も済ませてある。夜は、できれば君と・・・と思ってるんだけど、どうかな?」
 すると、清太は顔を伏せる。
「・・・まだ分かんない・・・」

「君って、服は自分で買うの?」
 話題を変え、涼は聞いた。
「前は母さんが買ってきてたけど、もう自分で買うって僕が言って、それからは自分で・・・」
 清太は手元の帽子をいじりながら、答える。
 青年は、彼にも反抗期があったのだと微笑ましく思った。ハンドルを握る両手も、音楽に合わせ軽くなった気分だ。
「買う時も、一人で?」
「一人もあるけど、友達とか、光樹とか・・・」
 清太は、『あ・・・』という顔をし、言葉を止めた。3人のうちの、もう一人の主要人物の名前が、今日初めて出た瞬間だった。

「そう。買い物、好き?」
 涼はあえて光樹のことは言わず、続けた。
「うん・・・。買わないで、見てるだけでも楽しくて好き・・・。涼は?」
「俺も好きかな。今の学校の友達とも行くよ」
「涼も、服とか好きそうだね」
「そうかな?」
 少年は、今日の自分の服装を見ながら言っている。今は背中しか見えないだろう。今日は涼は、紺色のタンクトップに、半袖のシャツを羽織っているだけなのだが、彼に服装を褒められるのは、単純に嬉しかった。確かにファッション雑誌には目を通すし、彼と逢う時は何を着るか迷う。今度、彼と洋服を見に行くのもいいな、と思ったが、それはいつになるのか。少なくとも、今日ではない。
 そもそも話がしたいと言ったのは自分のほうなのに、いつまでもこんな会話をしていていいのだろうか。自分は、逃げているのだろうか。

 ふと少年の首元を見ると、以前見た、羽根型のヘッドが付いた黒いチョーカーではなく、シルバーのチェーンに、小さなメダル型のヘッドが付いたものを着けていた。公園で再会した時に着けていたあの黒いチョーカーは、遠慮したのだろうか。今日のチョーカーは、光樹と一緒に見て選んだのではないか。自分は今日は長方形のドッグタグが付いたネックレスをしているが、メダル型は自分も持っているので、それにすればよかったと、色々と考えが巡った。
「それ・・・、光樹も持ってるのか? そのチョーカー・・・」
 気付くと、青年はこんな質問をしてしまっていた。
「え、違うよ。これは僕だけ・・・。友達と見てて、気に入ったから」
「友達? 本当に?」
 実は光樹とじゃないかと、涼は急に激しい嫉妬にかられた。

「ほんとだよ。光樹と選んだものなんて、今日着けるわけないじゃない」
 バックミラーに、少年は訴えかけた。彼の瞳は、嘘は語っていない。
 青年は感情を静めた。
「そう・・・、ごめん」
 緑色の帽子も、シュウマイのマスコットも、自分の気を和らげるためのただの演出ではないかとさえ思い始めていたが、それは口にしなかった。
「・・・だいたい、今日は話がしたいんでしょう? 服の話じゃなくて・・・」
 そう言われ、涼はウィンカーを出し、タイミングを計って車を路肩に停めた。バックミラーではなく、体も捻って直接少年の顔を見た。
「それなら清太、やっぱり・・・、横に座らないか?」
 少年は、緊張した表情を見せた。
「俺の顔も見ないなんて・・・、フェアじゃない」


The Flow Of The Waters
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