だがやがて、沈黙に耐えられなくなった涼が、CDの続きをかけた。再び、明るい洋楽の曲が流れる。ポップなロックだ。ボーカルの男が、英語の歌詞を元気に歌い上げているが、日本語でないので、歌も楽器の一部として聴くことができ、涼の気持ちは少し楽だった。このまま、ただのドライブ・デートで済めば、曲もずっと楽しく聴けるのだが・・・。横を見ると、少年は景色を見ながら、風に吹かれている。もう泣きそうな顔は、していないだろうか。感情は、治まっただろうか。髪がなびく彼の後頭部を見て、そんなことを青年は思った。自分の側の窓も開けると、左右から風が抜けて、涼しさは増した。

 車は進み、だんだん海に近くなった証拠に、道が混んできた。
「海って、どこの海へ行くの?」
 少年のほうから、やっと口を開いた。顔は正面を向いている。
「ああ、前に君と来た、レストラン近くの海岸・・・」
 ハンドルを握って前方を見つつ、青年は答える。
「それなら、行ってほしい所があるの」
「え? どこへ」
 涼は内心、身構えた。
「K駅の近く。サーフ・ビレッジがあるの」
「サーフ・ビレッジ? どうして、そこへ」
 初めて聞く言葉に、青年は、嫌な予感がした。
「いいから、行って、お願い」
 少年の請う声に、青年は押された。

 車にはカーナビが付いていないので、途中車を停めて涼が地図を見たり、清太が記憶に頼り、口で案内したりした。
「この辺で・・・停めて」
 少年に言われ、涼は駐車場を探して、空いている場所をなんとか見つけ、そこの一隅へ車を停めた。上に荷物が載せられるようになっている車が、多く停まっていた。しかし、浮き輪やゴムボートなどの荷物たちは、おそらく持ち主たちと共に海へと繰り出しているのだ。
 窓を閉め、音楽も止めて、二人は砂利の敷き詰められた駐車場の上に降り立った。涼は海のほうへ向かって少し歩き、少年は帽子を被って、彼の後をついていった。
 海を見ようとしたが、防波堤が間にあって、ここからは見ることができない。先程、車を走らせている時は見えたのだが。

「こっち・・・来て」
 海までの道は清太のほうが知っているので、今度は少年が先に立って歩いた。
 彼について歩く間、涼は、もしや行き着く先に光樹がいるのでは、と不安になった。今日、光樹がここへサーフィンをしに来ていて、清太は二人を鉢合わせる気ではないのか、と。しかし、海へ行くと言い出したのはこちらなのだから、そうではないと思いたい。
 歩いていると、若い女の子向けのブティックや、サーフ・ショップが目に入った。行き過ぎる、地元民らしき若い男女たちも、みな日に焼けていて、肌の露出が多く、いかにも湘南の町、という感じだ。彼らの足元も、サンダル履きが多い。自分の住んでいる東京とは、随分雰囲気が違う。涼は自分が場違いな場所にいるような、違和感を覚えた。いくらか色の白いのは、たぶん違う方面から来た海水浴客たちで、彼らもまた、海へと向かっていた。

 向こうから、若い男二人組が歩いてきて、二人とすれ違った。若者二人は小脇に、それぞれ使い古しているらしいサーフボードを抱えていた。サーファーをこうも間近に見るのは、初めてではないだろうか、と青年は自分に聞いた。若者たちは、一人は短髪で一人は長めだが、両方茶髪だった。身なりも、Tシャツやタンクトップに短パンで、青年の目には不良のように映った。
「君、ここ・・・、何度も来たことあるの?」
 少年の少し後ろを歩いていたが、追いすがって横へ来て、青年は聞いた。
「うん、光樹に連れられて・・・」
 涼は一層、緊張した。やはり、この先にはもう一人の男が・・・。
「清太、まさか今日は、光樹が・・・」
 思い切って、青年は切り出した。
 すると、少年は肩をすくめてくすっ、と笑ってみせた。
「いないよ。今日は、夏休みのレポートを書くんだって。家か図書館にいるよ」
「あ、そうなのか・・・」
 青年は胸をなでおろした。

 二人は防波堤の上へと上り、やっと海を見た。この間は黒い夜の海、そして今日は、灰色の曇りの海。輝く青い海を見たのは、横浜の港にいた時だけだ。浜辺には、水着姿の海水浴客がごった返している。あそこへ、普通の格好をした自分たちが身を投じるのは、青年には抵抗があった。
「しばらくここ・・・歩く?」
 そんなこちらの気持ちを汲み取ったのか、少年は言った。
「ああ。下、歩くスペースもあんまりないみたいだ」
 上がったところから少し歩くと、浜から海に向かって、木の柵らしきものが点々と張ってあって、なんだか分けられている場所があった。よく見ると左側が遊泳地区、そして右側が、サーフィンをするゾーンらしかった。

「あれが、サーフ・ビレッジ」
 少年が指を差して、言った。二人共、立ち止まっていた。
「そう。あそこが・・・、いつも光樹がサーフィンする所か?」
「うん。他にも、色々・・・県内とか県外とか行くらしいけど、ここが一番多いんだって」
 少年は言いながら、あの水色の壁のホテルで、サーフィンを始めた時のことを話す光樹を、思い出していた。それを、彼に寄り添って聞いていた、自分。切なくなるほどの、甘い時間だった。
「光樹って、さっきすれ違った奴らみたいな感じか? 写真でしか、見たことないけど」
 写真では爽やかに写っていたけれど、本当の姿は分からない、青年はそう思っていた。
 甘い記憶を破られる、軽蔑するような青年の口調だったので、少年は傷付いた。

「違う。涼、さっきの人たち見て、不良みたいとでも、思ったの? 見た目で判断しないで。ほんとのサーファーって、真面目なんだから。海岸の掃除なんかも、やってるんだよ。クリーン活動とかいって。光樹も、いつもやってる。海が、ほんとに好きだから」
 清太は懸命に恋人を庇(かば)った。
「涼、サーファーイコール不良、って思ってたんだ」
 足元のコンクリートに向かって俯いて、吐くように言った。
 機嫌を損ねたらしい少年を見て、青年は焦った。
「だって、ごめん、俺、よく知らないから・・・。そういう友達もいないし・・・」
 すると、清太は手を後ろで組んで、涼のほうを振り返った。
「だったら、知って。光樹のこと」
 それは、強い意志を持った瞳だった。

 二人は防波堤の階段状になった斜面に座り、サーフ・ビレッジで波を滑ってゆくサーファーたちを眺めた。
「光樹と最初に出逢ったのは、ここじゃないけど、涼に一度見てほしかったの。楽しそうでしょ、みんな・・・」
 海風に吹かれ、美しい横顔を見せながら、少年は言った。
「ああ・・・」
 10〜30代くらいまでの男女が、波を捉えてはボードの上に立ち上がり、歓声を上げていた。もう少し近くで見れば、皆子供のような表情をしているのが分かるかもしれない。
「サーファーってね、雨とか荒れた天気の時でも、構わず海に行っちゃうんだって。低気圧のほうがいい波が来るからって、いつも天気予報や天気図を気にしたり・・・」
「忙しいんだな。光樹も、天気図が読めるのか?」
 半ば冗談交じりで、涼は聞いた。
「うん。あと、電話で波情報を細かくチェックしたり・・・。もう、海が命って感じ」
 少年は笑顔になった。

「それで君は、海で光樹と出逢ったのか? 君、サーフィンはやらないんだろう?」
「うん、だから、海じゃないよ。彼とは、街で・・・、ゲームセンターで出逢ったの」
 少年は膝を抱えた。
「その日のうちに、僕は彼に抱かれた。初めは騙されるみたいにしてだけど、全然嫌じゃなかった。いっぺんで、彼に惹かれたの」
「騙されるって・・・、なんで君は、抵抗しなかったんだ?」
 初めて聞く二人の馴れ初めに、涼は湧き上がる嫉妬心を隠せなかった。
「何か悪い方法を使われたんだろう? 俺には全然分からない」
「眠らされたの。でも、目覚めた時、彼を怒る気持ちにはならなかった。・・・一目惚れだったのかもしれない」

 眠らせるなんて、やっぱり不良じゃないのか、と青年は思った。それよりも、自分に対しては起こらなかった一目惚れというものが、光樹に対してはあったのかと思うと、そちらのほうが胸をかきむしられた。
「それから僕たちは、付き合うようになった。その時僕・・・今はまだ話せないけど、凄く辛いことがあって・・・。彼の笑顔が、救いだった。彼がいたから生きられたんだ」
「辛いこと・・・? どんな・・・?」
 彼に嫌な過去があるなど、聞いたことがなかったので、涼は多少驚いた。光樹がいたから生きられた、それほどのこととは・・・? だが少年は、ただ首を横に振って、不可を表した。

「どうしても、今は話せない?」
 青年は、少年の表情をまじまじと見ようとしたが、彼はこちらは向かない。膝を抱える両手に、力を込めるだけだ。
「うん・・・」
 少年の指先が、その時震えたように、感じた。そんなに、話したくないのか。そんなに辛いことが、彼の身の上に起こったのか。学校でか、家庭でか。いじめ、彼の恋愛上のこと、あるいは誰か親しい人の死・・・、などと、考えを巡らせた。しかし彼が話してくれるまでは、こちらから聞いてはいけないような気がした。

 すると、はあ、はあ、と、荒い息遣いが聞こえた。清太のものだった。帽子の下で、必死で呼吸を整えようとしていた。
「清太、どうしたんだ? いい。言いたくないのなら、いいんだ。ごめん。思い出したくないんだろう?」
 涼は驚いて清太の肩を抱き、背中をさすった。こんな彼を見たのも、初めてだった。自分の心臓がどきどきしているのが、分かる。
「おかしいな・・・。もう忘れたはずなのに・・・」
 青年に支えられながら、なんとか息を取り戻した彼は、掠れた声を出した。
 ”そのこと”は、思い出す度に彼をこんな風にしてしまうのか。そんな時に出逢った光樹は、清太にとって大きな存在であることは、確かなのだろう。
「涼、もう、大丈夫だから・・・。心配させてごめんね」
「あ、ああ」
 少年に言われ、青年は彼から離れた。今度は、はっきりとこちらの目を見てくれた。


The Flow Of The Waters
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