いつの間にか、日が暮れかけていた。壁かけ時計を見ると、6時半だ。
隣の少年は、複式呼吸をしながら自分に背中を向けている。背骨や肩甲骨のラインもまた、ギリシャ彫刻のように整然としていた。体には、まだ汗が浮いている。
「清太」
「何・・・?」
呼びかけると、彼は応えた。眠ってはいないらしい。涼は彼の肩をそっと掴み、こちらを向かせた。彼の頭部の下に自分の左腕を滑り込ませる。すると清太は微笑む。今度は少年の顔に戻っている。そして目を閉じ、胸に顔を埋(うず)めてきた。彼の吐息が薄い胸板にかかる。
――自分は本当に愛されているのだろうか。
彼はこうやって、自分が寝られる居心地のよい腕枕を求めているだけなのではないか。そうでなくて、何故自分を選ばない。自分だけのものになってくれない?
自分は彼の”意志のなさ”に惹かれてしまっているのかもしれない。その落とし穴に入ってしまったら、二度と抜けられなくなる。彼はただ、愛されたいのだ。こんな考え方はしたくはない。だが彼が自分か光樹か、どちらかに決めてくれない限りは、どうしても考えてしまう。
彼は今まで何人の男と付き合ってきたのだろう。寝てきたのだろう。自分は何人目なのだろうか。少なくとも、今の彼――光樹が初めてではないような気がする。あの4人でのホテルでのできごとが、それを物語る・・・。
「清太」
「何、涼?」
再び目を開け、清太は狭い距離で上目遣いをしてみせた。と、窓のほうに目をやる。
「やだ、カーテン開きっ放し。電気点けてないから、よかったけど・・・。もうこんな時間なんだね。・・・帰らなきゃ・・・」
清太は涼の腕と胸から離れて起き上がった。窓には白いレースカーテンのみがかかっていて、外の闇が顔を覗かせていた。両脇には厚手のカーテンが、閉められるのを待って存在していた。
ベッドから降りようとした清太の腕を、涼が掴んだ。清太は振り返る。
「だから何なの、涼。・・・まだやるの?」
困ったような笑顔を見せ、清太は言う。
俗っぽい台詞を吐いた少年に心を傷めながら彼の腕を掴んだまま、涼は相手を見上げる。
「今日は帰さない。・・・泊まってほしい」
すると少年は予想外といった表情をした。驚きに、口を開いて息を吸う。
「だ、だめ、そんな・・・。今日は親にも、夜までには帰るって言ってきちゃったんだから」
「そんなことはいいんだ。君、本当に・・・俺を好きでいてくれてるのか?」
これにも彼は、同じ表情をする。
「好きだよ。当たり前じゃない。何言ってるの?」
降りようとしていた体も、涼のほうに向けた。膝の上に両手を突く。
「俺が好きなら、できるはずだ。泊まってくれ。君と一晩、愛し合いたいんだ」
清太は困惑した顔を崩さない。涼から目を逸らし、その辺に泳がせる。
「だって・・・涼の家族だってもうすぐ、帰ってきちゃうんでしょ? 無理だよ、そんなの・・・」
「違う。今日は二人きりなんだ。親は今、旅行でいないから・・・。明日の夜まで帰ってこない」
涼の両親は今、温泉街への旅行に出ていた。父親のほうが夏休みの有休を取って・・・。清太を部屋に呼べるこんな機会を、涼はずっと心待ちにしていた。
「でも・・・だって・・・」
清太はなんとか断る理由を考えているようだった。
「そんなこと急に言われても、困っちゃうよ。心の準備ができてないし、僕だって親と同居なんだから、怪しまれちゃう」
「じゃあ彼氏とは・・・光樹とも、泊まったことがないのか?」
そこで少年は、唇をぎゅっと結んだ。
「それは・・・」
「・・・あるんだな?」
清太はそれには答えず、涼の手を振り解いて裸のままベッドを降りた。
「とにかく、今日はだめ。帰らせて」
かがんで下に落ちている下着を、手に取ろうとした。
「なんでだ? 行くな。だいたい、君はなんで俺だけを選んでくれないんだ? 光樹と、別れてくれないんだ。俺は君の、恋人じゃないのか・・・? それとも俺は、君の通過点の一つにすぎないのか?」
起き上がり感情を高ぶらせて、涼は言葉を迸らせた。心の奥に隠しておくつもりだったその感情を、曝け出してしまった。
清太は手に何も取らず、かがんでいた姿勢を戻した。
「違う。涼のこと好きだよ。でも今は、今はまだ選べないんだ。選べない・・・」
少年は泣き顔になった。
「どうして・・・。そんなに、あの男がいいのか。俺は魅力がないのか?」
「涼・・・」
「何度でも言う。俺は君がいないと生きていけない。俺のそばにだけ、いてほしい。俺だけのものになってほしい。愛してるんだ」
どうしてこうなる? いつも、苦しい恋ばかりしている? もう嫌だ。悩んで、苦しんでばかりの恋愛など・・・。
「清太、好きだ・・・」
次の瞬間には激しく彼を抱きすくめ、そのままベッドへと押し倒していた。
「やっ、嫌だ、涼・・・っ」
両手首を掴まれたまま首筋に唇を押し当てられ、清太は脚をばたつかせて抵抗した。
「愛してるんだ。俺には君だけなんだ。頼む、明日の朝までいてくれ・・・」
力で涼は、少年を抱き伏せた。胸にも強く口付ける。
「嫌だ、こんなの嫌・・・!!」
今までに聞いたことがないような高い声を、天井へ向かって少年は上げた。――涼ははっとした。馬乗りになったまま彼の顔を見ると、瞳は潤み頬を濡らすものがあった。それは、恐怖を感じている者の目だった。呼吸は荒い。
「ごめん・・・」
涼がやっと彼の上からどくと、清太はゆっくりと起き上がった。ベッドの上に座ったまま、互いに相手の顔を見られなかった。しばらく、部屋に沈黙が続く。
「・・・僕たちまだ、ちゃんと付き合い始めてから間もないんだもの・・・。選ばなくちゃいけないのは分かってる。でも、どうしても、今はそれができないんだ・・・。分かってよ・・・。待ってほしいんだ・・・」
胸に握った右手を当て、清太はまだひくつきながらゆっくりと言った。
涼はようやく顔を上げる。
「待つって・・・。待てば、君は俺のところに来てくれるのか・・・?」
清太は即答できず、黙った。だがそれをこそ聞きたいのだ。
「・・・」
「清太」
清太は眉をきゅっと寄せ、小さく肩を上げた。
「まだ分からない。でもとにかく、待ってほしいの」
静かな声が、他に物音のない部屋に響く。
「・・・帰る」
床に脚をつけ、清太は服を身に着け始めた。それを、涼はただ眺めるしかできなかった。
乾いてきた汗のせいで、肌に寒さを感じた。
The Flow Of The Waters
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