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まるで海の中を泳いでいるような錯覚に陥る。エスカレーターを昇る人々の肌や服は、青く染まっている。
幸いにもサッカー部の練習がない今日、清太は朝から光樹と待ち合わせて、水族館へと赴いた。横浜にある「八景島シーパラダイス」だ。ここで夕方まで遊び、夜からは中華街で食事をすることになっていた。
横浜から電車を乗り継ぎ、金沢シーサイドラインの八景島駅で降りる。そこから長い橋を歩いてゆくと、島に辿り着く。島全体に水族館や遊園地が並ぶ、海のテーマパークだ。
二人はまずピラミッド型をした水族館、「アクアミュージアム」へと入った。全長20メートルのエスカレーターで1階から3階まで上がりながら、頭上に広がる「アクアチューブ」の中を今進んでいる。アクアチューブは全面ガラス張りの、トンネル型をした大水槽で、この中を様々な種類の魚たちが泳ぐ。その様は圧巻だった。下から、上を泳ぐ魚の腹が見える。アジやマグロ、タイの他、名前を知らないような大小の魚が人間たちの頭上を悠々と滑ってゆく。
「すごいね」
清太はエスカレーターに乗って首を真上や左右に振り向けながら、横の光樹に言った。清太の首には、いつか彼からもらったイルカのシルバーのチョーカーが着けられていた。腰に提げたポケベルのそのキーチェーンには、シュウマイのマスコットはついていない。
「一体どうやって造ったんだろうね」
清太は青く染まった光樹の横顔を見た。光樹は振り向いて微笑む。
「そりゃ、水槽を造って、水を張って、魚を入れたんだろうね」
単純なことなのに、こんな巨大で大掛かりなものを見せられた初めは、思いつかないことだった。それで清太は照れ笑いをした。
「あ、そっか。でも、よく水が漏れないなあ。こんなに変わった形してるのに」
エスカレーターは、客へのサービスか、ゆっくりと進む。他の客たちも、それぞれに歓声を上げたり感想を述べたりしている。水槽の天井から採り入れた光で、魚たちの体や背びれ、尾びれなどが銀色にきらきらと輝いていた。魚に当たらない分の光線が何本も、青い水の中を一直線に水底へ向かって差し込んでいる様も、オーロラのようで美しかった。水中のオーロラだ。
やがてエスカレーターは3階へと着いた。あとはその他の水槽を見ていった。海や川の魚が、6つのゾーンに分けて展示されていた。ホッキョクグマやラッコもいる。クマは水から上がり、人工の岩の上で休み、ラッコは水面にぷかぷかと浮いて和んでいた。アクアチューブも圧巻だったが、8メートルの深さを持つというパノラマ水槽もまた迫力だった。
初めはガラス面近くで魚たちを見ていたが、清太は水槽の大きさを確かめてみたいと思い、離れてみた。
「やっぱ大きいなあ。見上げちゃう。すごいよ、光樹も来てみて」
清太の呼びかけに、まだ水槽のそばにいた光樹は振り返った。その表情はいつにも増して、穏やかだった。彼も海の生き物たちに癒されているのだろう。その時清太はふと、ここは光樹の一部のようなものだ、と思った。魚たちが光樹のペットのようだとさえ一瞬空想した。彼は今日は、白いタンクトップに淡いグリーンの半袖シャツを身に着け、ネイビーのジーンズを穿いている。白やグリーンが水槽の青い水に照らされ、これも青く染まっているのを見ると、一層その思いは深くなった。海と光樹とは切り離せないもの。海を見る度清太は、二人が出逢った頃を思い出すのだった。
アクアミュージアムを見終えると、今度はその中にある「アクアスタジアム」へ向かった。イルカやアシカ、トドなどのショーを見ることができる。
真ん中辺りの席に着くと、しばらくしてシロイルカのショーが始まった。司会の若い女性がイルカたちと調教師たちを紹介し、イルカは輪くぐりやジャンプなどの演技を披露した。おでこを振りながら歌う姿さえ見せ、観客たちは笑って拍手喝采を浴びせた。二人も拍手をする。
「可愛いね」
清太は子供のようにはしゃいで拍手をしながら、光樹に同意を求めた。光樹も笑顔で頷く。歌が終わって拍手が止むと、周りの者たちがイルカに夢中になっているのを見計らい、清太はそっと光樹の肩に寄り添った。それに気付き、彼も身を寄せてくれた。
「来て良かったね」
優しく耳元で囁く光樹の声に、清太は頷いた。手を繋ぎたいと思った。今日はお土産を買って入れていこうと思い、清太のほうだけ水色をした、軽いリュックを持ってきていた。それが今、膝の上にある。位置をそっと脇にずらし、その下で右手を二人の間に置いた。すると光樹の左手もリュックの下に伸び、二人は固く握り合った。
「どれか乗る? それとも、お昼にしようか」
明るい陽光の下(もと)で、光樹は言った。アクアミュージアムの外には、様々な遊具が散りばめられている。タコをイメージした「オクトパス」や、地上107メートルからの垂直落下をする「ブルーフォール」、メリーゴーラウンド、チューブ型の乗り物で狭い水路の激流を下る「アクアライド」、船体がレールの上を滑走し、水に飛び込む「ウォーターシュート」。ここで最も目玉になっているのは、海に向かって造られたジェットコースター、「サーフコースター」だ。光樹はガイドマップを見ている。
「あれ、すごいね。ほんとに海に突き出てるんだ」
清太は彼方に見えるサーフコースターの白いレールを指差して言った。
「乗る?」
「えー、でも、怖い」
「でも好きなんだろ、ああいうの」
光樹は悪戯っぽい笑顔になった。
「うん・・・。でもとりあえず、お昼にしようよ」
島の中は始終四方から海風が吹きすさび、人々の髪を乱していた。空を見上げると、雲はあるが全体的には青空だった。レストランが入った建物に向かい、その下についた大階段の上にはカフェテラスがあったが、風があっても日差しは強く暑いので、中で食べることにした。
二人は軽食の店に入り、窓際に落ち着くとサンドイッチのセットを頼んだ。今日は平日なので、それほど混んではいない。
「宿題はやってる?」
皿が届くのを待つ間、光樹は学校のことから話題にしてきた。
「うん、いっぱい出た。でも部活が大変だから、まだちょっとしか手をつけてないんだ」
「夏休みって長いからさ、『まだまだある』って安心してつい遊んじゃって、終わり頃になって慌ててやり出したりしない?」
清太はグレープジュースを飲んでいたストローから唇を離し、笑った。
「あるある。そうなんだよね。中学の時とかそうだった。大学も、宿題ってあるの?」
聞いてから、そういえば涼も、夏休みにレポート課題が出るみたいなことを言っていたな、と思い出した。
「うん、レポートがね、たっぷりと。大学って、嫌になるほどやたらとレポート書かされるんだ。夏休みも例外じゃなくてさ、海行かない時は、ひたすら図書館通い」
「ふうん」
涼もそうなのだろうか、と清太は思った。
光樹にはもちろん、涼や武司のことは、何も言っていない。彼には、隠しおおせているだろうか。自分が行きずりの中年男と寝たことも、武司たち3人とホテルで一度に関係を結んだことも、武司と付き合ったことも、そして今、涼と付き合い始めたことも。
今思えば、自分の恋人がこれだけ多くの罪を繰り返していて、気付かないほうが不自然ではないか。しかし光樹は、今日もいつもと変わらない優しい笑顔を見せている。本当に、何も知らないのだろうか。それとも、気付いていて彼はこんな態度を・・・。それを思うと、怖かった。いつか彼から言ってくるのではないか、また、彼が見せかけの優しさを見せているのではないか、という二つの怖さを清太は常に感じていた。
いっそのこと、自分から言ってしまったほうが楽なのではないか。それとも彼は、もし演技でないならばだが、何も知らないままでいたほうが幸せなのだろうか。彼と自分との幸せを、守るべきなのだろうか。
涼は自分だけ見てほしいと言った。光樹はどうだろうか。新しい恋人ができてしまった自分に対し、選べと言うだろうか。怒るだろうか。啓二の時のように・・・。
あの時に、彼を――光樹だけを愛すると、一度は決めたはずなのに、気が付けばその後4人の男と寝ている。それも一度や二度ではない。武司までは、体だけの関係と割り切ってはいた。そうやって、罪の意識を心の奥深くへと押し込めてきた。だが今自分は、涼を確かに愛し始めている。そう、光樹以外の男を・・・。『今度こそ許されない』、それが清太の確信だった。こうして自分の行いについて考え出すと、息苦しくさえなるのだった。罪をはっきりと感じているからだ。”浮気”ではなく、”本気”を覚えてしまったからだ。
皿が来て食事する間、清太は心が晴れなかった。涼のことを思い始めてから・・・。
『泊まってほしい』と請う彼を、自分は拒んだ。何故か・・・?
彼を、涼を、愛しすぎてしまうのが怖いから。
どうして彼は分かってくれないのだろう、自分の気持ちを。彼に押し倒され抱きすくめられた時、乱暴になった彼が悲しくて、叫んでしまった。このまま犯されるのではという恐怖が湧き上がってしまった。彼にはそんなことは、してほしくなかった。
涼は清太にとって、何もかも初めてのタイプだった。あんなにも純粋で一途な男は、かつて知らない。どうして、自分の前に現れたのだろう。愛している。けれど、愛しすぎてしまうのは怖い。それは光樹への遠慮と、罪の意識からなのだろうか。
「どうしたの? おいしくない?」
光樹に尋ねられ、自分が無言で食べ続けていたことに気付いた。
「ううん、おいしいよ。この卵サンドも。宿題のこと考えてたんだ」
それから、二人の他愛ない会話は再開した。
The Flow Of The Waters
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