食事の後、腹ごなしに街を歩くことにした。どの店も、まだ煌々(こうこう)と灯りを点けて道や人々を照らし、蒸し物や天津甘栗を売る店員の声が、あちこちから元気よくこだましている。
 あのパンダはまだあるだろうか、と思って、清太は先に立ってその店を探した。見覚えのある店先はすぐに見つかり、中に入った。ぬいぐるみ売り場へ行くと、あのパンダたちはまだあった。この間来た時と、品揃えはそう変わっていないようだった。
「ほら、やっぱり好きなんじゃない」
 光樹が笑って後から追いついた。知らず、小走りでここへ来てしまったのか。
「パンダかあ。中華街らしいよね。いいよ、ゆっくり見て」
「うん・・・」

 光樹の目を気にしつつも、清太はあの首振りパンダの前に立って、じっと見つめた。すぐに手に取ろうとしたが、隣の別の種類をまず手に取り、それの手触りを一応確かめてから、やっと首振りの子に手を伸ばし、一つ持った。彼は横でパンダのパペットを取り、右手にはめて見せてきた。
「それ?」
 彼は笑顔で、パンダが聞いているように動かしてみせた。
「うん」
「じゃあ、レジに行こう」
 パペットを外し、元の場所へ置いて、光樹は先に立った。
「あ、あの」
「ん?」
 彼は振り返った。もう、財布を出そうとしている。
「自分で、買うから・・・。さっきも、色々買ってもらっちゃったし」
「そう? 出すよ」
「いいの」
 清太はリュックの肩紐を外し、中から自分の財布を取り出した。レジに着き、代金を払う。パンダは、赤白模様の紙袋に入れてもらった。それを、財布と一緒にリュックに収める。その間、清太は鼓動が速まっているのを感じた。光樹は、ふうん・・・という感じで見ている。こういうやり取りはたまにあるので、今もそれの一つなのだと、彼が思っているといいと、清太は願った。

 念願の人形を手に入れ、その温かみを背中に感じながら、清太は街を光樹と歩いた。涼との思い出があるものを、もう一人の彼に買ってもらうのは、嫌だった。これでやっと、ぬいぐるみに関してはおあいこになった、と思った。
 光樹は食品のお土産屋で中国茶を、民族雑貨の店で革と石を使ったブレスレットを買った。他にも、色んな店に入って、ひやかした。夏なので、女性用の色鮮やかな半袖チャイナドレスやキャミソールなども並んでいて、涼しげに映った。

 ある程度歩き回り、二人は小腹が空いてきた。
「そろそろお腹空いたね。肉まんでも買おうか」
 言って、光樹は蒸し物屋の店先で売っている何種類かの中から、豚角煮まんを選び、清太はあんが入った桃まんにした。今度は光樹がお金を払った。
「あっつい!」
 底が三角になった白い袋に入った豚まんを、光樹は両手で軽くお手玉した。
「じゃあ、こうやって紙のはじを持てば?」
 清太は袋の上方を持ち、両手でぶら下げるようにしてみせた。
「そうだね。中もまだ熱いだろうな。公園で食べようか」
「山下公園? うん、ちょっと疲れた」


 中華街を過ぎ、二人は山下公園へと辿り着いた。ライトアップされた氷川丸の船上では、何かのパーティーが催されていた。涼とは見なかった、夜の氷川丸・・・。道路を渡った後方のマリンタワーもまた、ライトアップによって夜空に浮かび上がっている。あの、鳥たちの楽園があるタワー。清太は胸が切なく、熱くなった。
「空いてるとこ・・・あった。あそこへ座ろう」
 光樹は座れるベンチを見つけて、そこへ向かった。
 清太は光樹の右隣に座り、リュックは右脇へ置いた。光樹の紙袋は、彼の左に置かれている。二人して、同時に豚まんと桃まんをほおばった。
「ああ、ちょうど食べられるや」
 それでもハフハフしながら、光樹は清太を見た。清太は彼と目が合い、微笑んだ。
 この時だけは、心が和み、悩みを一時忘れることができた。彼とのこんなひと時に、幸せを感じた。

「中華街ってさ、いつ行ってもあんまり品揃えが変わんないんだよな。お土産屋。そこがまた、いいんだけど。女の人用の服は、さすがに違うけど」
「ふうん、そうなんだ」
   だから、首振りパンダも無事だったのか。中華街のそんな習慣を、清太はありがたく思った。
 二人とも食べ終えると、夜景を眺めた。遠くの船の灯りが、夏の湿った大気を通してまたたく。空を見上げると、星々もまた、またたいている。都会なので、星の数は多くはないが。

「きれいだね」
 光樹は囁く。
「うん。夜の横浜も、いいね」
 周りは男女のカップルが多いが、暗闇が自分たちを隠し、目立たなくしてくれる。夜景の美しさとともに、そのことにも清太は安心感を覚えた。
 あの日もこうして、涼と二人肩を並べてベンチに座っていた。その温かさと今の温かさは、違うものか?

「そうだ、喉渇かない? 俺、なんか買ってくるよ。何飲む?」
 つと、光樹は立ち上がった。
「え・・・と、じゃあ、お茶でいいよ」
「お茶ね。待ってて」
 光樹は売店へ向かって走っていった。
 一人にされ、清太は深いため息をついた。そういえば、今日はずっと、緊張することのほうが多かったのではないか。ずっと、光樹と涼、二人の男のことを比べて考えていたから・・・。彼を裏切っている、その罪悪感を感じていたから・・・。
『帰りたい・・・』
 そんな言葉が、ふと心に浮かんできてしまった。それが信じられなくて、清太は何かの間違いだと思おうとした。本命の彼と逢っているのに帰りたいだなんて、ありえない。しかし、こうやって一人になる瞬間を待っていたのは確かだ。胸が、苦しいから。これ以上二人を比べ続けるのは、辛すぎる。

「はい、冷たいお茶」
 俯いていると、目の前に緑色をした缶が目に入った。見上げると、もう片方の手に同じ缶を持った光樹が立っていた。
「疲れた? 今日はたくさん遊んだからね」
 彼はまた横に座った。
 お茶を飲みながら、二人は中華街や、昼間の八景島のことなどを、また語った。彼の明るい声も笑顔も、やはり好きだと清太は改めて思った。
 お茶も飲み終えて、そばのゴミ箱へ捨てると、少し沈黙ができた。
「もっと、おいで」
 彼は腕を伸ばし、肩を抱き寄せてきた。清太はどきりとした。彼氏なのだから抱き寄せられるのは当たり前なのに、初めてのことのように身を竦めてしまった。

 彼に甘えるのが怖い。甘える資格があるのか、分からない。
 彼に優しくされればされるほど、苦しい。
 光樹と涼、二人を同時に愛するのは、苦しい。涼は、自分だけを選んでほしいと言った。
 では、光樹と別れるか・・・? それだけはできない。彼との間の、数え切れないほどの思い出。それらを捨てることなど、忘れることなど、できない。自分は彼がいなければ生きられないのだから。彼と別れることを考えると、耐えられない。 


The Flow Of The Waters