海の上にも風が渡り、さざ波を作っている。その度に、散りばめられた光も動いた。
 恋人――光樹と見た海は、いつも海岸だった。今、関係の微妙な男と見ているのは、港。その青色に違いがあるような気がした。相手への気持ちが異なるものだからか・・・? 彼以外の男と、彼が生まれ育った街を歩くことになるとは・・・。清太は複雑な思いに駆られた。
 彼――涼がもし不実だったら、こっぴどく振るつもりだった。だが、そうではなかった。彼が一度働いた不実は、すでに許した。
 彼を受け入れることに抵抗を感じながらも、はっきりと振ることもできないでいる。

 光樹のことは無条件で好きだ。いつでも、優しく包み込んでくれる。だが、もう一人の男もまた優しかった。かといって、今すぐに彼の胸に飛び込むことはできない。
『恋人じゃない。友達でもない。じゃあ、何・・・?』
 今や隣にいる男のことで、思考が支配されていた。
 彼は武司やかつての啓二のような、強引な男ではない。今まで、完全に彼らに気持ちが傾くことはなかった。あくまでも体だけの関係で、いつでも、心は光樹のものだった。涼は彼らとは正反対な男なのだ。思いつめる面はあるけれど、むしろ、光樹に近いタイプなのではないか。だから、悩むのだろうか。
『この人・・・』
 清太は、柵の上で腕組みをしながら横を振り向いた。彼は、まっすぐに海を見ている。と、氷川丸のデッキに戯れる観光客が気になったのか、そちらに目を向けた。そこで、見ていたことに気付かれた。目が合うと、涼は言った。
「大きいね。やっぱり近くで見ると・・・。夜になるとライトアップされて、きれいなんだろうな」
 その表情も、爽やかなものだった。風に、さらさらとした髪がなびく。そう言われ、清太も腕から顔を上げ、氷川丸を見た。その時何故か、彼と船上でディナーを囲む場面を思い浮かべてしまった。だが先ほど一緒に食事をしたせいか、さほど違和感を感じなかった。

 涼は、涼は――、自分を光樹から奪う気があるのだろうか。本気だというのなら・・・。ふと清太の心に、新たな疑問符が生まれた。だが聞いて、「ある」と答えられたら・・・? 自分は光樹と別れられるのか。いや、光樹と別れる理由などない。あるといえば、彼に対して不貞を働き続けていることだ。
 本気でなければいいと思っていた。他の男と逢う時、体だけの関係なら、許されると思っていた。最後に彼のところに戻りさえすればいいと・・・。だが今、涼はそんな存在でなくなりつつある。
 どうしてあきらめてくれないのだろう。恋人がいると、分かっているのに。
 そうはいっても、自分は彼から愛されることを望んでいないといえば、嘘になる。あの時、あの絵を見た後、「裏切らないで」と言ってしまった。何故、そんな言葉が迸ってしまったのか。

『まさか、僕は・・・』
 清太はまた、正面の海を見る。
『彼の優しさに酔っているだけ? 錯覚しているだけ? それとも・・・』
 肯定したくない。その形がどんなものかも見えない、今は・・・。
 もし、光樹と過ごしてきたものと同じ時間が、涼との間にあったなら・・・。先に出逢ったのが涼だったのなら、今と同じ気持ちでいるだろうか。
『愛・・・。愛って何・・・?』
 彼はクリムトの『接吻』を思い出していた。
 あの絵で、涼の気持ちは証明された。『接吻』を見ることで、彼の言葉による代わりに、改めて”告白”されたような気持ちだった。

「疲れた?」
 清太が何も言わずじっと海を見ているだけなのを感じてか、涼は声をかけた。
「ん・・・ちょっと・・・」
 清太は涼のほうを見て答える。
「座る? ちょうどそこ空いたし」
 後ろを振り向く。ベンチの一つには今まで20代前半くらいのカップルが座って語らっていたのだが、先ほど席を離れたようだ。二人はそこに腰かけた。
「食べる? どれか・・・」
 涼は中華街で買った、ビニール袋に入った中国菓子の詰め合わせを取り出した。
「あ、うん。これがいいな」
 と、清太は小麦粉で練った生地であんを包んだ、月餅の一つを取り出した。涼も別の月餅を取り出す。二人、海を見ながらそれをほおばった。
「おいしいね。そんなに甘くないし。あ、俺ジュースかなんか買ってくるよ。待ってて」
 一つ食べ終え、清太が頷くのを確かめると、涼は売店のほうへ駆け出した。
 彼のほうも、気持ちは軽くなっているのだろうか。朝会った時に比べると・・・。デートを楽しんでいる、といった感じだ。

――体だけの関係なら楽だ、というのは、相手の気持ちを無視していないか? それこそ、相手に対して不実だ。それを涼に対して強いるのは、残酷ではないか?
 光樹に対するものと涼に対するものと、自分は二重の不実を働いている。
 自分の曖昧な態度が、きっと彼を苦しめている。
 お菓子の入ったビニール袋を持ち、買い物をした紙袋を脇に置いて海や周りの観光客を眺めながら、清太は思考に耽った。帽子を被った自分の頭の影が、白いジーンズの膝に落ちている。その影は、地面にまで届いている。美術館を出た時よりは、日が傾いてきたせいだろう。
 彼と長くいればいるほど、彼のことで思考は満たされてゆく。彼のことばかり考えてしまう。今日会ってから、一日のことをゆっくりと思い出す。すると、彼の優しさが身に染みる。今、彼に応えたい自分と、そうでない自分とがいる。帰る時までに、この曖昧な気持ちをはっきりさせなくてはならないのだろうか・・・。

「こんな懐かしいのがあったよ」
 売店から戻ってきた涼は、少し息を切らせながら、両手に何かの瓶を持って立っていた。瓶は半透明で青い。彼から瓶を受け取ると、それはビー玉の入ったラムネだった。
「へえ」
 清太も懐かしさに、思わず声を出した。子供のころ、駄菓子屋などではよく見かけたが、今はあまり見なくなっていた。清太は瓶を、日にかざしてみた。反射を受けて、あちこちがきらきらと光った。すぼまった首のあたりにあるビー玉も・・・。
 涼は再び座る。
「これさ、昔中にあるビー玉、絶対取ろうとしたよね」
「うん、ある。でも、取れないの」
「そうそう」
 彼は笑って、一口飲んだ。中のラムネ・ソーダが流れていくと、ビー玉がころころと可愛らしい音を立てた。それを見ると、清太も一口飲む。その冷たさに、暑さも若干引いた。
『しばらく、考えるのはよそう』
 彼の笑顔を見ると、清太は思った。

 二人でお菓子を食べたり、ラムネを飲んだりしていると、目の前を家族連れが行き過ぎた。子供は二人で、どちらも小学生らしい。野球帽を被った兄に、麦わら帽を被り、淡いピンクのワンピース姿の妹が駆け寄った。それを、後ろから両親が微笑ましそうに眺めている。絵に描いたような、休日の家族・・・。
「涼ってさ・・・兄弟いるの?」
 それを見ながら、清太は聞いてみた。
「兄弟? うん、姉貴が一人いるよ。君は?」
「僕は・・・一人っ子」
「そうなんだ」
「お姉さんとは、いくつ離れてるの?」
「3つ。今は、家出て仕事してるんだ」
「ふうん・・・」
 きっと、その姉も美人なのだろう、と清太は思う。
「・・・今、親にはこっちの人間だってことまだ隠してるけど、姉貴だけにはばれちゃってさ。でも、姉貴は俺のこと理解してくれた。ばれそうになった時に、かばってくれたりさ。だから姉貴には、なんでも話せた」
 さりげなく、涼はそんなことを告白した。
「そう、いいお姉さんなんだね・・・」
 彼には女の兄弟がいるっぽいな、とはなんとなく思っていたので、清太は納得しながら聞いていた。自分にも兄弟がいたらな、と羨ましくもなった。姉、兄、妹、弟・・・。昔から、欲しいと思ったことは何度かあった。が、そのうちにいない分、友達とたくさん遊べばいい、と思うようになった。

「次さ・・・どこ行こうか?」
 お菓子をいくつか食べ、空になったラムネの瓶を見やりながら、涼は聞いた。
「うん・・・」
 清太は少し考えた。体や首を回し、周りを眺めてみた。・・・と、目に止まったものがあった。
「あれは・・・?」
 清太が目で指す方向――背後に涼も首を向けると、そこには高い塔が聳(そび)え立っていた。
「ああ・・・マリンタワー?」
「そう」
「上ってみたいの?」
「うん。あそこって、確か鳥がいっぱいいるんだよね」
「鳥? ええっと・・・バードピアっていったかな? 放し飼いになってるってやつ」
 涼はガイドブックで読んだことを、ここでも思い出した。
「鳥、見たいんだ。・・・どう?」
「そうだね・・・」
 涼は考えた。日本丸を見た後、観覧車に上りたいと自分が言った時は、頑なに拒まれてしまった。それが、どういった彼の心境の変化なのだろうか。観覧車とは違って、密室ではないからか。だが、彼が上りたいというのなら、こちらが拒む理由はない。鳥を見た後でもその前でもいい、やっと、二人で横浜を一望できるのか・・・。嬉しさに、涼は立ち上がって言った。
「うん、行こうか」


 山下公園と道路を挟んで立つ巨大な塔、マリンタワーは、昭和36年に建てられた展望台兼灯台で、ギネスブックにも「世界一高い灯台」として載せられている。鉄塔の部分は白と赤で塗り分けられ、その上に展望台、最上部に灯台室が載っている。これもまた、横浜のシンボルとして観光客が集まる場所になっていた。
 二人は先に「バードピア」に入ろうとしたが、展望台利用者は料金が割引になるそうなので、先に展望台へ上がることにした。エレベーターで、まずは展望台1階に降りる。ドアが開けられた瞬間、大パノラマが目の前に広がっていた。清太はすぐ、窓のほうへ駆け寄った。他の観光客も、それぞれいい場所に陣取ろうと、窓のほうへ散らばる。
「すごいね。360度これだって」
 涼が清太の横に立って言った。
 先ほど二人がいた山下公園も、氷川丸も、さらにはその前にいたランドマークタワーや観覧車も小さく見える。
「なんか、ミニチュアみたい」
 窓に手をついて、山下公園の木々を見ながら清太は言う。表情は柔らかい。
「そうだね」
 涼も微笑む。
 歩いて、ぐるっと一周してみると、東にベイブリッジ、南に外人墓地、港の見える丘公園、さらに幸運にも今日は天気が良いので、遠くに富士山や房総半島、三浦半島まで見えた。二人は感動した。
 来て良かった。涼はつくづく思った。清太の一番の目的が、この後の鳥を見ることだとしても、今こうして、二人で高いところにいる、ということが、涼にとって幸せなことだった。武司も光樹もいない、空中の一点に、二人だけでいられる。
 一回りすると、また元の場所に戻り、そこでしばらく二人並んで、景色を眺めた。 


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