やがてY字路にさしかかった。左の道を行く。
 フロントガラスから空を見て、涼は言った。
「ここのところ、よく晴れてるね。もうそろそろ、梅雨明け宣言あるかな?」
 すると、清太も空を見る。
「うん・・・するんじゃない?」
 だが、抑揚はあまりこもっていなかった。
 信号待ちになる。涼は横のギアを動かした。歩行者が道路を横断していく。左に、コンビニが見える。信号は割と長そうだ。その間、彼は次に清太に、何を話せばよいのか考えていた。せっかく普通な会話ができて、いい雰囲気になれそうなのに、ここでまた彼の気分を損ねるようなことを言っては、喧嘩になってしまう。しかし、気になることは多々あるのだった。

 信号が青になった。先に、清太が口を開いた。
「あのさ・・・。今、大学って試験期間なんじゃない? 光樹も来週からだって言ってたし。いいの、こんなことしてて・・・」
 「こうき」と聞いて、涼は誰のことかと一瞬考えたが、すぐ分かった。彼の口から、彼の恋人の名前が出たのは初めてだったので、涼は細い剣の先で胸を突かれるような、小さな痛みを覚えた。
「いいんだ。大学の試験って、教科書を暗記していくようなものじゃないから・・・。その場で文章書かされるのが多いんだ。だから、普段授業聞いてれば、だいたい書けるんだ」
 前方の景色を見ながら、涼は軽い感じで答えた。
 「こんなこと」・・・呑気にドライブなんかしている暇があるのか、ということか。
「あ、そう・・・」
 清太はシートに背中を沈めながら、力なく言う。

 頭上に高速道路が交差しているのを見届けると、今度はX字路が見えてきた。今度も左を行く。あとは、ほぼ1本道で横浜まで行ける。
「・・・高校は? 試験」
 逆に、涼が聞く。
「終わったよ。後は、簡単な授業しかない」
「そう。もうすぐ、夏休みだね。何か、予定ある?」
 聞いてから、涼は反省した。「予定」といったら、清太に彼氏とのことを聞いてしまったように思われるかもしれないからだ。立ち入りすぎと思われるだろうか・・・。

「まだ、具体的には何も。部活だってあるし・・・」
 清太は「まだ光樹とは打ち合わせていない」、とはあえて言わなかった。先ほどはつい口をついて出てしまったが、涼などに恋人の話をするのは、気が進まない。
 涼は新しい話題ができたと、ほっとした。
 道の両脇には、ディスカウント・ショップ、大型スーパー、レストラン、ラーメン店、ガソリンスタンドなどが次々と通り過ぎていった。ディスカウント・ショップやラーメン店などは、どれもテレビで数回紹介されたことのある、有名なものばかりだ。16号脇には、こういった景色が多い。
「部活って、何やってるの?」
「・・・サッカー」
 それで、涼の疑問が一つ晴れた。だから、あれほど体ができているのか・・・。そういえば、抱いた時のことを思い出すと、太腿などは固かった。顔はこんなに可愛いのに・・・と改めて思った。以前本で見た、古代ギリシャやローマ、ルネッサンス期の、少年の姿を彫り出した彫刻がふと浮かんだ。それらの彫刻には、不釣合いなようでいて均整の取れているような、そんな不思議さがある。

「・・・涼」
 清太が、今日初めて名前を呼んだ。涼は少し横を見た。彼は涼のほうは見ず、左腕で頭を支えながら、横の窓にもたれかかっている。
「何?」
「いつも美術館とか、行ってるの?」
 相変わらず、清太のほうからもこの場を荒立てることを口にしてこない。涼は彼が口を開く度に緊張していたのだが、今のところは助かっている。
「ああ。昔から絵を見るのが好きで、美大に行きたかったとか、そういうんじゃないんだけど、授業が休講になった時なんかに、一人でふらっと見に行ったりするんだ」
「へえ・・・。涼って、絵とか描くの?」
「いや。自分じゃ、そんなには描けないよ。だから、受験も普通大学だけ。なんていうか、そういうのを研究する人になるのもいいかな、って思ってる」
 彼に自分の将来のことを話すことに、涼は嬉しいけれど恥ずかしい、という感じがした。
「でも美大って、芸術学科とかもあるんでしょ? そういうとこは受けなかったの?」
「うん。・・・美大ってお金かかるから、あんまり親に負担かけるのもあれかなって思って・・・。見るほう専門だし、普通大学でも、芸術だけじゃなくてそれ以外に広く勉強できるし」
「・・・ふうん。そうなんだ」
 今度は初めの頃よりは、興味のあるといった声だった。

 清太のほうでは、1日デートをするのに、相手のことをよく知らないままなのもしっくりいかない気分がしたので、何気なく聞いたのだった。だが聞いてみて、意外と真面目なのだな、と思ってしまった。いや、意外でもない。彼は武司やヒロに比べれば、いつでも生真面目だ。今まで、彼のことをそこまで考えたことがなかった。かといって、まだ彼を完全に許したわけではない。生真面目なくせに、一度は信じた自分を裏切ったのだ。
 清太はさらに聞いてみた。
「どんな人が好きなの? この間言ってた、クリムト・・・?」
「うん。一番好きなのはね。オーストリアの画家なんだけど、そこの美術館から本物が来るっていうから、どうしても生で見たくて・・・。他に、エゴン・シーレなんかも来るんだ。あと好きなのは、ギュスターブ・モローとか、そういう、世紀末象徴美術みたいなのが興味あるんだ」

「・・・それ、知らない」
 清太は聞き覚えのない画家の名前や美術用語を言われて、少し困った。
「あ・・・ごめん。でも、これから見に行けば、分かると思うから・・・」
 涼が今日清太を美術館に――横浜へのドライブに誘ったのは、決して絵を見たいという、それだけの理由ではなかった。恋人でなくとも、せめて恋人同士みたいに振舞いたい、そんな1日を過ごしてみたい、との切なる願いがあったからだった。

 車内がだいぶ冷えてきた。それを感じてか、清太が体を振るわせた。
「あ、寒い? 温度下げる? それとも、窓開ける?」
 清太はもたれかかっていた体を起こした。
「風に当たりたい・・・」
「じゃ、開けていいよ。今切るから」
 言われ、清太は窓を下げるボタンを押した。風が隙間から入り込んで、二人の髪を乱した。涼のほうは、窓は閉じたままにした。
 しばらく、会話が途切れた。
「ねえ。今日、CDとか持ってきてる?」
 景色を見ていた清太が、やっとこちらを向いて言った。
「え、うん。あるよ。何か聴く?」
 少し嬉しく思いながら、涼は言う。
「いいよ。涼が好きなので・・・」

「そう、じゃあ・・・」
 信号待ちが来るのを待って、涼は1枚を取り、ケースから出し、かけた。
 それは、この間涼が一人で聴いていたバンドのCDだった。あの、片想いの男の歌が入っていない、別のアルバムを持ってきていた。初めは、アップテンポな明るい曲が始まる。伸びやかで透き通った男の声が、車内に響いた。車外にはそれほど漏れない音量をと、涼は気を付けてダイヤルを合わせた。
「これ・・・好きなの?」
 曲に耳を傾けながら、清太は口を開いた。
「ああ。デビュー当時からずっと好きなんだ」
「ふうん・・・」
 その後の言葉が続かない。気になって、涼は聞いた。
「あの・・・君も好き・・・かな?」
「うん、まあね・・・。この人、高い声がきれいだから・・・。詞もいいし・・・」
 やっと共感できるものを一つ見つけられて、涼は嬉しくなった。

 だがやがて、バラードになった。このバンドは、深い感情を歌ったバラードがまた人気の理由の一つだった。聴いているうち、涼はまたたまらなくなってしまった。彼らの曲には、聴いている者の気持ちを裸にしてしまう力がある。なんの気負いもてらいもなく、魂だけで作られた歌・・・涼はいつも、そんな感想を持っていた。今は、両想いの二人の歌が流れている。恋人たちの・・・。
――ついに、涼はずっと気にかかっていたことを言葉にした。
「・・・あのこと、ほんとにごめん。もう、二度としないから・・・」
 出された声は、静かなものだった。
 清太が一瞬膝の上に置いていた左手に、力を込めるのが分かった。
「・・・当たり前だよ」
 清太は左手を、今度ははっきりと膝の上で握りしめた。涼とは離れた側の手だ。

 それきり、沈黙が訪れてしまった。
 それは覚悟していた。だが、言わずにはいられなかったのだ。電話だけでなく、直接言わなければならないと、ずっと思っていた。そうでなければ、不誠実だ。
 俯いた清太の髪が、風にあおられて乱れ続けている。
 もう一つ、涼はここで聞いた。
「あれから・・・売りはやってないよな?」
 さらに清太は体を強張らせた。
「・・・どうしてそんなこと聞くの?」
「答えてくれ。・・・ただ心配なんだ、君が・・・」
「・・・やってないよ。あの日あんたと会って、しらけちゃったから・・・」
「本当に?」
「やってない。それに、やっぱり彼氏が一番好きだから・・・悲しませたくないし」
 その口調から、嘘ではないと、涼は判断した。思い直してくれたのか、と安心した。
 悲しませたくない・・・と彼は言った。だが、今自分は清太に、清太の彼――「こうき」を悲しませることをさせているのだ。それで、涼は複雑な思いにかられ、また胸を痛めた。


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