国道1号線と交差しているところで左に折れ、高島町で電車と首都高速横羽線の高架橋をくぐり、みなとみらい21地区へと入る。右手に目指す横浜美術館、その向こうに横浜のシンボル、ランドマークタワーがそびえている。地上70階の高層ビルだ。周りに従う建物は白を基調とした外壁で統一感が保たれ、清潔さを感じさせる。そのどれもが、窓や壁に光を浴びて、白さが増している。もうひとつの横浜のシンボル、コスモワールドの大観覧車も見える。
みなとみらい大通りへとさらに入り、美術館の近くに着いた。美術館にも駐車場はあるが、利用時間は開館同様10時からなので、まだ開いていないだろう。涼はちょうどそばにある有料駐車場を覗いてみた。
「よかった。まだ空いてる」
彼は駐車場の案内表示を見て言った。車をそのまま進ませる。そして入口でチケットを受け取ると、空いているスペースへと停めた。
車内に流れていた音楽も止まる。沈黙を埋めるように流れていた音楽が。
「もういいよ。降りて」
俯く少年に声をかけ、涼は自分も降りた。清太はわざとにも見える仕種でもたもたとシートベルトを外し、ドアのロックも外して開け、ゆっくりと地面に脚を下ろす。
降りた後、しばらく動かずにじっと車のフロント辺りを見つめている。
「どうかした?」
「・・・この車、涼の?」
車から視線を離さずに、彼は聞いてきた。髪がふわりと横顔に流れた。
「いや、車は親父のだけど・・・。買う時は一緒に見に行ったんだ。色は俺の意見。青が好きでさ」
「そう」
それきり、また会話は途切れる。車を気に入ってくれたのだろうか、と思ったが、今の彼の口からは褒めてくれるような言葉を望むのは無理だろう。あきらめ、彼は少年を促し、駐車場の外へ出た。
美術館を正面から見ると、アールデコを感じさせるこれも白を基調としたシンプルな造りで、真中には採光のための三角形4面からなるガラス張りの覆いが見える。そこから下に向かってまっすぐに、2本の柱が降りている。そこから伸びる両翼の、建物下部は回廊のようになっていて、柱が整然と並ぶ。ガラス覆いの向こうには、展望台らしいものがある。
美術館前は「美術の広場」と呼ばれ、涼しげな噴水、季節の花に彩られた花壇が設けられていた。それらを見て、涼は心が安らいだ。
開館前だが、すでに館の前にはチケットを買い求めるための列ができていた。
「学生証持ってきた?」
涼はあとを歩く清太のほうを振り向いた。
「うん、一応・・・」
清太は白いパンツの後ろのポケットからそれを取り出した。反対側のポケットからは、財布を取り出す。
「あ、それはいいから・・・」
涼は財布のほうを戻させようとした。すると清太は眉を歪めた。
「自分が出すってこと? 嫌だよ、割り勘にして」
「でも、ここだけでも出させてくれないか」
誘ったのは自分だから、と言おうとしたが、恋人でもない自分におごってもらうのは清太は嫌なのかもしれない、と考えた。それでも、この場だけは自分が出したかった。
「頼む」
清太の目を見つめ、さらに言った。
清太はその視線に押されたのと、諍いを起こしてこんなところで環視されるのは嫌だったので、仕方なく折れた。
「分かったよ」
吐き捨てるように言い、財布をポケットに戻した。
「少し、時間があるね」
列で開館を待ち、涼は腕時計を見ながら言う。あと15分くらいか。入口外の掲示板には、『クリムトと女性たち展』という今回の展覧会名が入ったポスターが掲げられていた。そこには、今回メインとなる絵画の写真が載っている。これを見るために、今日はここへ来た。彼は周りを見た。クリムトは女性にも人気があるせいか、若いカップル――もちろん男女の――が多かった。それにしても・・・。清太の美しさはここでも際立っていた。
『下手をすれば、その辺の女の子たちなんかよりもずっときれいだ・・・』
涼は思った。化粧をした彼女たちよりも、だ。なんとはなく、誇らしげな気分になる自分がいた。はたから見たら、自分たちは恋人同士に見えるだろうか・・・いや、この状況では、やはり無理か・・・。”常識人”から見れば、きっと男の友達同士にしか見えないのだ。
涼は視線を上げた。その巨大さのせいで、迫ってくるように見える大観覧車「コスモ・クロック21」は、1周するのに15分ほどかかるという。今日は他にも行きたいところがあるので遊園地には入らないつもりだったが、清太が許すなら、あそこにだけは上(のぼ)ってみたい気もする。ゆったりと、ゴンドラたちは回っている。あの中にも、恋人たちがいるのだろうか。自分たちとは違う種類の・・・。
やがて開館時間になり、列が動き出した。入口では涼が自分の大学の学生証と、清太から預かった高校のそれを見せて2枚のチケットを買った。涼はその時、ふと思いついたことがあった。今は見なかったが、ひょっとしたら学生証を挟んだケースのその内側に、「こうき」の写真が潜んでいるかもしれないということを。
窓口から離れ、制服姿の真面目な顔で写っている清太の、美しい証明写真を見つめた。中を開けて見たかった。しかし、目の前には学生証の持ち主が怖い顔で立っている。
「早く返して」
「あ、ああ、ごめん」
急かすように言われ、涼は彼にそれを返した。清太はふん、とでも言いたげにそれも後ろのポケットに戻す。
2、3階が吹き抜けになったエントランスホールを歩き、展覧会場へと入った。
チケットを係員に渡し、半券を切ってもらう。そこで今回のカタログも売っていたので、涼はそれを買った。清太は買わなかった。
まず会場に入ってすぐのところに、猫を抱いた作業着姿の画家・クリムトの大きなモノクロ写真パネルが掲示されていた。写真の横に、彼のプロフィールと今回の展覧会の趣旨とが書かれた解説文が載っている。足首まで隠れた、ゆったりとした濃い色のスモックのような作業着を着て、画家は微笑んで立っている。頭頂は禿げ上がって、額のすぐ上にわずかに髪を残すのみだ。しかし両脇にはふさふさとしたものが見られる。額には濃い皺が刻まれ、あごひげが立派だ。見る者は男性そのもの、という印象を受ける。猫は白黒のぶち猫。飼い主の右腕の上に、ちょこんと可愛らしく顔を乗せている。その表情は、抱かれていることを少し不満に思っている、という感じだ。この写真には、クリムトの人間臭さがにじみ出ている、と涼は思った。
写真パネルの横には、画家の経歴が書かれた別のパネルが貼られている。後ろの壁は白く、オレンジ色の証明に照らされている。ふと目をやると、各絵画作品が展示された壁も白い。
順路の表示板に従い、二人は歩を進めた。初めはデッサンや習作が彼らを迎えた。だが横の清太を見ると、居心地が悪そうな表情を見せていた。絵のほうをあまりまっすぐ見ない。
「涼・・・。よく平気で見られるね」
展覧会のテーマ通り、今回は女性を描いた絵が多かった。というより、クリムトという画家は専ら女性を描く画家なのだ。デッサンはヌードのモデルを描いたものがほとんどで、中には鑑賞者が恥ずかしくなってしまうような、際どい姿態をしたモデルの絵もある。クリムトだけでなく、ここには彼が才能を見出したエゴン・シーレやオスカー・ココシュカのそれも展示されている。シーレのそれは、師匠のものよりも際どさが感じられる。
清太の言わんとしていることは分かる。自分たちは同性を愛する部類の男だ。女の体には、嫌悪感を感じるはずだ。なのに・・・。それに答えようと、涼は口を開いた。周りに聞こえないような、彼にだけ聞こえるような大きさの声を出した。
「ああ・・・。女に興味がないから、かえって静物画を見るみたいに落ち着いて見られるんだ、俺・・・」
絵が好きで、それでも中高生の頃は女の体を描いた絵を見ることには抵抗があった。冷静に見られるようになったのは、ようやく大学生になってからのことだ。それを思うと、高校生の清太にはちょっと刺激が強いかもしれない。それでも、一緒に見たい絵のところに辿り着くまでは、見てもらわないといけない。
今日見る彼らのデッサンに、涼は感動していた。人間の生まれたままの姿、見たまま自然なままの姿を短時間で的確に描ききる画家の力量に、舌を巻く思いがした。エロティックではあるが、それらには微塵もいやらしさを感じない。クリムトの絵は特にそうだ。色の着いたわら半紙に描き付けられた人間たちは、自然そのものだ。彼は生涯に何千枚ものデッサンを残したという。人間の生きた感情を表現するために、彼はモデルを見つめ続けたのだ。
「でも、裸ばかりじゃないよ」
涼は笑って少年に言った。
Hot Spice
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